投稿者: Mitsuhiro

連続降雨記録

 東京地方は今日で連続降雨が33日となり、過去の最長記録に並んだ。間もなく日付が変わるが、明日も雨の予報であり記録更新は間違いない。ここ数年、梅雨は比較的短い気がするが、その分秋雨が補っていることになる。

 天候不順だけが原因ではないが、私の体調は低空飛行を続けており、情けない限りだ。気持ちもどこか盛り上がらずこのまま寒い季節を迎えるのかと思うと心配になる。

 全世界で起きている気候変動らしき現象はまさに焦眉の急を告げている。誰かが何とかしてくれるという段階を超えて覚悟と忍耐を強要する局面に至ったようだ。いまだに個人や国家の利権のためにこの問題に向き合わない人も多い。科学的見解の違いはあるにしても、少しでも懸念されることは考え直した方がいいのかもしれない。

 印旛沼堤防の決壊は決して他人事ではない。自然は制御できるものと考えるのは一度リセットしなくてはならない。

古典は過去の作品ではない

 古典といえば過去の古臭い、現代とは切離された世界と考えられることが多いだろう。現代の即利益性が他を優先する風潮において、後から味わいが出て、その結果長い期間に利益が期待できるといった手法は、度外視されることが多いはずだ。

 しかし、本当の古典には少々の改変を跳ね返す力がある。民族の深層に訴える何かがあり、異文化の人々にも何らかのメッセージをもたらす力を持っている。だから、古典は過去の作品というわけではない。現在の民族性を含む何らかの要素が含まれている故に唯一絶対の魅力を保つのである。

 古典文学を教える身の上として、過去の遺産としてと教えるのではなく、現在と直接関係を持つものとして若い世代に伝えることが必要だと考えている。

実用、効率

 実用性とか効率性とかそういうものにすっかり毒された気がする。毒ではないのは確かなのだが、それを唯一の基準にしがちな現今の風潮に息苦しさを感じてしまう。何をもって実用というのか、効率とは何なのかを考えたとき、おそらくそこには人間はいない。漠然とした社会という名の下の多数派が勝手に唱えている正義に似た何かだ。

 ただこれに背くことは著しく困難だ。少数派でいることにさまざまな難題を突きつけるのが現代社会なのかもしれない。

マスクの一日

 風邪をひいてしまい、マスクをつけて一日過ごした。気がつけば同じような咳をしている人を街で見かけるから流行っているのかもしれない。いまのところ発熱や倦怠感は顕著ではないのでなんとか週末までは持ちそうだ。私の場合、連休は単なる休養にはならず、生活のリズムを崩す契機となってしまったようだ。どうも、休みだからといっていつもと違う生活をするのは心身に悪影響があるらしい。テレビでもそんなことを言っていた。

新幹線

 日本の新幹線は鉄道の最高位に立ちながら、極めて庶民的な運行をしている。折り返し運転時には清掃作業員が驚異的な速度で整備して新たな旅を提供する。魔法の如く速い。外国人がしばしば驚嘆のビデオを投稿しているが、これを定常化していること自体が矜持の一因である。

 先日利用したときは指定席が満員だった。途中駅で降りた人の席に、その駅から乗車した人が座る。そんな当然なことも新幹線で行なわれていると素晴らしいことのように思えてしまう。そしてこの方法が成り立つのは降車の際にゴミを残さない習慣を確立しているからだろう。

 いわゆる特急は1時間に数本あれば多いほうだ。新幹線はあたかも通勤電車のような間隔で走る地域もある。さまざまなテクノロジーと乗車マナーの維持とでこの高速鉄道は、今日も走り続けている。

曼珠沙華

 彼岸花の咲く季節になった。赤が印象的な花で、花だけが先に咲く。この花についてはこれまでも何度も触れてきた。日本にあるのは基本的にクローンとして増えているので、花期も揃いやすいという。

 この花は曼珠沙華とも呼ばれている。仏教に由来するもので天上に咲く花の一つで地上に降りたものを見ると、幸運が訪れるのだそうだ。彼岸花という名の持つ、非日常のイメージは不吉とも捉えられることもある。聖なるものは一歩違えば邪に転換するのでそんなこともあるのだろう。毒性を成分として含んでいることもこうした想像を裏打ちしてきたのだろう。

 ただ、鮮やかに吹き上げる花火のような花の群れを見ると、心休まることもあるのは確かだ。彼岸花の花が終わると、本格的な秋になる。

レンタルでもいい

 レンタカーを利用する機会があった。今はとても安価に借りられるし、車も悪くない。手続きも簡単だ。毎日乗らないのならこれでもいいのではないかと考えてしまう。

 借りるといえば本にはあまり抵抗はない。図書館は子供の頃から利用していた。学校で積極的に借りなさいと教えられてきたこともある。抵抗がない。日本には江戸時代から貸し本屋が存在したようで、商売として成り立っていた。蕎麦の値段くらいで借りられたというから、本が貴重だった時代の読者数を増やす役割を果たしていたと言える。現代でも漫画のレンタルはある。どうしても蔵書したいものを除けば、借りるだけでいいのかもしれない。

