投稿者: Mitsuhiro

鳥瞰の必要性

 鳥の目になって世界を見下ろしたような地図を鳥瞰図という。bird viewing の翻訳語なのだろうか。地面から見るのとは異なる世界が見えるのがいい。地面にはいつくばって生活している私たちは自分の生活範囲だけで世界を判断しがちだ。ときには鳥の視点を持つ必要がある。

 先日、渡り鳥に関する本を読んで気付いたことがある。鳥類の研究者は渡り鳥の実態を調査するために鳥に発信器をつけて、人工衛星の機能を利用することがあるようだ。ある鳥は冬に九州に渡ってくるが、春以降は北上してシベリアなどに渡るらしい。その本によると渡り鳥がしばしば休憩地と利用するのが韓国、北朝鮮の非武装地帯ということだ。この場所は人間の出入りが難しく、結果として野生動物の楽園となっているようなのだ。

 日本、韓国、北朝鮮、中国、ロシアとこの地域は複雑な政治的状況のもと、人間の交流は制限されることが多い。ただ、鳥には国境はない。民主主義国家も独裁的な国家も人間の話である。こうした動物たちが常に行き来しているという現実を鳥瞰しなくてはならないと思うのだ。

最近の幸福感

 幸せになるというのはとりも直さず、自分自身が幸せの状態になることだと信じてきた。自分の身の上に幸せと思えることが次々に起こることが幸せの形だと考えてきた。それが最近少しずつ変化していることを自覚している。自分の幸せを願うのは当然だが、他者との競争ではなく、自分の周辺の人たちの幸福を知ることが喜びになっているのである。かつては妬ましさしか生まれなかったのだが。

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 自分では果たせなかった夢を実現させた人の話を耳にすると、羨望や尊敬、嫉妬や夢想などさまざまなな問題が脳裏を駆け巡る。どちらかといえば私の性格なのか、今は彼より劣っているが、そのうちそれを超えることができるという無根拠で楽天的な考え方が支配していた。そして、同時に深い劣等感が底流で心の底面を傷つけ続けてきた。私は実力とは無関係にその意味では自信家であったと言える。そして、その楽天的な考え方が今までの自分を支えてきたのである。

 ところが、最近はいろいろな失敗を重ね、周囲からの評価も自分が思うものとはかなり異なるものになっている。あの人はあれが限界だからという同情の念でとらえられることが増えていることを実感している。そして、また失敗を重ねている。思い通りに動かない身体、粘りの利かない思考活動、そういった現実を毎日のように突き付けられ、かつての無根拠の矜持は日々崩れ去っている。自分を認めてくれている人が減っていることは紛れもない事実なのだ。

 そういう自分を取り巻く環境の変化の中で、私の幸福感は徐々に変化しているようだ。自分ができないことへの焦燥なり屈辱感よりも、懸命に何かに取り組み、成果を残している人に対する賞賛を行うことが幸福につながっている。他人の不幸は蜜の味というブラックな表現があるが、私にとっては他人の幸福は甘美な果実のように思えているのである。昔の自分にこの感覚はなかった。もし昔の自分に今の感性を説明したら、たちどころに負け犬の考えだと断じられるに相違ない。でも、これは事実なのである。

 おそらく、この傾向はこれからも続くのかもしれない。私は自分の残された力を細々と使っていく。その中でそれなりの幸福感を得ることだろう。おそらく、それ以上に多くの不遇感も感じながら。でも、それを中和する他者の幸福に感動するという精神も増やしていくことになると思われる。歳をとることにはそういう一面もあるのではないか。

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嵐の前の準備

 また台風が接近している。今回は2つの台風が連続して接近するという。8号の方は強い風を保ちつつ進んできており、9号は台風としてはレベルが低いものの、南海上から湿った空気を大量に運搬しているために今回は水害も懸念されている。

 明日、明後日の計画が変わる可能性がある。締め切りのある仕事が並んでいるために、天候によって出勤不可能となった場合を想定すると、今日は一気に忙しくなる。優先順位を決めて、全力疾走ということになるだろう。

文法を教える

 古典文法を教えているのだが、これがなかなか面倒だ。コツをつかめば受験勉強レベルのものならばある程度はすぐにできるようになる。教える側はそのように考えてるのだが、それがなかなかうまくいかない。思うにまずは興味の持ち方の違いがあり、次に練習量の違い、さらには自分ごとに落とし込めるのかどうかの違いもあると思う。

 日本の古文は現在とは異なる文法がある。同じ日本語であるから基本的な構造は変わらないが、例えば動詞の活用の種類は9種類もある。また推量系の助動詞も「む」「けむ」「らむ」「べし」「じ」「まじ」「まし」「らし」「めり」「なり」と非常に豊富だ。係り結びという現在は消滅した(というより置き換わった)文法もある。中高生はそれをいちいち覚えるのだが、この局面では暗号解読の手段を身につけることに他ならない。

 その暗号が分かれば巨万の富が手に入るというならばまだ学ぶ動機は保たれよう。入学試験を通過するためというなら、かなり危うくなる。古典ができなくても入れる大学はいくらでもある。そもそも昔の文章を読んでも意味はない。あくまで試験に合格するための手段だと考えている輩に古典文学を読む自立的動機はあるはずがない。

 古典学習についてはいつも不要論を振り回す人がいる。そんな時間があれば、プログラミングか、フィンテックを教えるべきだと豪語する。しかし、この論理は最近分が悪い。その程度のことは人工知能がやってしまうので、小手先の技術では何ともならないのだ。経済問題ならば、国家の歴史や国民性、企業の慣習などさまざまな文化的要因を理解する必要がある。文化的な理解こそ、人工知能が及ばない部門であり、それができるのが人間だとも言える。

