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中国史劇の人物描写

 中国の史劇を見て思うのは、登場人物の多彩さである。何人もの人物が登場し、場面が変わるとあっけなく消えてゆく。始めのうちはそれが不自然でついてゆけない感じがした。かなり深刻なドラマが繰り広げられたのに、次の場面ではもう語られない。あっけないという言葉では表現しきれない。

 島国に密集して生活している私たちとは世界観が根本的に違うのだろう。非常に多くの人がゆき交う中で、繰り広げられる偶然のドラマが中国史劇の関心事なのだ。敗者になればそのまま前景から見えなくなり、消えた理由は特に語られない。日本なら、敗者も例えば怨霊という形で残り、いつまでも現世に影響を与え続ける。人間関係が濃厚であり、個々の人生が歴史に関わっている。

 そういう風土で暮らしている私たちにとって中国史劇の潔い人物描写は違和感を覚えるとともにエキゾシズムを感じるのである。似ているけれども全く違う。東アジアの芸術を観るときの感慨はここでもあてはまる。

天才の絵画に感動できるということは

 細密画を見るときにいつも思うのは、その制作過程の膨大な時間である。今のように人工知能が過去の図案からそれらしいものを組み合わせて作り上げることは根本的に異なる。自分の感じた世界を少しずつ、かつ着実に形にしていく過程において、どのような呼吸がなされたのか。会話や心中思惟はいかなるものがあったのか。創作を妨げるものがあったとしたら、それをどう乗り越えたのかといったことを思い巡らす。

 細密画だけではない例えばゴッホでも、ピカソでも、山下清でも岡本太郎でもいい。独自な世界観をどのように維持できたのか。技巧ではなく、彼らの深層の表現だとしたなら、それを長年にわたって維持できたのはなぜかと考えてしまう。

 理解の妥協案として彼らは天才であり、常人ではないという考えがある。これは極めて納得しやすく、己の非才との比較をするときも自分を傷つけることがない方法だと思う。彼らは格別で自らの及ぶものではない。それ以上は考えるべきではないというものだ。

 でもよく考えてみると、幾分かの矛盾を見つけ出してしまう。別格の才人が創ったものの良さをどうして評価できているのだろうか、ということだ。ぐにゃぐにゃの糸杉や遠近法のおかしい風景画を見ても感動できてしまうのはなぜかと思うのだ。これはまるきり別次元の人物の作品ではないのではと再考するきっかけになる。

 自分とは交流しようもない別次元の存在だと考えるのは、ある意味芸術を放棄することなのかもしれない。いまはAIがいくらでもそれらしいものを作り上げる時代だ。その作品に始めは驚き感動するが、どうも違うという直感を持つ。作品を作り上げるまでの濃密な時間を想像できない人工知能の描く作品は、何かが異なると感じてしまうからなのかもしれない。

 作品の向こうにいる作者の生活とか人生とか哲学とか、そういう形にしにくいものたちを私は絵画や彫刻の裏に見てしまう。恐らく自分が想像するものとはかなりかけ離れたものなのだろうが、少なくとも時間や空間、人間関係などの厚みを持ったものとして芸術作品は存在しているのだろう。

音楽で感情を

 管弦楽のコンサートに行った。日本初演の楽曲が披露されたが極めて難解であった。過去の詩人の作品を楽曲にしたものという。複雑な心情を現代音楽の手法で楽曲化したものである。そう思って聴くと少し理解できた気がしたが、やはりよく分からなかった。

 自分の今の心境をありのままに文章にできるかといえば、おそらく無理である。実はこのブログを書くときにそれを目指して何回も下書きをし、推敲することがある。WordPressには下書きの機能があるから、そこにためるのだがいつも採用できない下書きが並んでいる。書いているときには素直に書けたと思ったのだが、一晩熟成すると実は何を言っているのか自分でも分からない。文章作成とは自分の言いたいことを日本語の文法に落とし込む作業だ。それは大抵失敗する。

