投稿者: Mitsuhiro

東からくる台風

 台風15号はこれまでの常識を覆す東から接近する台風だ。いまのところ台風自体の規模は大きくなく、最大風速も台風としては控えめのようだ。ただ、東から西に進むという過去にあまり例のない進路であるのでこれまであまり被害がなかった地域で災害が発生する可能性がある。

 過去に反転してもう一度接近した台風があったが、このところそういう不規則進路が多い気がする。気候変動のせいなのか分からないが、少しでも害がないことを祈るばかりだ。

やる気を演じる

 やる気は自然に湧いてくるもので、それがないのは怠惰であるからと考えてきた。おそらく7割方正解だ。でも、最近、このやる気というのも自然のものではないと思い出している。やる気は演出し、そして演じきらなくては実現できない。

 私の場合何かを行う衝動は極めて感情的である。どんなに後付けの理由を拵えても、結局情動に任せて行動をしてきた。それをこれまで上手く操れたのは偶然ながら幸運であった。

 いまはその湧き上がるものを事前に抑制する機能が発達し過ぎていろいろなことに制動がかかる。だからいま何かを行うときは敢えてそのブレーキを外し、意識的に前に進めなくてはならない。ここ数年でそうした自分の変化に気づき、やる気は演じきらなくてはならないと考えるようになった。

 おそらくこれからはやる気とそれに伴う行動をせいぜい演じなくてはならないと考えている。大根役者でもいいのでそういう役を幕が降りるまで演じきりたいと思っている。

夏休みは読書

 今日までフルタイムの仕事があった。明日からつかの間の休暇が始まる。特に何をする計画もないし、先立つものにも心もとない身においては普段はできない身近なことをする時間に充てたい。とりあえずは濫読の日々を考えている。

 少なくとも2日で一冊、軽めの本を読み続ける。近くの図書館で避暑兼読書と決め込もう。最近の悩みはすぐに眠くなってしまうことだが、散歩と読書のサーキットで乗り切ってみようと思う。とりあえず今日、一冊読み終えた。渡り鳥に関するエッセイだった。

 偏らず時流におもねらず手当たり次第に多ジャンルを読む。何かの役に立てようなどと考えない。そういう読書を十年ほど前まではよくしていた。気がつけば何かに役立てるために知識を入力することばかりを考え、まとまった読書の習慣が切れてしまった。

 昔のようにはできないかもしれないが、この際まとまった読書をしてみたい。夏休みの自己に課すものであり、楽しみでもある。

価値観の相対化

 小学生のとき父の転勤で一家は福岡市に引っ越した。両親にとっては何回目かの引っ越しですでに手慣れたものだったようだ。今になってみるとそう思う。ただ低学年の小学生だった私にとってはまるで外国に行ったかのような急激な環境の変化だった。

 まずは言葉が分からないことだ。そして普通に話す東京方言が「つやつけとう」とみなされ拒まれる。父親が何も考えずに買い与えた野球帽のHTの合字のロゴが(関西に無関係の家庭の息子になぜこの帽子を被せたのかは分からない)地元の小学生には気に食わないらしく、太平洋クラブライオンズの帽子を被るように注意された。

 私にとっては福岡での生活は夢のように過ぎ去った。地域のソフトボールチームに無理やり入れられて2軍ながら、そこそこ勝って地域のオヤジたちにほめられた。その地域のさまざまなな環境下の友人と付き合い、友情の素晴らしさと、子どもらしい残酷さとを味わった。浮浪者と呼ばれた被差別階級の生活を垣間見たのもこの時期だった。決して理想化できないが、世の中とはこういうものという原体験ができたのである。

 東京に転校して田舎者の逆差別を受けても、私は動じなかった。子どもとは違う価値観を何となく身につけていたのだ。担任からも変わり者だと評されたが、なぜか達観できた。母が先生は何も分かっていないといったことを言ってくれたのも助けになった。

