ナマズの味

 子どものころ、父によく釣りに連れられた。父にとっての憂さ晴らしだったのだろう。魚釣りには月に2回以上は行き、長男はその共をする必要があった。このことはこれまでにも書いたことがあったと思う。

 川の釣りは気楽で良かったが、なかなか釣れないのと釣れてもその魚があまりうまくないことは大問題だった。川魚独特のなんというか泥臭い味は海の魚より劣っていると思った。ヤマベとかハヤはよく釣れたがうまい魚ではなかった。ほとんどが南蛮漬けなる調理法で料理されたが、私の好みではなかった。

 川魚で美味いのは鮎や岩魚などの魚だったが、なかなか釣れない。釣れると父が大袈裟に喜んだのも、なぜか好ましく思わなかった。いまなら、同じ反応をするかも知れないが。

 唯一川魚で気に入ったのはナマズである。外道として釣れたのであるが、見た目は醜くいい気分はしない。ただ料理すると群を抜いて美味かった。釣れたときは化け物のように見えたが、父はその味を知っていて持ち帰った。確かに癖がない、しかもウナギなどに通じる味わいだった。

 古代の魚食の記録をみると川魚が中心だ。嗜好は時代によって変化していくものらしい。子どものころに川魚をよく食べさせられたおかげで、こういう視点を持てるのだと思ってみることにする。

疑問と反語

 反語という文法は疑問の中の一部であり、実際に使われる場面ではまったく同じ形を取ることも多い。何者かに答えを問うことを前提にしているのが疑問であり、それが自分自身の場合は反語であり、それ以外は疑問ということになる。

 反語は自問自答であり、あらかじめ否定的な回答を発問者が用意している。ならば、問う自分と答える自分が別々に存在しており、それらを使い分けていることになる。よく考えれば高度な思考形式だ。その不自然さ故か、反語には強調表現としての役割がある。

 現代語にもさまざまな反語表現があり、多くの人が使いこなしている。感情の深層を表現するときにもよく使われる。人に聞かせることを前提としていなかったのにも関わらず、実際には第三者に強い影響を与えるものになっている。

 自分に対する問いかけという行動を獲得できたのは人間の進化の大きな成果だ。しかるに、自分の考えを尊重せず他人のことばかりを気にし、常に多数派であろうとする現代人の傾向はやはり危険性をはらんでいる。反語表現どころか疑問も持たなくなったときに、人の運命は岐路を迎えるのだろう。

迷走する台風が次々と

 今年は台風の発生数が多く、しかも通常とは異なる進路をとるものが多い。その理由は地球温暖化による海水面温度の上昇や、偏西風の蛇行などの複数要因があるらしい。

 現在太平洋にある台風は一度北上した後に、円弧を描きながら再び南下するという予報が出ている。同じ海域に台風が居座るということであり、大変よろしくない。

 この台風の影響で中心から離れた地域で雨が降り続きやすい場所がある。最近も関東や北陸、また東北で豪雨が発生しているが、まさにそうした被害がいつもより長引く危険性があるということだ。これも今年の気象の特徴だろう。

 都市のアンダーパスで冠水の被害があったように、大雨に対応するインフラは必ずしも完全ではない。私の生活圏では、地下道があり、通勤に使っている。入り口に土嚢のようなものがいつでも置けるようにしてあるが、これも使用される場面があるのではと最近は考えるようになった。そして、そのバリアが機能しなかったときの悲惨な状況を推察している。

 天任せという言葉があるが、最近の天は予測不可能性が増している。いろいろなことを想定する必要がある。

 

氷河の崩落

 ネパールの大洪水と土砂崩れは氷河の崩落が引き起こしたものだと言われている。これが温暖化の影響である可能性も高いとされているが、もしそうであるのなら、今後もそういうことが起きることになる。

 地球温暖化が人為的要因によるものという一般的な考え方に従えば、この災害は人類すべてに責任がある。とりわけ大量のエネルギーを消費し続けているわが国を含めた国家は大きく関与していると言えるのだ。

 いま何ができるのかといえば選択肢は限られている。被災地の救援や復興支援は可能だろう。災害が多発する日本にはできることが多い。また、それを通して学べることもあるに違いない。

 肝心の氷河崩落への対策はといえば、温暖化の要因とされる二酸化炭素やメタンなどの放出を少なくする技術の発展に期待するしかないのだろうか。エネルギーの利用の工夫や、過剰な技術依存を再考せねばなるまい。人工知能を機能させるために莫大なエネルギーが費やされているらしい。これも考えものだ。世界中で起きている気候変動の諸現象は未来を考え直す最後の契機を与えてくれているのかも知れない。

始めること止めること

 このところ休みが取れて読書したり、いろいろ考える機会を得た。以前ほど集中力がないので、短期集中を心がけたが、やはりすぐに眠くなってしまうのは身体的問題であると割り切ることにした。気持ちはあるが身体ついていかないのだと。

 ところが、自分のやりたいことだけをやってみたところ、少しも眠くならない。むしろ時間が経つのを忘れてしまうほど熱中できたのだ。私の資質はここにあるらしい。出来高は無関係とするならば、関心を持ったことは懲りることなく続ける。そういう質なのだ。

