投稿者: Mitsuhiro

残り続ける記憶

 おそらく昔聞いたり、嗅いだり、触ったりした感覚はなぜか保存されている気がする。もちろんそのまま保存される訳ではなく、適度に脚色されながら、忘れられない思い出として残り続ける訳である。

 不思議なことにこの方面の記憶の保持期間は極めて長い。おそらく、実際にはさまざまな点において劣化が起きており、過去の記録そのままが保存されている訳ではなさそうだ。どうもわたしたちは、記録するという行動に対して厳密さを追い求める傾向にあるが、実生活レベルで覚えているという範囲のものなら、ある種の記憶の保持期間は長いと言うのが正解だろう。

 このようなことはすでに幾多の論者が記している。覚えられる記憶とそうでないものがあるのはなぜだろう。何がそれを分けるのだろうか。

秋服へと

 最近は日照時間が限られ、曇天や雨天では肌寒く感じる。俳句の季語に「うすら寒」というのがあるが、まさにそんな感じの毎日だ。周囲には長袖に上着まで着ている人が増えてきた。

 ただ、私の場合は長袖にするとなぜか暑苦しく感じ、汗をかいてしまう。このあわいの季節は着るものに困るのだ。でも、そろそろ秋服仕様にせねばなるまい。身軽な日々に慣れてしまったので、暫くは切り替えのための努力が要る。

 とりあえずは急に増えるポケットの数を管理できるようにしよう。どこに入れたのか分からなくなり狼狽する悪癖はかなり前からあるので、それに昨今の年齢要因が加わると酷いことになる。

秋の夜の雨景

 今日もほぼ一日中雨で、時折強めに降った。ここ数年は梅雨が控えめであったが、今年はその分の精算を秋雨前線が果たしているかのようだ。日が沈めば雨に揺れた街の、僅かな植え込みに宿る秋の虫たちは日々勢いを得て、蕭然とした雨景に華を与えているものの、やはりそこには寂しさを伴う。

 いろいろな日常の雑事に心身を擦り減らして、疲労の極致に差し掛かろうとするとき、これは秋のせいなのだという弁明が立ち上がる。そうだ、季節がなせることなのだ。そう考えて通り過ぎる。

 秋の夜はさすがに傷心を掻き立てる。肌寒くなった身体感覚が心象にまで及ぶ。その実感が起きるのも、間もなくなのだろう。気持ちを整理するために書いているのだが、それほど甘くはないようだ。

思い出すこと

 学習成果を上げるのが思い出すことなのだそうだ。何かを覚えるために本を何度も読み返すよりも、何も見ずに内容を思い出す方がいいのだとか。確かに昔の何気ないことをいつまでも覚えているのは、そのことを思い出そうとした経験が多いものだ。思い出そうとして苦労すると、忘れにくくなるそうだ。不思議なものである。

日照戻る

 今日は久しぶりに朝から晴れた。日中は真夏日になったがこれこそかつての夏の一日だった。確かに暑いが夕方には収まり、非人間的な酷暑はない。昔の8月上旬に似ていた。もちろん日没時間は違うので単純な比較はできない。

 このところ雨か曇天の日々が続いていたので今日は少し気晴らしになった。猛暑に馴化した身の上では長すぎる秋雨前線の元の毎日はつらかったのだ。しかし、今度は次の天候への対応が必要になる。このところの急激な気候の変化は、体調不良を引き起こし、例えばインフルエンザの流行がすでに発生している。人混みの中を毎日移動している私もいつ感染するか分からない。

 天候の異変を嘆いたところで何も得られることはない。流れてゆく季節の中でその都度対応するしかないのだ。晴れても降ってもそれに合わせるしかない。それが生きるということであり、それ以上のものはない。

未知の経験

 未知の経験という言葉には魅力が溢れている。これまで経験したことがないものに直面できるのならば、そこに何らかの収穫はあるはずだ。損失もあるはずだが、マイナスよりもプラスの方が大きいことは予測できる。楽天的な思考においてはこれが自然だ。

 しかし、現実はそんなに生やさしくはない。未経験の事項についてはうまくいく確率は少ないし、やり遂げたとしても評価されるとは限らない。未熟の範疇として片付けられてしまうことが大半だ。