 今の自分に繋がる精神的な財産があるとすればこの転校の繰り返しによる価値観の相対化が身についたことだと思う。自分の考える正義なり、よいことはもしかしたらほかの人にはそうでもないかもしれない。当たり前と思っていることは他の人には奇異なことである可能性がある。こういうことを理屈ではなく経験で知らしめたのが私の少年時代なのである。

 なかなか決断できない優柔不断さ。物事の判断を価値観の違いに帰してしまうずるさも、このときから生まれている。転校続きの子ども時代を恨んだこともあるが、今となってはそれも意味があったと考えることができるようになっている。

働いて働いて

 首相のワークライフバランス無視宣言は就任当時は好感されたが、やはり言ってはいけなかったことであることが次第に明らかになりつつある。トップに立つ者は人に気づかれずに努力するものであり、仕事量を部下に気づかれてはならない。私はこれだけやっているのだから、あなたがそうしないのは怠惰以外の何物でもない。そのように受け止められる可能性は高い。

 労働者にとっては働きたくても時間の制限があり、無給になってしまうとか、報奨ではなく非難の対象になる可能性が高いものである。ならば完全にこうした制限をなくせばいいというのは短慮で、人権無視の労働を要求する口実になってしまう。今の日本の労働環境は素直に働くことにさまざまな足枷をつけている。

 働くことが喜びに直結し、他者もそれによって幸福感を増すことができるのならば何も問題はない。しかし、実際には労働がさまざまな問題をもたらしているという現実を政治家は知っているべきであった。自主的に働くものに対しては一定評価を、働き過ぎるものに対しては緩やかな規制を、働かないものに対しては労働への誘導を。上に立つ人のやるべきことはその区分けを合理的に行うことだ。

書体

 私は字が汚い方ではないと思っているが、それを他人にも読ませることを想定すると途端に自信がなくなる。何とか読める字なら問題ないが読みたくなる字が書けないと思う。効率化の時代に逆行し、読みたいと思う書体を追究してみたい。

 いわゆる伝統的な草仮名はとても魅力を感じる。多彩にして流麗なのがよい。ただ、それ故に書くのも読むのも高度な技能が必要で日常的なものではない。行書になると難易度が下がる。自分用にノートを取るときは、行書体に近いものであるが、中には読みにくいものがある。もっとも人に読ませる場合は楷書に近い形で書くことが多い。

 デジタル書体ではいわゆる教科書体というフォントが読みやすいらしい。特に最近の改良型は画の太さや、留めはねの方向などに工夫が見られ、識別しやすくするための配慮がなされている。最近は私もこれを知らないうちに手本のようにしていることが多い。

 日本語のように字の種類が多く、画ごとの方向、太さ、変化にバリエーションが豊富な言語にとって書体は重要な表現要素である。手書きする機会は減りつつあるが、自分でもいろいろな書体でそれぞれのメッセージを記してみたい。

夏休み、その後で

 児童、生徒の皆さんにとっては夏休みのただ中だ。暑すぎるのが問題だし、熊本の被災地の皆さんを始め、ここ数年で起きた様々な災害の被災者のことを考えると簡単には言えないが、子どもたちにはこの夏にしかできないことをやってほしいと願う。

 私にとって夏休みは転校先のまだ友だちが少ない中で過ごすことが多かったときだ。小学校で3回はそうだった。父の事例が7月半ばに出て、その後引っ越すことになったので、それまでの友には別れを告げず、見知らぬ土地に連れて行かれた。それでもその頃は順応することばかりを考えていたわけでもなく、結果的には流れに身を任せていたのだろう。

 いわゆる転校生いじめも経験したが、幸いにも私の場合は長期化することはなく、むしろその異質性から珍重されることが多かった。転校は試練ではあったが、子ども社会を生き抜くための基礎体力を形成してくれたことは確かだ。付き合い方の濃淡の重要性を小学生にして知ってしまった。