 ひと頃はビデオやCD、DVDもレンタルが流行した。どれだけ利用したか分からないほどだ。その他、観光地でのいろいろなアイテムの貸し出しもよく使った。中には少し高いのではないかと思われるものもあったが、個人で購入しても次にいつ使うのか分からないものは借りてしまう方がいい。

 医療でも入院時のベッドは見方を変えればレンタル商品であり、松葉杖や車椅子も貸してもらえる。対価を支払えばいろいろなものが他者との共有ができるということになる。ならば借りられるものは借りた方がいいのではないか。

 個人所有を譲れないものもある。自分が愛着を持っているものはその中の代表だ。高価だとか貴重品だとかいう理由はその一部にすぎない。たとえ他の人には無価値なものであつても、他者とは共有したくないものもある。これはレンタルの対象にならない。

 それ以外のものはシェアするやり方をもっと進めてもいいのかもしれない。それには産業構造なり、経済活動のあり方を変えてゆかなくてはならないだろうが。大量生産大量消費がいまや地球規模の災害を引き起こしていると考えられている中で、発想の転換が必要なのは確かであろう。

 考えてみれば、自分という生命体はこの世界を他者とシェアしており、決して自己所有のものではない。自分のものと考えていることの多くはそう思いたいという願望なのだろう。

懐かしさの背景

 昔見た風景に再会したとき、心が溶けるように動きだすことがある。特に時々思い描くことがあった風景となるとそれが強く表れる。懐かしいという言葉は万能だ。そう言ってしまえば、とりあえず自分の気持ちを表現できたかのように感じてしまう。

 でも、その感情はもう少し複雑で、自分がいなかったときに起きたさまざまな変化を見逃し、過去の記憶と一致することを抽出することにまず集中する。しかし、例えば昔あった樹木がなくなっていたり、気に入っていた店が廃業していたり、あるいは建物自体がなくなっていたりすると、時の流れを痛感せざるを得なくなる。

 たまたま通り過ぎる人に知る人はいない。話しかけることもできないので、不在の間に起きたことを尋ねることもできない。たとえ訊くことができたとしても、おそらく求める答えは得られないはずだ。彼らその日常を日々重ねてきただけであり、私のように切り抜かれた時間があるわけではない。

 そこで次に試みるのが、時間の経過を積極的に認識しようとすることだ。これだけ時間が経ったのだから、変化は当然だ。考えてみれば自分も歳を重ね、あの頃は駆け出していた道を、いま同じ速度で走ることはできなくなっているではないか。油断するとどんどん衰えてゆく体力、脳の働きを実感しているではないか。

 古い風景を再見することによって、普段は見えない時間が急に具現化する。その衝撃をまず柔らかく受け止めるのが「懐かしい」という感情なのではないだろうか。

錯覚

 高い場所から見ると海の水平線は少し高い場所に移動したように見える。これはさまざまな要因が絡んだ錯覚であるようだ。実際は丸い地球の向こうは低く見えるはずであり、脳が事実を誤認しているというのだ。このような錯覚は不思議であるが、ほかにもいろいろあるらしい。私たちは世界をどのように捉えているのか

おもてなし

 おもてなしとは何か。何を持ってホスピタリティというのかは、日本人が時代とともに分からなくなってきているのではないか。

 豪華な品々、過剰ともいえるようなサービスがもてなしとするなら、少し間違っている気がする。対価に応じたことをするとか、逆に予めサービスの価格設定をしておくとかは、近年の接客の場面では当然のこととされつつある。サービスと対価のバランスを取るならばこれが合理的である。

 でもどうだろう。私たちの求めているのは等価交換の経済行動ではない。サービスする側もされる側も相手を敬い、額面以上の行動に及ぶことではないか。サービスする側は、プラスアルファの提供をし、顧客側はそれに応じた自主的な報酬を与える。そういう関係性がかつてはあった気がする。

 おもてなしが金銭に換算されるのはおかしいと考える向きもあろうが、接客を生業としている人にとっては、紛れもない経済行動なのだ。金銭的に評価される方法は確保しなくてはならない。

 では、求めているのは豪華な物品だろうか、贅沢なのか浪費だろうか。それを求める人もいるかもしれないが、恐らく多くの人にとってはモノのやりとりよりも心の交換の方が貴重だろう。相手が旅人の自分をどれだけ尊重してくれたのかに関心は集まると思う。感動するおもてなしとは何か。私は意外に身近で質素で、にも関わらず日常生活から失われているものを想起させてくれるのが最高のおもてなしなのではないかと考えている。