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歌徳説話

 日本の古典文学の中で和歌は特別の意味を持っている。和歌を歌うことにより事態が急激に変わることが多い。諸事情があっても和歌が詠まれることによって解決するという話がたくさんある。これを歌徳説話ということがある。歌には力があり、それが周囲の状況を一変させる。対象は人間だけではなく神仏や地霊といった超自然的存在にも及ぶ。それだけ特別なものという意識があったのだろう。

 和歌は短詩形文学であるために限られた情報しか盛り込めない。制約下に作者は言葉を選び、読者も隙間だらけの情報の間を埋めながら表現世界を再現するしかない。そこには厳密な論理性は期待できず、作り手も読み手もあらゆる段階で情緒的な読みが求められることになる。

 現代は何でも理詰めであることが求められ、曖昧なものは価値が低くみなされることが多い。歌が事態を解決するというのはファンタジーの域の考え方になる。情より理であり、文学は不完全な情報と分類されてしまう。そこで、歌の持つ力も忘れられつつある。

 しかし、韻文のもつ力を私たちは手放してもいいのだろうか。なんでも説明可能かのように錯覚して、実は伝えられていない様々な情報を無視しているのは間違いではないだろうか。本当は和歌でしか伝えられないこと、文学作品でないと表現できないものがあることを私たちは忘れているのではないか。歌徳説話を読むたびに起きる違和感は私もまさに歌の力を理解できなくなっていることを意味していると思う。

古典の私訳

 古典文学の現代語訳をやってみようと考えている。高校で教える逐語訳でもなく、学者の訳す正確さ至上主義でもなく、作家の恣意的な訳でもないものを追求してみたい。とはいえ、結局は自分の基準によるものでそれが一番というものではない。

 私は研究者時代と教員時代とで古典文学の扱い方を大きく変えた。前者は人とは異なる解釈の可能性を探ったが、後者は誰かが決めた解釈の範囲内に収まるように個性を矯めて時の多数派に属することを求めた。そしてその後者の時間の方が長くなってしまったので、文学作品がまるで大学入試の問題文のようにしか読めなくなってしまった。

 でも、それは文学の読み方は狭める行為である。古典はいろいろな解釈に耐えていまに至っている。いつていさの解釈だけで評価されたならば、もう古典文学の生命力は消えかけているとも言える。だから、敢えて自分の読みを残すことには意味がある。いわゆる名曲がさまざまな指揮者、演奏者によって演じられても価値が失せないように。

 今の仕事もあと少し。そろそろやりたいことを始めていきたい。このサイトにも少しずつ掲載するつもりだ。お暇な方はご覧いだければ幸甚である。

遠藤周作の母親像

 昨日行われた共通テストの「国語」は相変わらず、短時間で多くの問題を解く、反射神経と脳の若さを前提とした出題であった。昨年に比べると問3の実用文と、問4の古文が難しく感じられた。もっとも問3のような問題は解きなれていないということが主因であると考えられる。時間をかけずにいろいろな資料の要点をさっとつかみ取る力が試されている。これは人工知能の仕事のように思われるのだが。

 第2問は遠藤周作の小説からの出題であった。没後発見された遺稿とのことで、古い価値観のなかで自らの生き方を貫くことを拒まれた母親の姿を描いている。自伝的な小説ということだ。遠藤周作の作品の中に登場する弱さを受け入れ、罰することなく、寄り添っていくという母親像の原点はここにあったことを感じさせる作品だ。受験生の多くは遠藤作品を読んだことがないはずだ。社会から強いられる女性の生き方をどのように受け取ったのか気になる。

 社会でも女性の生き方についての問題が出題されたという。これはもしかして高市首相誕生効果なのかなどと勘ぐってしまう。女性の生き方はかなり変わったものの、いまださまざまな問題がある。そのことの問いかけならば受験生にとって意味がある。

四拍手

 ハーンの「日本の面影」を読んでいる。日本の前近代的な伝統に興味を持った彼は、西洋文化に営業される前の民俗に注目しており、この著書にも様々な当時の習慣が描かれている。その中で、神社に参拝する人たちが柏手を4つ打つということが書かれていた。

 聞き間違ったのではないかと考えた。神社参拝の作法は二礼二拍手一礼と多くの日本人は考えている。拍手のことを柏手というのだ。その常識とは異なっている。

 でも、ハーンが暮らしたのは現在の島根県松江であり、この地域の参拝方法では現在でも四拍手なのだそうだ。ハーンはそれを描写していたのである。出雲大社では大祭のときは八拍手をし、それ以外は四拍手とするという。出雲大社が独自の信仰形態を持っていたことは古事記の伝承にも、他との違いが感じられることと関連するかのようで興味深い。