 実際に新しい学校に行くのは9月1日だったが、その前から近所の子どもと遊ぶこともあった。1人でゴムボールを弾ませていたら、おいと声をかけられて遊ばないかと誘われたこともある。近くの公園でハンドベースをしたり、何とかという変則鬼ごっこをして日々を暮らした。学校が始まったら、クラスが違うか何かの理由で疎遠になったのはなぜだろう。

 夏休みは子どもにとっての試練の時間ではあったが、今となっては貴重な社会勉強の期間であったと想起するのである。

何かを言いたいのに言葉にならない

 何かを言いたいのに言葉にならないときはどうすればいいのだろう。私は時々そのような状況に陥る。ブログを、書くことでこの方面の技能を保持しようと思うのだが、あまり上手くいっていない。

 言いたいことの中には、実に言いにくいことがある。ブログに書くときはそれを限りなく一般化して表現する。でもそれでは「本心」は表現できない。私は結局他人の文脈に入り込み当たり障りのない表現を選択してしまう。書き上げたときはうまくやったと思うのだが、よくよく考えるとちょっと違うのだが、という思いを残す。

 おそらくその時々の思いをそのまま表現するのは至難の業で、限りなく不可能に近いのだろう。それを過去の経験や、他人の残した言い回しを利用してそれらしく言おうとしているのだろう。言葉にならないことを言葉にしようとすると、そういう無理も起きる。

 それでも、何かを表現したい。そう思うのは表現することに何らかの意味を考えるからだ。言語化することで感情に切れ目を入れることがその目的の一つだろう。そうやって私は日々を乗り越えている。

非効率でも自力で

 ここ数日、非常に非効率な日々を送っている。疲労と病気で、行動の効率が落ち、必要以上に時間がかかっている。気がつけば時間を浪費していて現代の基準にはあっていない。それでも、何とか自分でできることはやるということだけは守ることにした。

 そんなに能力がないのなら、人工知能に任せればいいのにと若い世代はいうだろう。確かにAIにプロンプトを書けば数十秒で回答がくる。そしてそれはほぼ間違っていない。自分の書こうとしていたことよりもいいときもある。でも、この段階だけは他者に任せたくない。私のこだわりといえば聞こえはよいが、要するに哲学のようなものなのだろう。

 自分の本心に関わる内容の場合、やはり自分で考え、文字にしなくてはならない気がするのである。他人の言葉を使っても自分の思いは表現できないと考えてしまう。

 もっとも言語自体が他人のものであり、それを使う以上は、自分の独自性を主張しても虚しく響く。それでも、私はほんの少しでも自分独自の何かを表現したいと考えてしまうのである。これは多分に感情的なもので自己満足なのかもしれない。その点は恐らく人工知能に点検させれば明白になるはずだ。

 それでも私は文章は紙にメモを書き、キーボードで下書きを書き、それを幾度か遂行して投稿するという段階を繰り返している。恐らく指が動くまではこれを繰り返すはずだ。何というか、私にはそれ以外の表現方法がないということなのである。

 週に一度くらいの割合でAIに書かせた記事を投稿している。これは手書きで書いた記事をもとにその評価をしてもらうための記事を自動作成しているのだ。よくできているが、本心とは異なるニュアンスもある。そういうズレを楽しむこともいまの私にとっては大切なのである。

ショートコント

 ショートコントというジャンルは演劇の練習用にしばしば使われる。ただ、最近の動画にショートサイズがあり、似た雰囲気を持っている。でも、演劇もしくは演芸好きから言わせてもらうとやはり違うものとしか思えない。動画が編集の末、もしくは人工知能の手を借りてできているのに対して、ライブの役者若しくは芸人の演じるものは質が違うのである。

 完成度では編集後の動画がはるかに上ではあるが、笑いもしくは泣きというものは必ずしも完成されたものが勝るとは限らない。ライブの力というしかないものがある。それを知っている人は金と時間をかけても劇場に足を運ぶのである。

 ショートならば何でもいいというわけではなく、その場でしか味わえないもの、その時でないとできないものがある。ショートコントはこの事実を思い出すきっかけになる。