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音楽で感情を

 管弦楽のコンサートに行った。日本初演の楽曲が披露されたが極めて難解であった。過去の詩人の作品を楽曲にしたものという。複雑な心情を現代音楽の手法で楽曲化したものである。そう思って聴くと少し理解できた気がしたが、やはりよく分からなかった。

 自分の今の心境をありのままに文章にできるかといえば、おそらく無理である。実はこのブログを書くときにそれを目指して何回も下書きをし、推敲することがある。WordPressには下書きの機能があるから、そこにためるのだがいつも採用できない下書きが並んでいる。書いているときには素直に書けたと思ったのだが、一晩熟成すると実は何を言っているのか自分でも分からない。文章作成とは自分の言いたいことを日本語の文法に落とし込む作業だ。それは大抵失敗する。

 文章は言葉で構成されるが音楽は音の塊で、私にはどのように表現していいのか分からない。絵画でもそうだ。ただ、どんな方法であれ、人の心を描くのは難しく奥深い。

文章を書くという癖

 文章を書くのが好きになったのはいつからだったろう。夏休みの絵日記の類は葉月晦の作になっていた。おそらく日記というものは苦行以外の何物でもなかった。それがブログ書きになっているのはものすごい皮肉な笑い話だ。

 長い文章を書いたのは旅行したときの印象を書き出したことだと思う。図らずも私の日記は紀行文から始まっている。特別な体験は文章に残したくなるというのが自然の成り行きなのだろう。どこそこに着いたとか、何を見たとか、そういう他愛もないことを書いていた。

 ネット時代になってブログという存在に気づいてからは日記というよりは随想を書くようになった。それもこの二十数年の間で少しずつ変化して今の形になった。いまや生活の一部であり、特別な経験がなくてもよくなっている。

 私の場合はこれが存在の自己確認手段の一つであり、明日もまた同じ行為をすることを何となく目標として考えている。すでに癖であるともいえそうだ。

ラジオ劇

 音声だけで成立するいわゆるラジオ劇もしくは放送劇は、私にとつては創作意欲を刺激される表現方法だ。高校生のころこっそりと聴いたラジオの放送の中にはこのラジオ劇がいろいろあった。映像がない分、想像の力で世界がどこまでも広がる感じがしたのはよかった。

 NHKの日曜名作座は森繁久彌と加藤道子、その後を継いだ西田敏行と竹下景子が2人で全ての役を演じるという名人芸が展開された。これもよく聴いた。いまは段田安則がその後を演じているようだ。

 映像美、とりわけ現在のコンピューターグラフィックスやAIの生成画像はもちろん魅力的だが、敢えて音声だけで演じるラジオ劇は別の魅力がある。目を閉じて聴き入ると作品の世界が浮かび上がるのである。

 最近は動画サイトばかりに気を取られることが増えた。ラジオもかつてと異なり、ネットを通して好きな時間に聴取できる。基本に帰って音だけの表現世界を楽しんでみたいとしきりに思っている。

言文一致はいまも未達成

 話し言葉と書き言葉は現時点でもかなり違う。話し言葉を忠実に文字化すると、かなり意味の取りにくいものになってしまうのは想像に難くない。

 前近代においては平安時代の言葉が書き言葉の手本として考えられた。話し言葉は時代ごとに刻々と変化していったのに、それは意識されることもなく規範であり続けたのてある。は

 話し言葉が状況に左右されるものであるために、いわば共通言語としての書き言葉が求められたのだとも言える。万人に同じ文法で語れるならばよほど便利であり、効率的なのだから。

 話し言葉は変化しやすく、状況や会話の成員によっても劇的に変わる。同じ人物の話し言葉であっても、どこで誰と話しているかによって言葉遣いが変わってしまう。それぞれの文脈に沿って、ふさわしい話し方があるので、特定の個人にとってどれがその人の本当の話し方なのかを決めることはあまり意味がない。その時々において話し手がもっとも伝え易い言葉が選択されている訳である。

 そのいわば共通語的な役割を果たしてきたのが書き言葉なのであろう。一定の文法と作法によって成り立っている書き言葉は表現の基準としてあり続けるのである。

 話し言葉の自由さと、書き言葉の規範性を私たちはうまく使い分けているということになる。これは結構大事なことであり、その能力がさまざまな災厄を遠ざけている。

 

見たままの絵は難しく

 自分が見たままの姿を描けるのはやはり才能だろう。私が何かを絵に描こうとすると、既存のイメージをもとに描いてしまう。例えば山は三角形のバリエーションで、月は丸かその満ち欠けの姿、花は正面から見たような花弁の配置である。

 絵の初心者に手っ取り早く描画法を教える動画を見ると、大半は対象を図式化、パターン化して描くことを勧めている。見たものをそのまま描くのではなく、それらしく見せるための技を伝えているのだ。

 例えばゴッホの作品を見たとき、技法のよるものとは言い切れない。彼にとってはやはりあのように見えていたのではないかと思わせるのだ。その精神状態が異常なものであったしてもそのように見えたことを絵画に変換できたのはやはり天才なのだろう。山下清についても同じように考えられる。

 見たままの映像が描けないのは、私たちの感覚には物事を記号化して、小異を目立たなくする認識の仕方が身についているからだと思う。そのおかげで日常の複雑さから免れ、正気を保てているのかもしれない。

