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体感を伴う教え方

 よく対話型の授業が大切だと言われている。私が生徒のころは一方的に教員が話し、それをノートに記録するという授業ばかりだったので、今のやり方はかなり違う。教える側になって気づいたことは本当に理解するためには、用語の記憶だけでは足りないということである。

 私のように国語を教えている場合はこの問題は切実だ。授業の大半は言葉だけでできており、論理的展開を教えるのも言葉で完結する。もちろん、説明用に幾分の記号を用いて図式化することもあるが、生徒側からすればそれは言葉の変形のようなものであり、腑に落ちる理解につながるものとは必ずしも言えない。厳しい言い方をすれば、教える側が説明ができたということを自己満足するための方法であり、学習者の利益になっているとは限らない。

Person in traditional Japanese clothing playing a flute seated on a wooden veranda with a garden and pond in the background
AIが生成した画像

 これは国語の成績が悪い生徒には顕著に表れる。言葉の操作が得意ではない生徒にどれだけ言葉を尽くして説明しても余計に混乱を招くだけなのである。言葉以外の要素を加えていかなくてはならない。例えば古語を教えるときにはその辞書的な意味を覚えてもらうことは最終的には必要だ。しかし「あはれ」は趣深いであり、「をかし」も趣深いと辞書にあればその違いは分からない。さらに「あはれ」は対象を見たときに思わず動く心の動きによるもので、感情的なもの、「をかし」は一度その内容を評価したうえでその素晴らしさをいう際に使う理知的なものといった説明がある。それはそうなのだが、この説明は両者の差異を自覚できた人には有効だが、そもそも何のことを言っているのか判然としない向きには、説明書きが長くなっただけのように感じるだろう。

 ならば「あはれ」や「をかし」を実際に体験してもらうしかないだろう。急激に心が動く感動体験を「あはれ」という経験を持ってもらうのが良い。無難なのは美しい花の写真や、悲しみに暮れる人の姿などの写真を見せて「あはれ」と言わせる。補助線として現代語の「ああ」から入るといいのかもしれない。感動のシーンが古語でいう「あはれ」につながる。対して美意識や価値観、道理などに照らし合わせて期待値を超えたものを見たときに出てくるのが「をかし」なのだとしたら、ちょっと考えてから判断を下す現代語の「なるほど」を出発点にして「をかし」に至らせるといいのかもしれない。月を見ようと思ったがあいにく雨、それでもそれを喜んでいる人がいるとする。なぜかと聞けば本当の月が見えない分、心の中で理想的な月影が見えているからだ、などと説明した後に「をかし」を言わせるといい。実際の用例ではこれほど分かりやすくはないが、根本の精神が理解できれば古文への親和感が増す。

 敬語についてもそのシステムを理論的に説明するだけではなく、身分の違う役割を演じさせて実感的に学習した方がいい。尊敬語を使うときの、使う側の気持ち、使われる側の気持ちを実感できれば理解は進むはずだ。敬意を払うべき対象が複数いる場合の語り手の気の使い方もまずは自分で感じた方が分かりやすい。言葉づかいで人間関係を構築しようとする日本語の仕組みは、おそらくその気遣いの在り方を知ることで深まるはずなのだ。

 生徒諸君が教科書や参考書で学習することはある程度自学自習でも可能だ。もちろん向学心を育成できていればなのだが。しかし、ここまで述べてきた実感の獲得というものについては他者の助けがあった方がいい気がする。授業においては古典の背景にある語感や当時の価値観、人生観の体感的理解を促す行動を中心に置いた方がいいような気がしている。

速読と精読

 速読するときに大切なのは文章の構造を俯瞰視することだろう。詳細まで見渡せない制約下では大体の構造を把握することが必要になる。どうなのかは分からなくとも、どのようなものかが分かれば、大間違いはしない。

 そのためには、論理の型を知っていることや、その目印となる接続語の性質を理解している必要がある。これらは普遍的な約束事であるから機械にも認識できる。人工知能の行う文章理解はこれを高速に作業した結果だろう。人間が人工知能に教えたことであるが、その手法は再び人間のものとしなくてはならない。