 文章は言葉で構成されるが音楽は音の塊で、私にはどのように表現していいのか分からない。絵画でもそうだ。ただ、どんな方法であれ、人の心を描くのは難しく奥深い。

見たままの絵は難しく

 自分が見たままの姿を描けるのはやはり才能だろう。私が何かを絵に描こうとすると、既存のイメージをもとに描いてしまう。例えば山は三角形のバリエーションで、月は丸かその満ち欠けの姿、花は正面から見たような花弁の配置である。

 絵の初心者に手っ取り早く描画法を教える動画を見ると、大半は対象を図式化、パターン化して描くことを勧めている。見たものをそのまま描くのではなく、それらしく見せるための技を伝えているのだ。

 例えばゴッホの作品を見たとき、技法のよるものとは言い切れない。彼にとってはやはりあのように見えていたのではないかと思わせるのだ。その精神状態が異常なものであったしてもそのように見えたことを絵画に変換できたのはやはり天才なのだろう。山下清についても同じように考えられる。

 見たままの映像が描けないのは、私たちの感覚には物事を記号化して、小異を目立たなくする認識の仕方が身についているからだと思う。そのおかげで日常の複雑さから免れ、正気を保てているのかもしれない。

 私にはその才はないが、せめて才能がある人の作品を見出していきたい。

創作活動?

 脳波を測定することにより、思っていることを映像や音楽、文章に変換する研究がなされているそうだ。鼻歌を譜面にする音楽ソフトは知っているが、脳波ならばもはや歌う必要がない。心地よいメロディーが浮かべば、それがそのまま再現される。

 頭の中に思い浮かんだ旋律が楽曲となり、映像が絵画となり、心中思惟が文章になるならば、その出力のために身につけなくはならなかった高度な技能の修練を飛ばすことができる。誰もが創作者になる手段を得るといこうことだ。

 だが、人工知能のテクノロジーを借りたこの創作方法が果たして作者の作品と言えるのか疑問が残る。AIは既存の楽曲の展開を分析して、合成することで曲を作るはずだ。もちろん人間も同じことをしているのだが、その度合いがかなり違う。絵画や文章もパターン化されたものの組み合わせからなるだろうから、個人の作品と言えるのか分からなくなる。

 恐らく創作の定義自体が変わりつつあるとしか言えない。機械が提案する多くのパターンから何を選び取るのかが、芸術の中心的活動になってきているのだろう。創作とは何かを考えなければならない。とりあえずやってみるしかあるまい。ブログ記事を人工知能に書かせることだけは止めておきたいが。

芸術を目指す

 AIの作り出すさまざまな作品に圧倒されているうちに何が大切なのかを考えている。人工知能が参考にするのはデジタル化された言葉や映像であり、それを高速に検索して合成する。この工程においては人間に勝ち目はない。

 いわゆるハルシネーションなる脱線もだんだん少なくなっていきつつあるらしい。実行例を重ねるほど精度が上がってゆくのである。

 ならばどうしても人工知能に処理できない非デジタル情報を活用するしかあるまい。手触りなどの感触、インスピレーションなどの定量化しにくい何かをどれだけ発揮できるのかを鍛えるしかない。ただ、それもコード化すれば同じことになる。デジタル化できないものをそのまま表現する力が差別化の鍵となるようだ。

 それは個性であり、独創である。結局、芸術と言われているものが重視されていくのだろう。この方面の力をつけるためにも、規格品、他人と同じ価値観に甘んじることからは離れなくてはならない。どこまでできるか分からないが、私もそれを少しずつ目指して行きたい。

受け手が作品を作る

いろいろな創作にある寓意を発見するのは楽しい。実はそういう意味があったのだと気づいたときに謎が解けたような気がする。そして、より深く作品を味わえる気分になる。

 ただ、それが作者が意図して作り込んだのかといえばそうとも限らない。本来は別の意味で書かれたものが、受け手側の解釈によって異なるものと映ることがある。世代的、世相的な変化でそう感じることもあるかもしれない。

