燕来る

 1週間前に実家の最寄り駅に燕が戻っているのを見た。営巣のための場所を決めているかのようだった。例年この駅には複数の燕の巣が架けられる。駅員に理解があることを燕は知っているのだろうか。

 私の住む街でも燕の姿を見かけるようになったが、凝ったデザインの駅舎には鳥の巣はない。人が多ければいいという訳でもなく、何か別の基準があるらしい。

 早口言葉のような燕の鳴き声を聞くとまた一つ季節が進んだことを実感する。

日焼け

 日中外で仕事をしてすっかり日に焼けてしまった。対策をしなかったため、見事に赤ら顔である。湿度が低かったので日陰は肌寒く、2つの季節が同じ場所にあった感じだ。しばらく好天が続く予報だ。

速読と精読

 速読するときに大切なのは文章の構造を俯瞰視することだろう。詳細まで見渡せない制約下では大体の構造を把握することが必要になる。どうなのかは分からなくとも、どのようなものかが分かれば、大間違いはしない。

 そのためには、論理の型を知っていることや、その目印となる接続語の性質を理解している必要がある。これらは普遍的な約束事であるから機械にも認識できる。人工知能の行う文章理解はこれを高速に作業した結果だろう。人間が人工知能に教えたことであるが、その手法は再び人間のものとしなくてはならない。

 精読はいわゆる行間を読む能力を要する。書いてはないがその背景にある事実、出来事、関係性、筆者や関係する人物の生活環境や感情といったものを加味していく。中には書かれていることとは別の意味が隠されていたり、暗喩の中に特別なメッセージがあることも考えられる。こうしたことを読み取るのはいわゆる速読では困難だ。批判的思考も動員して時間をかけ、場合によっては他者と読みを検討する必要もあるだろう。

 速読も精読もともに必要な方法だが、今は前者に注目がいき、AIの能力に敗北感を覚えている傾向にあると感じる。内心、文章はもう自分の力で読む必要などないとしている人も多いのではないか。精読の方法をしっかりと学ぶ機会はやはり必要である。

堂々と間違える

 同じように情熱を傾けたつもりであつてもその成果はさまざまだ。うまくいくときと何をやってもだめなときとがある。おそらくその極端な例が記憶されていて基準のようなものになっているのだと思う。実際はその時々の状況によるものだ。たまたまうまくいったこともあれば、失敗の連続で心が萎縮してしまったこともある。

 私は何かをやるときに過去の経験から逃れることが難しい。失敗した例があると、その繰り返しを恐れて余計うまくいかない。その難易度とは別に障害となるものが出来してしまうのである。そもそもやることを回避してしまうこともあるから、余計に克服できなくなっていく。

 その都度気持ちを切り替えて、過去の経験にとらわれないようにすべきなのだろう。これは言うは易し、行うは難し。今の私にできるのは堂々と失敗することに慣れるのに越したことはない。間違えることが決してものごとの末端ではないことを認識すべきなのだろう。

 

生産の儀式

 生産の儀式というのは正しい表現ではないが、私の場合は結構大切なルーティンである。それをすることで非日常の時空を無視やり現出する。それが今の私の必須の日課だ。

 日常の中に無理やりあやをつける。その人為的な所為によって私は安楽な平凡から少しだけ抜け出せる。だから時間があれば何かが出来るという訳ではない。むしろ暇な時間は限りなく空白の何しない時間になってしまう。何かをなすためには意図的にそれを行う準備をして、かなり意識して始める。

 いまの私にとっては何かをすることはこのように大げさな企てが必要だ。そのための方策をいろいろ考えいる。もっと自然に始められたらいい。かつてはそうだったが、懐古は止そう。面倒だが今は儀式あってのことなのである。

 

家族を戦場に送るな

 おそらくこんなことを言えば多くの人に非難されるはずだ。糾弾というレベルではない。存在自身を否定される可能性が高い。でも敢て言いたい。「あなたの家族を、大切な人を戦場に行かせるな」と。そんなことを言えるのは戦後の日本人だからだと批判されるのは必至だ。私の2代前の人の多くは戦場で死んだが、父母の代からは徴兵すらない。私も戦場を全く知らない。

 それでもやはり言い続けなくてはならない。家族を戦場に送るな、と。現在、世界の各地で紛争が起き、解決策を得られないでいる。かつて理想とされたグローバリズムは、画餅に帰して分断が進み、そのための紛争も絶えない。世界中のあらゆるところで戦いが始まる気配が横溢していると言える。