 それなのに、いろいろな事情があってやりたくなかったことをやらされる。それが金になるから、ついやり続けてしまう。これまではそのことに気づくと思考停止をすることで深入りを避けてきた。日常を乗り切れたのはこの働きのおかげだ。

 ただ、どうだろう。少し考え方を変えてもいいのかもしれない。日常のなかでも少しずつ自分のやりたいようにできる時間と余裕を作ろうと考え始めている。そのためには止めることもいる。何かを始めるためには何かを止めなくてはならない。それを始めるのが9月の目標である。

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へそ出しおじさん、お姉さん

 中国では暑い時期にへそを出して歩くおじさんを揶揄する言葉があるそうだ。マナー違反という認識で語られるらしい。日本にはそういう人は少なくとも都会にはめったにいない。というよりも見たことがないが、女性の方はというとへそ出しはかなり増えてきた。おしゃれという位置づけだが、よく考えれば不思議だ。

 おじさんはだめで若い娘ならいいというのは、おそらく時代の偏見なのだろう。かつてはまったく異なる価値観があったはずだ。わが国もそうだが韓国の前近代の記録をみると、女性が乳房を露出するのは日常風景だった。それを猥雑だと考えるのは時代の価値観によるものだろう。

 ただ、私のような世代に言わせれば、若い女の子もおじさんもへそを出して歩くのはやめてもらいたいと思う。人前に出るときの格好にはそれなりの決まりがあってもいいと思う。似合うとかおしゃれだとか、逆にみっともないという問題ではない。近代社会が作り上げてきた習慣もしくは文化というものを尊重するべきだと思うのである。

 もっともこれはあくまで「個人の感想」である。これだけ猛暑が当たり前になった世界に服を着続けることが合理的とは言えない。へそくらい出して何であろう。いっそ夏は上半身は着用しなくてもよい、という考えも将来はあるのかもしれない。風紀が乱れるという考えも今を定点として考えているからかもしれない。私の知らない未来で、人々がどのような姿をしているのかなど、知りようもないのだから。

 最近は価値観の恒常性ということに強い疑問を持っている。宿世を退場する立場にとって多くを語るべきではないとは思うが、少なくとも今の価値観、人生観はやがて移ろいゆくものと予見しているのである。

自炊をしていた頃

 自炊を始めたのは単身赴任の父のもとに母が時々「救援」に行った期間のことであった。私は大学に入っていたが、弟は高校生だったと思う。自炊といっても、出来合いのものを温めるようなものであったが、弟などは魚屋でイワシを買ってきて刺身にしたりしていた。わが兄弟のサバイバル料理はこのころから始まったと言える。

 私にとって本格的な自炊の始まりはひょんなことでいきなり地方生活になった私の境遇による。富山県魚津市に勤めることとなり、住まいは隣市の黒部市になった。その頃は市内にコンビニエンスストアがなく、大抵の店舗が夜8時には閉店した。それに間に合わないと酒も買えない。アルコールの自販機はなかったからだ。

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 最初に覚えたのはなぜか親子丼だ。料理の教則本のようなものを見ながら、作ってみると意外にいけた。調味料の配合比をその都度計量スプーンで正確に測っていたからだろう。だんだんいい加減になり、日によって少しずつ違う味付けになるようになったが。酒のつまみにこんにゃくを炒めたものをよく作った。これもなぜか手に入れた独身男性向けの料理の作り方ビデオで学んだものである。その大半は酒の肴の類で結果的に家で飲む酒も増えることになった。

 富山は魚がうまい。いわゆる高級魚は都会の方がいいものが手に入るのかもしれない。いいのは下魚と呼ばれる魚だ。黒部市の生地の付近では「なんだ」という魚が切り身としてパックで売っていた。結構な量で100円足らずだ。いつも切り身で売っているので魚の正体は分からなかった。今調べてみるとタナカゲンゲというそうで、ナンダは黒部市付近での方言だという。深海魚らしくカニ漁での網にかかるのだそうだ。見た目はあまりよくないが鍋にするとかなりうまい。ひところはこればかり食べていたこともある。もっと有名なゲンゲも美味だったが、これらの魚は鮮度が落ちやすく県外には流通しない。地元でのみ食されたものであったようだ。いまはそのうまさが知られて、高級食材のように扱われているところもあると聞く。社会人になりたての私にとってはこうした格安の魚は実にありがたいものであった。

 ほかにも卵が1パックで1円(ただし、他の物を500円以上買った場合のみ)とか、富山県の伝統野菜ともいえる赤かぶやかもり(賀茂瓜)なども試してみた。赤かぶは簡易漬物器で塩漬けにしてよく食べた。そのころは何でも自分で作ろうとしていたし、作れないものは食べられなかった。いまは外食をよく利用するが、その頃は入りやすい店がなかったのに加えて、一人暮らしを始めたばかりの気負いもあって、職場の飲み会(これが多かったが)がない日はすべて自炊であり、インスタント麺を使うことも少なかった。