 作品は作者によって作られるが、読者や観客によって意味づけされ、完成する。それも享受者が変わることで何度も意味づけされ、その都度変わっていくものらしい。

ミスマッチ

 普段は組み合わすことがないものを、ふとしたきっかけで一緒にしてみると実にうまくいくという経験はあるだろう。ミスマッチという語の裏の意味はすでに市民権を得ている。

 そういう試みができるのには、余裕と思い切りのどちらか、または両方が必要だ。失敗を恐れず組み合わせてみるか、破れかぶれでやってみるか。成功する確率は低いが、挑戦を重ねた上で獲得したものは大きい。

 ミスマッチから生まれた新機軸もたくさんあったはずだ。民族学でいうブリコラージュのようなものも一種の新しい取り合わせを生む機会だ。失敗は成功の素であり、やってみたらすごかったはよくある話なのだろう。

 ならば、既存の考え方に囚われず、常に試してみるという精神は必要であり、そのように心掛ける必要がある。効率性しか口にしない昨今の状況ではこうしたことは無駄としか考えない。それでは新しい可能性は開花しないのだ。

形を見出す力

 何の意味もない図形の中に意味のある形を見出してしまうのは人間の能力の一つなのだろう。火星表面の写真にいくつもの動物や人面などを見つけ出してしまうことは有名だ。火星までいかなくても私たちは、身近な幾何学模様や、自然の造形物に同じように何らかの形象を見出す。パレイドリア現象というそうだ。

 最近買おうと思っているスマートフォンのカメラの配置が生き物の目のような配置になっていることが一部の人たちの話題になっている。これはデザイナーがパレイドリア効果を狙って作ったものと考えられる。人の表情は単純化されやすく、いわゆる絵文字の類はこれを最大限に利用したものだ。確かに(^.^)は人面に見える。この力を活用したものが漫画などの画法である。細部まで描きこまなくても脳が勝手に足りない線や面を足してくれる。省けるところまで省けばかえって表現の可能性が高まる。

 どこまで省けるのかを考えていけば抽象画の世界にたどり着く。逆に意図してない自然物を組み合わせて観客に自由にものを見出させる芸術もありうる。そしてそういう作品にこれまで何度か出会ってきた。見る人によって見えるものが変わるという芸術である。

 これは脳の見せる錯覚であるともいえるが、その錯覚のために私たちは複雑な世界をとらえることに成功してきたのだ。単純化とその敷衍が面倒な世界を抽象化してくれる。詳細を見逃すことで物事をとらえやすくし、本当は個々に異なる対象をグループ化しまとめて把握することができるのである。形を見出す力は、人類が長い進化の上で獲得した一つの能力なのだろう。

 

説明過剰

 歌人のエッセイを読んでいてなるほどと思ったことがある。現在の文芸は大概が説明過剰であり、それゆえに詩歌の入り込める世界が小さくなっているとのことである。文学的な表現として説明し過ぎないという基本的な約束がある。文学で求められるのは分かりやすさではなく、表現の中にどれほどの情趣を盛り込めるのかということである。目指しているものが違うのに、最近の文学はとにかく分かりやすいというのだ。うべなるかな。

 分かりやすさを求めるのはビジネスの場面では当たり前である。多義性を極力排し、一読すればすべてが分かるというのが理想とされる。そこに含蓄は要らない。その発想が文芸にもそのまま援用されているのだろう。きわめて分かりやすいが、その分薄っぺらい出来具合になってしまう。

 この傾向の背景にあるのは、やはり読み手の読解力が低下しているということにあるだろう。分からなければ読まないという姿勢は、読解への挑戦心を削ぎ、いつしか本当に読めなくなってしまう。面倒なことはしない。非効率的だからというビジネス文書の読み方と同じになってしまうのだ。

 書き手の方もそういう読者を慮ってとにかく分かりやすく書く、技巧は最低限にして話の展開も単純にする。複雑な時は文中に注釈を入れてしまう。読者に嫌われるくらいならばその方がいいと考えてしまうのだ。こうした動向は日本語のレベルを下げることに繋がることを認識しなくてはならない。

 私は日本の事情しか分からないので、この先は推論に過ぎないか、恐らくどこの国もおおかれすくなかれ同様の背景があるのだろう。説明がなくても読み取れる教育をすることが求められている。