 誰でも最初の一回はあると励ましてくれた人の言葉をはなぜか忘れられない。この言葉はこれから何度も使えると思ったからだろう。この齢になってもやったことがないことだらけだ。しかも挑戦することを避けることが増えている。

 一回目がなければ始まらない。このことを思い返そう。

 

中国史劇の人物描写

 中国の史劇を見て思うのは、登場人物の多彩さである。何人もの人物が登場し、場面が変わるとあっけなく消えてゆく。始めのうちはそれが不自然でついてゆけない感じがした。かなり深刻なドラマが繰り広げられたのに、次の場面ではもう語られない。あっけないという言葉では表現しきれない。

 島国に密集して生活している私たちとは世界観が根本的に違うのだろう。非常に多くの人がゆき交う中で、繰り広げられる偶然のドラマが中国史劇の関心事なのだ。敗者になればそのまま前景から見えなくなり、消えた理由は特に語られない。日本なら、敗者も例えば怨霊という形で残り、いつまでも現世に影響を与え続ける。人間関係が濃厚であり、個々の人生が歴史に関わっている。

 そういう風土で暮らしている私たちにとって中国史劇の潔い人物描写は違和感を覚えるとともにエキゾシズムを感じるのである。似ているけれども全く違う。東アジアの芸術を観るときの感慨はここでもあてはまる。

バス移動のエンタメ化

 瀬谷で来年行われるグリーンエキスポの準備が進んでいる。このイベントの最大の懸念事項はアクセス問題だろう。会場付近には鉄道の駅がなく、自家用車かバスが使われることになる。恐らく、その拠点になるのが相鉄線の瀬谷、三ツ境、横浜線の十日市場、田園都市線の南町田グランベリーパークの各駅から運行予定のシャトルバスである。鉄道移動を習慣化しているこの地域の住民にはかなり不便に感じるはずだ。

 恐らくこのバス移動の時間、20分程度だと思うが渋滞を考えるとプラス10分をどのように演出するのかがこのイベントの成功の鍵を握るのではないか。移動時間を無駄な時間と感じさせない工夫がほしい。派手な設備投資はできないだろう。ならばラジオ感覚、いや今の世代の言葉を使うならポッドキャスト感覚の放送を流すのはいかがだろう。会場に着くまでの高揚感を演出出来ればいいので、ハイテクというより説得力のある音声パフォーマンスができればいいのだ。

 私はこのバス移動のエンタメ化を密かに期待している。恐らく急場しのぎでかき集めるレンタルバスにも簡単な車内アナウンス設備はあるはずだ。それを活用すればいい。イベント本体がどんなによくても集客できなければ成功とは言えない。そんなことを考えている。

涼しい朝

 今朝は気温が20℃以下となり、肌寒ささえ感じている。半袖シャツはそろそろしまいかと考え出している。予報では明日も同じような天気で、来週は夏日に戻るが、やはり日較差は大きく、季節の移ろいの確実であることを知らせている。

 猛暑の後に、豪雨、さらに長い秋雨ということで体調を崩しやすいようだ。異例の早さでインフルエンザが流行しており、ワクチン接種が間に合っていないとのことだ。天候だけが理由ではないが、それも要因の一つであるというのは間違いない。

 今日の涼しさを体調管理の大切さを思い出すきっかけとして記しておこう。秋来たりなば、である。

雨続き

 このところ雨ばかり降っている。特に午後から夜にかけてまとまった雨が降り続き、日本各地で被害が出ている。秋雨前線と元台風がもたらした南方由来の湿った空気がなすものという。梅雨が短かった分の精算をしているかのようで懸念している。

 去年読んだ「百年の孤独」には何年も振り続く雨の描写があった。なぜかそれを思い出し、凶兆でなければよいがなどと根拠のない心配をしている。不安の種はどこからでも現れるが、このところの長雨は少し恐ろしい気がしてきている。

 思えば気分の落ち込みが自覚され、これではならぬという思いが余計に焦りを増している。やらねばならないことはいくらでもあるのにそれを後回しにして日々を過ごしている。ごまかしではないかと自問自答して止まない。

 心情なるものは自分の状況と周囲の環境の相乗効果で形成されるものと仮説するならば、いまは負の要素が揃っているのだろう。組み合わせが変われば別の局面になるということにして、明日を乗り切ろうと決めた。