 私にはその才はないが、せめて才能がある人の作品を見出していきたい。

と思っているのですが

 ここ十数年で増えてきた言語表現に、「〜と思っています」というのがある。語法的にはおかしくはないのだが、意見を述べるところでなぜ自分の思いを言うのかと考え出すと違和感が募っていく。どうしてこのような言い方が頻出するようになったのだろうか。

 変な言い方をすれば私の言うことは真実かどうかは分からないが、あくまで私の思いはこういうことなんだと言っていることになる。ちょっと前に「それはあなたの感想でしょ」という切り口上があったが、まさに私の感想であって意見ではありませんと予防線を張っているようなものなのだ。

 日本語には昔から婉曲表現を好む伝統がある。断定よりも考えの提示に止め、判断は相手に任せようとする。だから「思う」という動詞には、thinkよりもfeelの意味合いが強いとされる。私はそのように感じているのですが、というのが「思っています」の中身であるようだ。

 朧化表現は必ずしも悪いとは言えない。何でも主張すれば良いという文化には必ず問題点が現れる。ただ、あまりにも思っています、思っているのでと繰り返されると、あなたの本心はどこにあるのですかと問いただしたくなってしまうのである。

脚本の性差

 脚本を考えるとき女の登場人物にはいわゆる女性言葉を使う。語尾に「わ」「よ」などをつけて女性性を表現する。でも、それを聞きながら、こんな言い方を女はしていないと思うことがある。言葉におけるジェンダーの問題は深いのである。

 演劇は現実の反映であるが、現実そのものだとうまく伝わらないことがある。現実の性質の一部を誇張したり、省略したりしてそれらしさを際立たせる。短時間で限られた設備の中で、キャラクターを造形するためにはそうした虚構が必要なのだ。作る方も見る方もその約束のもと成り立っている。

 女の話し方にしても、年齢や性格、立場、話す相手、そのときの感情によって言葉遣いは変わる。これは男も同様である。こういう人はこういう話し方をするものという社会的な約束があるから、それを利用しているとも言える。だから、実際の言葉遣いはそれとは違うことが多い。

 一方で、たとえば演劇で語尾に「わ」のつくヒロインの台詞が現実の女性の話し方をある程度決めているのだとも言える。影響力が強いテレビドラマや映画などならなおさらだ。虚構が現実を規定することも同時に起きている。

 現実社会でも私たちは一人で何役もこなし、その都度、言葉や振る舞いを使い分けている。

説明しよう

先日読み終えた本に気になる表現があった。私の感覚では「なぜなら」という接続詞を使うところで、ことごとく「説明しよう」という表現が使われているのだ。これはある種の語りでよく使われる表現で、不可思議な現象を後付けで有意義にするときに多用されたものである。私の世代では納得するというより、そうきたかという設定の妙を感じさせる言葉だ。




 説明することは自分の言動を理論化することに役立つ。単なる一過的な思いつきではなく、確固たる意見なのだと披露することが説明の本義だ。説明することによって自らの意見の価値が確認できるし、他者を説得することができる。また批判を受けてより良い意見に修正できるきっかけとなる。

 だから「説明しよう」を日常的に多用することは悪いことではない。他者の賛同が得られるか否かは分からない。でも、そのための努力をすることは自分自身にとってもかなり意味があることだ。

 最近はこの説明する努力が軽んじられている。人工知能がもっともらしい説明をしてくれるので、それ以上の可能性を考えることをはなからしなくなっている。「説明」よりも「結果」が優先すると考えられているからかもかもしれない。

それならば私は若い世代に「説明しよう」を流行り言葉にすることを提案したい。自分の考えを他者に認めてもらうことは容易ではない。それによって自らの考えが深まり、他者の批判が強度を高める契機になるのならば、無駄な努力などではないのだから。

脚本家の出番

最近のドラマなり演劇のストーリーはかなり凝っていてかえって生の感動を得られない。これは私だけの感想なので根拠のない言説である。でも、そんな世間擦れした私でも感動のツボに入ってしまうことがある。これを提示できるのがプロの脚本家なのだろう。

私の場合、趣向を凝らした複雑な筋より単純に感情移入出来るものの方が好みである。そのためにはありそうでない展開を組み合わせ、受け手の感情を揺さぶることが求められる。日常の連続のように見えて、少しずつ創作の意図に引き込み、最後に飛躍する。そういう展開は感動しやすい。

人工知能に条件を指定してストーリーを作らせたところ、設定や展開は一応できていたが、感動させる飛躍の幅が大きすぎる気がする。無理矢理結末にもっていったという感があるのだ。この点の塩梅はやはり脚本家の出番なのだろう。

妄想不足

 学生の頃、小説のようなものを書いた。いま考えても愚かな内容だ。日常にあるきっかけで変化が起きる。それまで出来なかったことが急にできるようになり、それゆえに世界観が激変するという内容だ。

 ただ、自分だけ変わっても結局何もできない。その無力さに気づくと持っていた能力が失われてしまい、虚しさに苛まれるといった筋である。当時よく読んだ小説の二番煎じだ。味付けを当時の生活に引きつけて書いたので、それなりにいいとは思ったが、もう原稿はどこかに行ってしまった。

 同じような内容を今書こうとしたら無駄な注釈をたくさん入れてより理屈っぽいものしかできないだろう。最近、感じるのは妄想ができないことだ。創作にとって大事な一歩目が踏み出せない。

 だから、このブログのような短いエッセイしか書けていない。それでも書けるだけまだましと自分を励ましている。突飛推しもないことを書くのはしばしば創作の代替行為である。嘘は書いていないつもりだが、事実でもない。妄想したいができない自分の苦しみの跡なのだ。