 精読はいわゆる行間を読む能力を要する。書いてはないがその背景にある事実、出来事、関係性、筆者や関係する人物の生活環境や感情といったものを加味していく。中には書かれていることとは別の意味が隠されていたり、暗喩の中に特別なメッセージがあることも考えられる。こうしたことを読み取るのはいわゆる速読では困難だ。批判的思考も動員して時間をかけ、場合によっては他者と読みを検討する必要もあるだろう。

 速読も精読もともに必要な方法だが、今は前者に注目がいき、AIの能力に敗北感を覚えている傾向にあると感じる。内心、文章はもう自分の力で読む必要などないとしている人も多いのではないか。精読の方法をしっかりと学ぶ機会はやはり必要である。

小説を教えることの意味

 現在の高校の学習要領では近代以降の文学作品を学ぶ時間がかつてと比較して少なくなっている。高校1年生が以前学んでいた国語総合は、教科書の大半が現代文編と古典編に分かれており、現代文の中に文学的な文章も収められていた。ところが、現在の現代の国語は評論文ばかりが収められており、小説や随筆、詩歌は言語文化という古文漢文が中心の教科書に収められている。

 現場としては古典の方が時間がかかり、成績もすぐに伸びる傾向にあるから、古典の時間を削って小説を読もうという方針は取りにくい。だから、羅生門とか山月記といった定番に触れることなく卒業してしまう生徒が増えているのである。とても残念なことだ。

 小説など読むより論理的な思考を高める方がいいというのがカリキュラム設定者の考えだろう。ただ、この方面に関しては急速に発展している人工知能ができることだ。それを操るためにはより高度なロジカルシンキングが必要なのは事実だ。でも、だからといって一意に定義できない文学的文章を切り捨てるのは危険である。書かれていることを額面通りにしか受け取れない人に未来はあるのだろうか。新しい世界を創造する力はあるのだろうか。

 小説のテーマは多くの場合明示されず、何を読み取るのかは読者の環境や経験に影響を受ける。ならばまったく自由な読みが可能かといえばそれは違う。あくまで作者が設計した世界の中で、登場人物たちの行動を把握しなくてはならない。高校の国語で問えるのはここまでであるが、そもそもそういった世界観の把握自体が小説を読み慣れていなければできないのだ。

 現場の教員はこの危うさに気づいている。行間を読む能力はやはり大切でこれが欠落すると人格形成上大きな損害が起きる。多くの国語の教員がそう考えているのを反映したのか、教科書会社は現代の国語の中に資料扱いという言い訳をつけて小説などを組み込む改定を行っている。東大が小説の問題を出し始めたのも何かのメッセージではないかと考えてしまう。

 文学を教えることの意味は人工知能がリードする世界にあってますます増していると言いたい。

読書感想文のあり方

 以前も書いたことがあるが、読書感想文を書かせることは大事だと思う。ただ、それは書評ではないことを踏まえるべきだ。

 生徒の書く読書感想文を読むと、相当な割合であらすじや本の紹介が含まれている。中にはそれが大半であり、これならば他人のレビューを引用したり、人工知能に書かせたりでできてしまう。極端なことをいえば、まったく読まなくても書けてしまうものである。

 でも、それを自分の感じたこと考えたことだけを書くとしたらどうだろう。本文の設定やストーリー展開に縛られることなく、自分を語ることを中心にするのだ。読書は自分を語るためのきっかけであり、触媒のようなものである。

 ならば読書感想文は自分を見つめ直す大きなきっかけとなる。特に若い世代でこれをすることは意味がありそうだ。

遠藤周作の母親像

 昨日行われた共通テストの「国語」は相変わらず、短時間で多くの問題を解く、反射神経と脳の若さを前提とした出題であった。昨年に比べると問3の実用文と、問4の古文が難しく感じられた。もっとも問3のような問題は解きなれていないということが主因であると考えられる。時間をかけずにいろいろな資料の要点をさっとつかみ取る力が試されている。これは人工知能の仕事のように思われるのだが。