 西洋文化とは異質で当時の日本の知識人たちからは旧弊のように考えられていた日本の民俗文化に、どうしてここまで深い関心をハーンが持ったのかは興味深い。

月やあらむ

 時々思い出す古歌に

月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

 がある。伊勢物語では業平と思しき人物が后がねの女性に恋してしまった悲恋の話の中に印象的に登場する。

 そういう上つ方の話はそれとして、この歌にある月も春も循環するものなのに、おのれは着実に年老いていく様を歌ったのものとして捉え直すと、この歌のもたらす感慨は計り知れない。地球の寿命と、人間一個人の人生とは桁違いに異なるので、その差異に感嘆せざるを得ないのである。

 それでも私たちは人生の中に何らかの節目を作ろうとする。そうすることによって、人生が単調なものではなく、一定の意味を持つものとして理解できるようになるのである。尺度が変わると人生の見方は大きく変わる。

 そのくらいヒトにとつて重要なものは、自分が生きている生活の期間というものなのだろう。日本人の場合、それが80年程度という微妙な期間がさまざまな意味を持つ。

 古歌の趣きにかえって、自分だけが時間の流れの中で疎外感を感じているという世界観に思いを馳せよう。そこに広がる華やかな世界はそれとして、その中で人間のエリート達がいかにも振る舞うのか。そういったことを関心の片隅におきながら考えてみよう。

作家の草稿

 作家の残した草稿を見ると創作の形跡がうかがえるのが面白い。いまはコンピューターで原稿を書く人が多いからそれはできない。昔の人は原稿用紙にいきなり書いてそれを何度も推敲するからその跡が紙面に残っている。それを見ることで最初に構想したことと後から付加、削除したこと、並べ替えたことなどが伺えるのである。

 原稿用紙にパズルのように書き込まれたさまざまな思考の跡を見ると、作品は初めから出来上がっていたのではなく、何度も書き直されて今の形になっていることを実感することができる。そこから思うに、私たちも初めから完成形を作り出そうとするのではなく、まず考えたことをとにかく形にして、そこから何度も作り替えることが大事だということが分かる。

 紙に書くことの意味の一つはこのように思考の跡をそのまま残せるということではないかと考えている。もちろんデジタルにも過去の訂正の跡を残せる機能はあるが、直感的に思考の形跡を残せるのはやはり紙面であると痛感したのであった。

路傍のスミレ

 アスファルトの僅かな隙間から鮮やかな紫の花をつけた草が固まっているのを見つけた。スミレであった。なかなか可憐な姿をしているのに、たくましい生命力である。

 スミレと呼ばれる草花はいくつもあって、パンジーもその仲間だというが、いわゆるスミレは東アジアにだけ分布するのだという。万葉集の山上憶良の歌にスミレを歌ったものがある。それにはスミレを摘みに来たとあり、採取されるべき植物であることが分かる。スミレの種の中には食用とされるものがあり、ネット上に調理法がいくらでも見つかる。憶良の歌にも食用説が古くからある。

 スミレはその他の文学の素材としてもしばしば取り上げられ、その多くは魅力的な存在として扱われている。だから、アスファルトの隙間に咲くものを見つけると何か場違いで意外な気持ちになるのだろう。ただ、他の雑草と違って容易に摘み取られない傾向にあるようだ。

大伴家持が越中で得たもの

 万葉歌人大伴家持は越中国守時代に、収録歌の半数を作っている。わずか5年余りの期間に多くの作品を残したのかについては、さまざまな考えがある。越中の風土との出会いが新鮮であったこと、都の情勢から離れて自由に歌作ができたこと、個人的な人間関係が充実していた期間にあったことなどいろいろと挙げられている。おそらくどれか一つではなく、これらの事情が相乗していたと考えた方がいいだろう。

 私はもう一つの要因を付け加えたいと考えている。それは制度的な地方観と現実のあり方との齟齬に創作者としての刺激を得たからではないかというものである。家持は越中の風土をありのままにうたったのかといえば否というしかない。現代でもそうだが、見たままありのままを描写することは難しい。ことばを使って表現する以上、それまでの伝統やことばの決まりに沿って物事をとらえる。また社会制度や時々の常識にも影響を受けるはずだ。

 家持が例えば立山を歌うとき、その場所は新川郡だという意識が働く。新川郡の山だから、それに取り合わされるのは新川郡の川であるとして現在の魚津市を流れる片貝川が選ばれている。国府のあった現在の高岡市伏木あたりからも立山は見え、近くには射水川と呼ばれた庄川と小矢部川の合流域があった(現在は河口が分かれている)。今の庄川にあたる雄神川や、おそらく神通川であろう婦負川などもあるのに関わらず、家持がそれらの河川と比べると小さな片貝川を選んだのは、国司として地名を郡ごとに把握するという意識があったからではないかと若いころに考察したことがある。つまり、越中の風景をとらえる際にも官人としての知識の方が先行していたのであろう。

