日照戻る

 今日は久しぶりに朝から晴れた。日中は真夏日になったがこれこそかつての夏の一日だった。確かに暑いが夕方には収まり、非人間的な酷暑はない。昔の8月上旬に似ていた。もちろん日没時間は違うので単純な比較はできない。

 このところ雨か曇天の日々が続いていたので今日は少し気晴らしになった。猛暑に馴化した身の上では長すぎる秋雨前線の元の毎日はつらかったのだ。しかし、今度は次の天候への対応が必要になる。このところの急激な気候の変化は、体調不良を引き起こし、例えばインフルエンザの流行がすでに発生している。人混みの中を毎日移動している私もいつ感染するか分からない。

 天候の異変を嘆いたところで何も得られることはない。流れてゆく季節の中でその都度対応するしかないのだ。晴れても降ってもそれに合わせるしかない。それが生きるということであり、それ以上のものはない。

未知の経験

 未知の経験という言葉には魅力が溢れている。これまで経験したことがないものに直面できるのならば、そこに何らかの収穫はあるはずだ。損失もあるはずだが、マイナスよりもプラスの方が大きいことは予測できる。楽天的な思考においてはこれが自然だ。

 しかし、現実はそんなに生やさしくはない。未経験の事項についてはうまくいく確率は少ないし、やり遂げたとしても評価されるとは限らない。未熟の範疇として片付けられてしまうことが大半だ。

 誰でも最初の一回はあると励ましてくれた人の言葉をはなぜか忘れられない。この言葉はこれから何度も使えると思ったからだろう。この齢になってもやったことがないことだらけだ。しかも挑戦することを避けることが増えている。

 一回目がなければ始まらない。このことを思い返そう。

 

中国史劇の人物描写

 中国の史劇を見て思うのは、登場人物の多彩さである。何人もの人物が登場し、場面が変わるとあっけなく消えてゆく。始めのうちはそれが不自然でついてゆけない感じがした。かなり深刻なドラマが繰り広げられたのに、次の場面ではもう語られない。あっけないという言葉では表現しきれない。

 島国に密集して生活している私たちとは世界観が根本的に違うのだろう。非常に多くの人がゆき交う中で、繰り広げられる偶然のドラマが中国史劇の関心事なのだ。敗者になればそのまま前景から見えなくなり、消えた理由は特に語られない。日本なら、敗者も例えば怨霊という形で残り、いつまでも現世に影響を与え続ける。人間関係が濃厚であり、個々の人生が歴史に関わっている。

 そういう風土で暮らしている私たちにとって中国史劇の潔い人物描写は違和感を覚えるとともにエキゾシズムを感じるのである。似ているけれども全く違う。東アジアの芸術を観るときの感慨はここでもあてはまる。

バス移動のエンタメ化

 瀬谷で来年行われるグリーンエキスポの準備が進んでいる。このイベントの最大の懸念事項はアクセス問題だろう。会場付近には鉄道の駅がなく、自家用車かバスが使われることになる。恐らく、その拠点になるのが相鉄線の瀬谷、三ツ境、横浜線の十日市場、田園都市線の南町田グランベリーパークの各駅から運行予定のシャトルバスである。鉄道移動を習慣化しているこの地域の住民にはかなり不便に感じるはずだ。

 恐らくこのバス移動の時間、20分程度だと思うが渋滞を考えるとプラス10分をどのように演出するのかがこのイベントの成功の鍵を握るのではないか。移動時間を無駄な時間と感じさせない工夫がほしい。派手な設備投資はできないだろう。ならばラジオ感覚、いや今の世代の言葉を使うならポッドキャスト感覚の放送を流すのはいかがだろう。会場に着くまでの高揚感を演出出来ればいいので、ハイテクというより説得力のある音声パフォーマンスができればいいのだ。

 私はこのバス移動のエンタメ化を密かに期待している。恐らく急場しのぎでかき集めるレンタルバスにも簡単な車内アナウンス設備はあるはずだ。それを活用すればいい。イベント本体がどんなによくても集客できなければ成功とは言えない。そんなことを考えている。

涼しい朝

 今朝は気温が20℃以下となり、肌寒ささえ感じている。半袖シャツはそろそろしまいかと考え出している。予報では明日も同じような天気で、来週は夏日に戻るが、やはり日較差は大きく、季節の移ろいの確実であることを知らせている。

 猛暑の後に、豪雨、さらに長い秋雨ということで体調を崩しやすいようだ。異例の早さでインフルエンザが流行しており、ワクチン接種が間に合っていないとのことだ。天候だけが理由ではないが、それも要因の一つであるというのは間違いない。

 今日の涼しさを体調管理の大切さを思い出すきっかけとして記しておこう。秋来たりなば、である。

雨続き

 このところ雨ばかり降っている。特に午後から夜にかけてまとまった雨が降り続き、日本各地で被害が出ている。秋雨前線と元台風がもたらした南方由来の湿った空気がなすものという。梅雨が短かった分の精算をしているかのようで懸念している。

 去年読んだ「百年の孤独」には何年も振り続く雨の描写があった。なぜかそれを思い出し、凶兆でなければよいがなどと根拠のない心配をしている。不安の種はどこからでも現れるが、このところの長雨は少し恐ろしい気がしてきている。

 思えば気分の落ち込みが自覚され、これではならぬという思いが余計に焦りを増している。やらねばならないことはいくらでもあるのにそれを後回しにして日々を過ごしている。ごまかしではないかと自問自答して止まない。

 心情なるものは自分の状況と周囲の環境の相乗効果で形成されるものと仮説するならば、いまは負の要素が揃っているのだろう。組み合わせが変われば別の局面になるということにして、明日を乗り切ろうと決めた。