 第2問は遠藤周作の小説からの出題であった。没後発見された遺稿とのことで、古い価値観のなかで自らの生き方を貫くことを拒まれた母親の姿を描いている。自伝的な小説ということだ。遠藤周作の作品の中に登場する弱さを受け入れ、罰することなく、寄り添っていくという母親像の原点はここにあったことを感じさせる作品だ。受験生の多くは遠藤作品を読んだことがないはずだ。社会から強いられる女性の生き方をどのように受け取ったのか気になる。

 社会でも女性の生き方についての問題が出題されたという。これはもしかして高市首相誕生効果なのかなどと勘ぐってしまう。女性の生き方はかなり変わったものの、いまださまざまな問題がある。そのことの問いかけならば受験生にとって意味がある。

狐の役どころ

漢文の授業で「戦国策」にある「虎の威を借る」という件を扱う。虎に捕えられ絶対絶命の狐が、天命によって百獣の王に任ぜられたものと偽ることで危機を逃れるというあの話である。

 弱い者が機知によって強者に勝つという話のように思うが原文に当たると話の目的が異なることが分かる。隣国から送り込まれたスパイのような者がこの話を語るのだが、その中では虎は王の比喩であり、狐は実力者である重臣を例えている。そして、重臣が王の権威を蔑ろにして、自らを王の力を持つものと僭称しているというのだ。王と臣下の信頼関係を貶めるための話ということになる。内紛を狙った工作の話は他にもあるから、その一つであることになる。

狐はあくまでも狡猾な立回りをしたまでで、機知を賞賛する気分はなかった。絶対的な王制の時代に王臣の関係を覆すことが推奨されることはないだろう。現代人が狐を賢い者と捉えるのは、既成権力にも知恵を使えば立ち向かえると考えるからだ。反面、権威に対する敬意を失っているとも言える。

 現代人が社会で行っているのは狐の知恵なのだろうか。

漢文を教える

 漢文は国語の中ではもっともテストで点が取りやすい分野なので、いわゆる受験のための学習者にとっては大切だ。ただ、問題は学習の意義を見出せない人が多く受験のための手段として割り切ってしまえるかどうかで道が別れるようだ。

 ただ、私のような立場のものにとってこの考え方は実に苦々しいものだ。漢文が受験以外に役に立たないとはなんたる謂だ。現代の日本語は漢文訓読の影響を受けて成立している。単語レベルでは、蛇足、傍若無人、四面楚歌、羊頭狗肉など漢文由来のものがいくらでもある。そんな言葉は使わないという人も、完璧は使うはずだ。もっとも完全な壁と考えている人も多いようだが。

 漢文教育不要論者にはいくらでも反論できるが、今回話題にしたいのは漢文訓読のことである。返り点や送り仮名をつけて外国語である古典中国語を無理矢理読んでしまうのは古人の知恵の賜物だ。中国語は日本語とはかなり異なる文法でできている。例えば「無」は「なし」と読んで形容詞のように扱うが、どう考えても動詞の役割を果たしている。下に目的語を置いて、それが存在しないことを表す言葉であり、日本語とは役割が異なる。逆の「有」は「あり」と読んで動詞の扱いだが、どちらも中国語としては同じ役割だ。漢文訓読は本来全く異なる言語の構造を巧みに乗り越える工夫がなされている。

 この芸当ができるのは表意文字である漢字を共有しているからである。英語に訓点をつけてもさっぱり分からないのは、literatureが文学だということが直感的に悟れないからだ。文学なら少なくとも文に関する学びだと想像できる。

漢文訓読は異文化をどう消化し摂取するかを体現したものとして日本文化理解に欠かせないものだろう。変化することは変化しない日本文化の特徴の一つとして知っておいて損はない。テストなんかに出すからその価値が分からなくなると実は言いたいのだ。もっとも出題しなければますます学ぶ人が減るのだろうが。

自分事として読む

 いわゆる読解力というのは書かれていることを自分の問題として捉えられる力ではないか。単に字面を追っても意味は分からない。さらにもう少し文法的な理解ができていたとしても、結局他人ごととして捉えている限り、書かれていることの意味はつかめないということだ。