 そうした知識上の風景と実際にその地に赴いたときに得た感動との差が創作する力となったのではないかというのが私の付け加えたい考え方だ。制度としての知識ではとらえきれなかった生の感覚が創作意欲につながったのだろう。家持は国守巡行の際、富山県にあたる四郡に加え、当時越中国に含まれていた能登の四郡にも訪れ、すべての郡に関係する歌を残している。その地の風習に関心をもって詠んだ歌がある。砺波郡の雄神川流域ではおとめが川に入って葦附という水生植物を採る姿が詠まれている。また実態はわからないが鳳至郡饒石川での「水占(みなうら)」を歌っている。土地の風習のようなものも現地に赴いて知りえたもので、こうした刺激が鄙の地の歌を残すきっかけになっている。

 家持が帰京後に創作が少なくなるのは、不安定な社会情勢もあっただろうが、徐々に完成されつつあった和歌的世界の枠組みの中に浸りすぎて、そこから逸脱するのが難しくなってきたからではないかと考えることもできる。いわゆる絶唱三首と呼ばれる歌はそのような中では個を発揮できた作品かもしれないが、見方を変えれば中国文学的な当時の歌風に飲み込まれている段階ととらえることもできる。また万葉最後の因幡国庁の歌は朔旦立春という暦の知識と結びつき、古今和歌集の巻頭歌と同様に知識が先行している。因幡の地で詠まれたことでようやく新鮮味を保っているが、類型的な歌とも言える。創作にはある程度の齟齬のようなものが必要なのではないか。

 万葉集の一歌人の話をしているのだが、このことは普遍化できるかもしれない。私たちは何らかの枠組みがなければ対象をとらえることができないし、目にしても認知できない。でも、それが日常化してしまうとこれも埋没してしまう。枠組みをもちながら、しかもいつもと少し違うものを目にしたとき、感じたときに創作する気持ちが立ち上がるのではないか。そういう感動を得るために私たちは旅をしているのだろう。旅を楽しむためにはガイドブックは必要だが、最後は自分の実感を得る機会を設けることが大切だ。そこに新しい感動が生まれる。作品化できれば創作ができるということになる。

読解力が導く新しい世界

 後に大家と呼ばれる作家のデビュー作の中にも酷評を受けたものが多数あるという。読むに値しない作品だ、などというのはまだいい方で、作家の人間性を傷つけるような行き過ぎたほとんど誹謗中傷というものまである。

AIが生成したこの記事のイメージ

 これにはいくつかの要因があるようだが、その第一は読み手としての受け入れ方法が見つからなかったことにある。新しい表現法、新しいテーマ、新しい視点といったものは新奇性というより、奇異性の方が先行する。結果としていかに読めばいいのかわからないのだ。

 時代を変えるような作品の中にはそれを受容する側の能力との釣り合いが求められることがある。その均衡が図られるまでは作品が評価されることがないのかもしれない。作家が先行しても読者がいなければ作品は浮かばれない。

 物差しのない中でその作品の価値をなんとなく見抜くのは実は才能なのかもしれない。よく分からないけれどなんだか凄いと感じる。そういうことができる人が現れてくると新しい作品が生まれる。こうした読解力を持った人が真の読者というべきなのだろう。

 小説の話で書いているが、これはどんな方面にも当てはまる。新しいもの、今までになかったものにどういう評価を下し、どんな価値を与えるのか。それには奇異と映るものを粘り強く受け入れることが要求される。そしてそれが達成されることで新しい世界が始まるのだ。

古典を読む挑み

 万葉集の研究を少しだけやった私に今の学問成果に対して言えることは何もない。だからここから述べることは単なる思い込みだ。最近の流行り言葉で言うなら「単なる個人の感想」である。

 古典文学を読む時の基本的な態度は、その作品が作られた時代の価値観に則って読むと言うことだろう。これが意外と難しい。そもそも過去の人々の価値観など現代人には分からない。分かると言えば欺瞞となる。

 古典作品はぎりぎりのところで実は理解不可能なはずなのだが。それを学者の皆様があたかもそれしかないような説得力で語るのである。その時点で真偽など分かるはずがない。

 ただそれを論じる学者にはそれなりの覚悟がある。古代をなぜかように断じるのか。学者の大半はその功利的な側面を気にしない。自分がそう思ったからそう語るのであって、それ以上に企みはない。

 古典文学を論じる上で正論なるものはない。極めて限られた条件の中で確率の高い推測を続けるしかない。それが古文学者の宿命であり、やるべきことなのだろう。私はそれを志し、途中で投げ出してしまった。だから、古典作品に新たな読みを与え続けている学徒には尊敬の念しかない。