 先の戦争では家族を戦場に送ることは名誉とされた。万歳で見送ることが国民の義務とみなされていたのである。今後もし我が国が戦闘状態に入ったときには同じような気風が世間に横溢するはずだ。そのとき否と言える家族はどのくらいいるのだろう。私の生きている時代にもしそれがあるとすれば投獄を覚悟の行動をとる必要があると考えている。

 家族を戦場に行かせるな。それがささやかなしかし確実な反戦運動になるはずだ。

食べなれたものはおいしい

 私たちは日常的に食べなれたものをおいしいと感じる。これは食文化に大きくかかわる事実であり、幼いころから蓄積された味覚によるものだから理屈を超えたものといえる。

 東京から地方に行った人の中には、ここの料理は甘い、少し口に合わないということがある。味噌や醤油などの料理の基本調味料であり、かつ地域差のあるものがその原因になる。たしかに関東や東北地方の料理は概して塩味が強い。さらにそばなどのつゆは印象的だ。関東風はかつおだしにかなり濃口醬油を効かせて濃い味に仕上げる。関西風は昆布だしが主体で、薄口醬油を味の調整として使っているようだ。簡単なまとめをすると醤油で味をつける関東に対して、昆布だしでうまみを強調する関西風ということになる。私自身はどちらも好きなのだが、食べなれていないものを出されたときに違和感を覚える人も多い。

Photo by Rajesh TP on Pexels.com

 国内ですらそうなのだから、他国の人にとっては余計そうだろう。日本料理はおいしいと絶賛する外国人の姿がメディアにはいくらでもあるが、そうは思はない人が多数いることは確かだ。日本に来ている時点で日本文化に関心を持っているわけだから好感度を持っているのは当然なのだ。味の濃い料理、辛い料理を常食している人々にとっては日本の料理は味は薄く、淡白に感じるだろう。だしのもたらすうまみも感覚することが少ない人にとっては認識できないかもしれない。ゴボウや生ノリといった独自の素材は消化することも困難かもしれない。

 食べなれたものはおいしい。そうでないものは苦手である。当たり前のことだが、時々それがわからなくなる。食文化だけではない。自分にとって親しいものはよく見え、そうでないものは邪悪に見える。それが私たちの現実なのだ。

電車のワンオペ運転

 頻繁に利用する横浜線はこの春からワンマン運転が始まっている。運転だけではなく扉の開閉も運転手が行うもので、いまのところ大きなトラブルは出ていないようだ。

 このシステムの運用にはホームドアの設置や高度な自動列車制御装置が施されている必要がある。運転手の異常時にはセンターからブレーキをかけることができるらしい。自動列車制御装置の監督として運転手が乗車しているとまではいかないものの、それを目ざしたものになっているようだ。

 平常時には効率的で安全対策もなされているが、予測不可能な事態においてワンオペにはやはり不安が残る。天災などで列車が止まったり、乗客に異常事態が発生したとき、どのように対応するのかの説明は予めしておいた方がいい。車掌がいたとしても、多くの乗客に対応することは無理なのだが、それでも何らかの措置は取れる。それがないのなら、乗客に心得を知ってもらうしかないだろう。

 例えば車内広告、動画などにそういうものを入れておくだけでもかなり効果があるはずだ。

雨が多い春

 雨がよく降るこの頃だ。菜種梅雨というには少し遅い気もする。天気の常識はこの頃通用しないことが多く、更新しなければならないのだろう。春に3日の晴れなしなどというが、最近はもっとサイクルが短く感じる。

 桜はほぼ散って、ツツジが咲きだした。鉢植えのチューリップの中には花をつけたものもある。ハナミズキは順次咲き始め、花の季節なのだが、この雨がなんとも気分を削いでいる。

 この後また暑い季節になるのだろうか。やせていく春の先にあるやけに暑い季節に備えなくてはならない。

ラジオ

 今月からNHKラジオが一波減った。ラジオの大切さは身にしみている。前は小型ラジオを持って歩いていたが、それも電波の届かない場所も多い都会では不便ということで、スマートフォンのアプリを通して聴く方法になった。

 この方式を知ってからはかなり頻繁に利用していたのだが、私の使うスマートフォンにミニプラグがなくなってからは遠ざかっていた。数年前に変換プラグがいわゆる百均でも手にはいることを知り、今回の停波のこともあって久しぶりに有線イヤホンでラジオを聴き始めた。周囲にはあまり見かけないオールドスタイルである。

 ソーシャルメディアのショート動画を見るよりよほど価値があると私は感じている。