個性的な店舗の応援の仕方はないのか

 渋谷にあった郷土料理店が密かに閉店していることを知った。偶然、通りかかったときに閉店の告知が扉に貼ってあるのを見て知った。なかなか手にはいらない郷土料理を渋谷で食べられるのが魅力だった。少し価格が高いのが気になったが、故郷の味を楽しめるとなれば、それなりの価値はあったはずだ。もう少し貢献しておけばよかったと後悔している。

 外食企業は分かりやすいが、その他の業界でもチェーン店以外の業態を維持するのは難しい。独自路線を売り物にすることは消費者の選択の幅を確保してくれる大切な行動だ。ただ、大手資本の背景がなく、商品の質だけで勝負することはかなり難しい。消費者は質の良いものを求めたいという気持ちと、そこそこの品質だが安いものとがあるとき後者を選びがちだ。この消費行動が個性的な店舗を窮地に導いている。

 篤志家でもない一般市民の私ができることは限られる。月に一度は高くてもいいものを提供している店に入ってみるということだ。それが個性的だが、経営的に行き詰まっている業者を救うことになる。それが生活の多様性を維持し、経済の強靭さを育てる。経営努力は当然大切だが、消費者側の俯瞰的な視点に立った行動も今後は求められるはずだ。

 日々の生活を特定の企業グループなり、大型チェーン店の商品で賄っている私にとって、ある意味エコノミーのルーティンを破ることになるが、何が贅沢なのか、何が社会貢献になるかなど様々な要素を考えなくてはならないと思い至ったのである。

天才の絵画に感動できるということは

 細密画を見るときにいつも思うのは、その制作過程の膨大な時間である。今のように人工知能が過去の図案からそれらしいものを組み合わせて作り上げることは根本的に異なる。自分の感じた世界を少しずつ、かつ着実に形にしていく過程において、どのような呼吸がなされたのか。会話や心中思惟はいかなるものがあったのか。創作を妨げるものがあったとしたら、それをどう乗り越えたのかといったことを思い巡らす。

 細密画だけではない例えばゴッホでも、ピカソでも、山下清でも岡本太郎でもいい。独自な世界観をどのように維持できたのか。技巧ではなく、彼らの深層の表現だとしたなら、それを長年にわたって維持できたのはなぜかと考えてしまう。

 理解の妥協案として彼らは天才であり、常人ではないという考えがある。これは極めて納得しやすく、己の非才との比較をするときも自分を傷つけることがない方法だと思う。彼らは格別で自らの及ぶものではない。それ以上は考えるべきではないというものだ。

 でもよく考えてみると、幾分かの矛盾を見つけ出してしまう。別格の才人が創ったものの良さをどうして評価できているのだろうか、ということだ。ぐにゃぐにゃの糸杉や遠近法のおかしい風景画を見ても感動できてしまうのはなぜかと思うのだ。これはまるきり別次元の人物の作品ではないのではと再考するきっかけになる。

 自分とは交流しようもない別次元の存在だと考えるのは、ある意味芸術を放棄することなのかもしれない。いまはAIがいくらでもそれらしいものを作り上げる時代だ。その作品に始めは驚き感動するが、どうも違うという直感を持つ。作品を作り上げるまでの濃密な時間を想像できない人工知能の描く作品は、何かが異なると感じてしまうからなのかもしれない。

 作品の向こうにいる作者の生活とか人生とか哲学とか、そういう形にしにくいものたちを私は絵画や彫刻の裏に見てしまう。恐らく自分が想像するものとはかなりかけ離れたものなのだろうが、少なくとも時間や空間、人間関係などの厚みを持ったものとして芸術作品は存在しているのだろう。

体力は落ちても戦い方はあるはず

 おそらく昔できていまはできないと考えていることの大半は体力ではなく、気力の差であると思うことが多い。体力的な衰えは否み難い。体力の中には脳の活動力も含まれる。体力が落ちれば能の働きも鈍くなる。

 ただ、問題はフィジカルだけではないと考えている。集中力なり、レジリエンスなりが落ちるのは体力的な要因だけではないのではないか。できるのにできないと思い込んだり、他者と比較して遅いと考えていることが物事を諦めさせているのかもしれない。

 何らかの工夫、発想の転換が現状の打開に繋がる。

ナマズの味

 子どものころ、父によく釣りに連れられた。父にとっての憂さ晴らしだったのだろう。魚釣りには月に2回以上は行き、長男はその共をする必要があった。このことはこれまでにも書いたことがあったと思う。

 川の釣りは気楽で良かったが、なかなか釣れないのと釣れてもその魚があまりうまくないことは大問題だった。川魚独特のなんというか泥臭い味は海の魚より劣っていると思った。ヤマベとかハヤはよく釣れたがうまい魚ではなかった。ほとんどが南蛮漬けなる調理法で料理されたが、私の好みではなかった。

 川魚で美味いのは鮎や岩魚などの魚だったが、なかなか釣れない。釣れると父が大袈裟に喜んだのも、なぜか好ましく思わなかった。いまなら、同じ反応をするかも知れないが。

 唯一川魚で気に入ったのはナマズである。外道として釣れたのであるが、見た目は醜くいい気分はしない。ただ料理すると群を抜いて美味かった。釣れたときは化け物のように見えたが、父はその味を知っていて持ち帰った。確かに癖がない、しかもウナギなどに通じる味わいだった。

 古代の魚食の記録をみると川魚が中心だ。嗜好は時代によって変化していくものらしい。子どものころに川魚をよく食べさせられたおかげで、こういう視点を持てるのだと思ってみることにする。