 国語が苦手という人にするアドバイスの一つに、読んだことを自分の言葉で誰かに話してみてほしいということがある。これは実はかなり難しい。筆者が書いたこと自体は複雑で多岐にわたるメッセージであり、その論述にたどり着くまでの幾多の苦難を乗り越えた結晶なのだから無理もない。ただ、難しいことをそのまま丸呑みしようとしても、結局理解できなことにはならない。

 そこで完全は無理として自分はこのように読み取ったということを自分なりの表現でまとめ直すことを進めている。私の授業ではノートのページの半分をあえて開けさせて、授業内容を聞いたあとにそれを自分の言葉に直す欄として指定している。これを繰り返すことで理解は深まる。注意しなくてはならないのは教師なり、講演者の言葉そのものを羅列したり、矢印などを使って図式として書くのではなく、あくまで文章にすることだ。できれば誰かほかの人に読んでもらい意味が通じているか確認してもらうとなおいい。

 この作業をするためには読みを自分事として行う必要がある。他者の文章なり話を自分のことばの文脈に置き換えて新たに表現し直さなくてはならないのであるから。単なるコピーアンドペーストでパッチワークのような文章を書くのとは違う。読解力を高める方法としてはこれが手っ取り早い方法だ。全く同じことが、社会人向けのノートの取り方という種類のベストセラーにはたいてい書かれている。ノートは写すものではなく、自分の考えを定着させるために文章をまとめ直すものである。

AIで文章表現の評価はできるか

 生成AIを私はある程度使う。ただ、私の使用領域に関してはAIの能力はいまだ水準以下でそのままでは使えない。例えば古典文学に関する内容は眉唾物というより虚偽と言えるものが多く、使い物にならない。開発に日本人が関与しないとこういうことになる。

 教育界では生徒に人工知能を使わせることについて批判的な人が多い。ただ、教員が勤務時間の短縮のためならば活用すべきだと考える。たくさんの解答に採点だけではなく機械の力も借りなくてはならない。

限られた時間で採点し、返却まで済ませるのはAIの活用が待たれる。いまのところその水準にはないが近いうちに文章の評価や添削までやってくれる機械が生まれそうな気がする。このとき大切なのは適切に指示ができる国語力なのだろう。機械任せにするためにはその機械よりも豊かな言語環境が必要だ。

読み上げアプリの間違い

 動画サイトなどでしばしば読み上げアプリを使う例がみられる。その中でかなりの確率で読み間違いがあるのは残念だ。文字入力をするだけで読みの検証を怠っているのだろうが、もしかしたら発信者自身が読み方を知らないのかもしれないと疑っているのだ。

 入力された文章を音読する機能はほとんどのコンピューターで実行可能だ。OSに備わっているものが多い。ただ、それは意味とは無関係に文字を音声化しているので、文脈に応じた読み分けはできない。「いきもの」も「せいぶつ」も「生物」と表記できるが、明らかに使用の場面は異なる。表音と表意のハイブリッドである熟語は意味が分からないと読みが決まらない。

 現段階の読み上げアプリにはその判断ができないらしい。ならばそれを作った人間が読み分けを指示するしかない。それができていないのかもしれないのだ。現在の情報環境では文字を自ら書いたり読んだりする機会が減っている。読み間違いは他者とのコミュニケーションを通じて訂正される。その機会が失われると修正ができないのだ。

 憎悪は「ぞうお」であり、険悪は「けんあく」だ。この使い訳ができなくなっている。もっとも、輸入は本来「ゆにゅう」ではなく「しゅにゅう」だ。詩歌も本当は「しか」だったのが「しいか」と読まなければ間違っているといわれてしまう。傑作なのは捏造が「でつぞう」なのに「ねつぞう」だとされていることで、これこそ捏造そのものだ。読みは不安定なものなのだが、それでも最近の読み上げアプリの読み間違えはひどく、若い世代の国語力をさらに低下させてしまっている気がする。