 話が拡散したのでもとに戻そう。古典文法を学習するのは大学受験が目的であつても、日本語の成り立ちを考えるきっかけになるということだ。そして書き言葉として長く君臨した平安時代の文章語がなぜ権威を保ち続けたのか。その謎を説くことが日本文化を考えるのには重要だろう。

 文法を学ぶことはその国の言葉、つまりその言葉を使う人の考え方の型を学ぶことになる。それが古典文法であるならばその国のものの考え方の基本を学ぶことになるのである。このことを意識して教育をしたい。受験のための手段を教えている訳ではない。

 

旅人の心で

 最寄り駅で写真をたくさん撮っている人を見た。駅名の看板や改札など私にとっては当たり前となっている風景を撮影していたのである。見た目では分からなかったが、旅行者だったのだろうか。外国人の可能性もある。

 自分にとっては日常の光景であっても、ほかの人からすれば、非日常である。日常に埋没してしまうとこのことをつい忘れてしまう。明日も見るものだと思うと価値を感じなくなる。過去の住まいのことを考えてみても日ごろ利用したところの写真ほど少ない。

 よく考えてみればすべてものは移り変わり、今見ているものは二度と現れない。すべてが新鮮なものであるのに、類型化という脳の働きによって小異を無視してしまう。見ていても気づかない。あるいは見ようとしない。そういう機能は過度な刺激を防止するために有益だ。

 ただ、ときには日常化フィルターをはずしてみるのは必要だと思う。旅人の心になって普段歩く道を見て、それが明日は別の光景になるものと思えば、何か新しい気づきがあるかもしれない。

台風が来るかもしれないが

 台風が来るかもしれない。現在はフィリピンの東海上にある台風7号はすでに中心気圧が935hPaに達しており、瞬間最大風力が秒速70メートルに達しているという。予報によれば偏西風に乗って九州に上陸する可能性も出てきたらしい。この影響で梅雨前線が刺激され、九州は23日から25日にかかて大雨が降る可能性があり、その後は暴風雨となり、長い間雨量が増加する可能性があるという。

 今のところ関東への影響については確定的な予報はできないようだが、最悪の進路の場合は被害が出る可能性もある。東京の予報では木曜から金曜にかけてはかなり降水確率が高くなる。さらに金曜以降は気温も上昇し蒸し暑くなる可能性がある。気が付けば6月もあと8日を残すのみ。梅雨は後半になるほど被害が出やすいようだから、一層の警戒が必要だ。

 とりあえず、このところ自分にとっては難題が押し寄せている昨今の在り方を何とか乗り切らなくてはならない。天災に負けてはいられない。

牛久シャトー

 久しぶりに立ち寄った。企業としては一度倒産し、市の補助もあって保っている。建物の一部が実は重要文化財であり、日本遺産にも指定されている。

 ただここの魅力はワインの醸造の現場を見学し得ることであり、ワインを飲みながら料理が食べられることであった。博物館のとしての機能も大切だが、その場で体験できる何かがあるとなおいい。まだレストランはやっているようだが、もう一つ何か人を引きつける何かがほしい。

 絵になる風景ではあるので、映画やドラマのロケ地に利用できるし、何らかの定期的イベントを行ってほしい。そのための資金をどこから調達するのか。思案のしどころだ。

不老の夢

 もし老けなかったらという妄想は何度も繰り返している。不老不死ははるか昔からの永遠の課題だ。玉造小町子壮衰書は岩波文庫で読んだ。小野小町ではないのだが、歴代の読者は「花の色はうつりにけりな」の名歌に絡めて、そのように読み取り、不死の美女の晩年の寂しさを感じ取った。この読者史の末流に立つ私は不死に夢を託せない。

 不老不死ではなく不老有死ならどうだろう。まったく老いることはないのだが、寿命はあってあるとき突然死を迎える。これならいい気もする。いわゆるピンピンコロリである。人生の最期まで現役でいられることは夢のようではないか。

 でもよく考え直すならば、何か違う気がする。死の直前まで全力で機能し、あるときそれが急に絶える。これは機械と変わりがない。身体という道具に乗った生命が電池が切れるまで動く。その後は途切れるというのは、おかしな話だ。我々にはやはり老化が必要なのではないか。死へのデクレッシェンドがあってこそ、人生の意味を考えることができるのではないだろうか。

 死にたくはないと思うのは当たり前であった。そのためにはあらゆる抵抗をしたいと考えていた。それが少しかわりつつある。やはり長生きはしたいが、限度はある。それが思秋期の悩みなのだろう。

働きたい人には

 統計上では日本人は勤勉ではないという結果になるのだそうだ。かつては過労死が社会問題になるほどであり、強制的に労働を中断することが雇用者の義務となった。残業は悪とされ、仕事が速いことが褒め言葉として定着した。ただその結果、競争力は削がれ、独自の展開を目指す者も減ってしまった。

 よく言われる効率性という点でもランクダウンが続いている。仕事をする時間を削った分だけ、効率が上がったならば意味がある。しかし、実際はそうはならず、単なる縮小をもたらしたのだった。

 もっと働けとは思わないし、人に強要されたくはない。だが、自主的に働こうとする者には自由を与えてもよいのではないか。そしてこの成果についてはより高い報酬を支払うべきではないかと考えている。ワークホリックを一律に禁じることなく、十分な待遇を用意してもっと働いてもらうことも大事だと考える。これは強要ではない。あくまで働こうと思う意志をくじかないようにするべきなのだ。

 いわば第2勤務時間のようなものを設けて、それに対して正当な報酬を行うこと、それが今後の日本には大事だと考える。