 外食産業が発達しておらず、閉店時間が早いというのは今では不便そのものとみなされるだろうが、いろいろな能力を育ててくれる大切な機会であったと思う。便利なことがいいわけではない。そんな当たり前の結論の話である。

 

悔い多く、望みも多し

 この齢になると悔い多く悩みさらに多い。ただ、多くの先人がいうように反省するのは若い世代に任せればいいと思う。もちろん人様に迷惑をかけるのは論外だが、自分だけに収まるものであれば大いに縮小再生産で結構だ。大切なのは他人の評価ではなく、自分の矜持を保つこと。それも他人との比較ではなく、自分が今生きている世界を肯定できればそれでいい。

 ただ、一方で今の持ち分で何か世のために残せることはないかという思いはずっとある。そう考え続けているうちに、自分の能力が漸減、あるいは急減していることに最近気づいている。今日できることが一ヶ月後にできることとは限らない。今の不摂生な毎日ではこの世からの退場がいつなのかも分からない。ならばやれることをやっておくべきだと思うのである。評価は後世に任せてやるべきことはやっておこうと。

 いまはインターネットで検索すれば自分のやりたいことの上位互換の例はいくらでも見つかる。ただ、それが自分の理想かといえば少し違う。やはり自分のやりたいことは別にあり、自分の考える妄想には幾分かの価値があるのかもしれないということも同時に発見できるのだ。

 ただ、自分でそういう考え方をまとめ、形にするのは手間とコスト、ときには犠牲も伴うから、既製品で満足しようと考えてしまう。大概はそれで何とかなるし、損得勘定からしてもその方が賢い。

 でも、それでもこういうやり方もあるんだと無責任に言えるのがシニア世代なのではないか。多くの駄作の中に、現状打破の萌芽がある。最新のテクノロジーは若い技術者によって生み出されるかもしれないが、これからの世界に適切な哲学は世代に関係なく生み出されるだろう。私たちの世代はこのことを忘れてはならない。

 経験知を言葉にし、さらに新しい知見を分かりやすく説明できるようにすることに私は今後の人生を費やそうと考えている。いろいろな衰えを感じている毎日で、それを断ち切るための精神的指針と言ってもいいだろう。

横浜市長辞任

 横浜市長が辞職することを決めたそうだ。部下に対するパワーハラスメントを本人も認めたようである。上に立つ者の資質を再考するきっかけになりそうだ。

 現市長は横浜のIR計画を白紙に戻した功績がある。横浜にカジノができればかなりの収益が見込めただろうが、治安の悪化や依存症の発生を未然に抑えることができた。これはおそらく他地域での実例が出てくれば正解であったことが分かるはずだ。

 グリーンエキスポの誘致など、興行的な挑戦もあり、決して無能ではなかったようだ。それだけに上司としての人間性に欠けていたことが残念でならない。

 午後は周囲の組織による監視や自浄機能が働くことが求められるはずだ。これはリーダーシップを牽制することにもなる。失態が組織を改善するならばよいが、かえって何もできない機関にしてしまわないか。そこに注目したい。

ロボットの運動会

 中国で行われたというロボットの運動会の映像を見て、いろいろ考えることがあった。そこに可能性をみるのか恐怖を感じるのかは立場による。人間より速く走れたり、高く遠く飛ぶことができるのは当たり前だろう。人間には進化の末の肉体の限界があるが、機械はそれを超えるように設計できる。運動能力が超越するのは容易だ。技術力の向上は肉体の進化とは比べものにならないほど急速だ。

 ロボットの行進を見て、誰もが脳裏に浮かんだのが軍事利用される危険性だろう。ドローンが国境を超えて正確に標的を攻撃している現在、二足歩行をし、しかも人間より速く移動するロボット兵士が、人工知能を積んで前線に送り込まれたならばという恐怖が浮かんだはずだ。これからの戦争はロボット同士が戦い、最終的には人間が支配されることになりそうな気がする。子どものころ見たSFがノンフィクションになりつつある。

 軍事利用は絶対に避けたいが、例えばこんなことを考えた人も多いのではないか。東日本大震災で福島第一原子力発電所の廃炉作業が強い放射線のために滞っているが、ここにロボット作業員を投入すれば解決に近づくのではないか。細かく正確な作業は人型ロボットが代替してくれるのではないかと。これが実現すれば世界中の危険箇所へのアクセスが向上し、救われる人が増えるのではないかと。

 平和利用の方法はいくらでもある。高齢化と、人口減少が進む我が国にとっては機械の労働力は不可欠だ。今でも工業用ロボットが活躍し、それに愛称までつけてしまう日本の精神風土は、ロボットを受け入れる環境がある。というよりも受け入れなくては立ち行かなくなる未来を多くの人が予見している。

 アイザック・アシモフが1942年に提唱したロボット三原則、すなわち人間にとって安全であること、人間に服従することと、その二つに抵触しない限り自己防衛が許されること、ということは当時としては絵空事だったのかもしれないが、今は真剣に考えるべき問題になっている。ロボットの運動会を見てますますその思いを強くした。