類型的だと思う前に

 さまざまな情報が横溢している状況において、自分の考えたことや行動に独自性はないかもしれないと思うことが多い。何をやっても前例があり、新奇性はないように感じてしまう。何らかの類型の一つという位置付けをしてしまうのである。

 それでも大抵の場合は悩まない。むしろ自己開拓するよりはるかに身も心も楽であり、カタログから品物を選ぶようにありふれた経験を積んでゆく。

 でも、よく考えてみれば、類型として捉えるその経験は、細部にわたれば唯一のものであり、他とは決して同じではない。一期一会の巡り合わせの中で思考なり、行動が行われる。このことをもつと意識してみたい。

古典のガイドブック

 いま、私が情熱を傾けているのは新しい古典文学のガイドブックを作ることである。古典教育の価値自体を軽視する風潮がある中で、自国のもしくは周辺国の文化を理解していることがいかに大切なのかを分かりやすく面白く伝えることが必要だと感じているからだ。金にもならないことを教えて何になるという自称知識人諸兄には愚人の行いをしばし見逃していただきたい。

 古典文学にもいろいろあるが、その時々の人々の心に起きた大小の波を言葉の世界に置き換えてきたものだといえる。喜怒哀楽、歓喜に失意、羨望、怨嗟などさまざまな色合いがあるが、根本には表現せずにはいられなかった切実な人々の胸の内があるのだ。それをはるか昔の残したものに見つけるのには大きな意味がある。

 学校の教科として試験に課されるから読んでいた文学作品を、より生活の現場に近づけたい。そのためには気軽に近づける入門書があるといい。そういう本はすでにいくらでもあるが、時代によって読者の気質も変わっているから、現代人に向けたガイドは必要ではないだろうか。

 私は自由に作品を摘読してきたので、学会の常識は分からないが、逆に俯瞰的なつまりいい加減な読みに関しては少しだけ自負するところもある。この際せめてこの意気込みを燃料としてみたいと考え出しているのである。

後半戦

 10月が始まったということは2026年度も後半戦に入ったということになる。天候不順が続いているが、今日の日中はよく晴れた。久しぶりに陽射しをみた気さえする。いろいろなことが上手くいかず、結構狼狽する日々が続いているが、それでも正気でいられるのはまだなんとかなるということの徴なのだと考えることにしている。

 恐らくかつての自分ならとても耐えられなかったような現実も今はなんとかしのいでいる。解決を急がず、今やれることだけをやるという老獪な手法を身に着けたからなのだろう。

 それでも、いまやらなくてはならないと思うことが現れた。残された時間は少ないが、いまの仕事の集大成をしてみたいと考えているのである。具体的なことはまたいつか書くことにしよう。いまはその思いが自分を支えている。

9月尽

 今日で9月が終わる。年度でいえば前半戦が終わったことになる。人生にとって区切れ、切れ目は大切だが、大抵の場合その意識のないまま過ごしてしまう。それを時々思い出すために暦があるのだろう。

第6次産業

 日本のような成熟した資本主義国家が直面するのは生産力とコストとのバランスである。安くてよい品物を生産するためには、労働力を安くして、価格を高く設定することが基本になる。しかし、歴史的時代とは異なり、資本家が富を独占するような仕組みはすぐに糾弾されるし、そもそも継続できそうもない。

 第6次産業とは1次、2次、3次産業の利点を掛け合わせたものという概念のようだ。生産者と、加工者、さらにはそれを消費者に届けるサービス業の視点が掛け合わされたときに新機軸がある。

連続降雨記録

 東京地方は今日で連続降雨が33日となり、過去の最長記録に並んだ。間もなく日付が変わるが、明日も雨の予報であり記録更新は間違いない。ここ数年、梅雨は比較的短い気がするが、その分秋雨が補っていることになる。

 天候不順だけが原因ではないが、私の体調は低空飛行を続けており、情けない限りだ。気持ちもどこか盛り上がらずこのまま寒い季節を迎えるのかと思うと心配になる。

 全世界で起きている気候変動らしき現象はまさに焦眉の急を告げている。誰かが何とかしてくれるという段階を超えて覚悟と忍耐を強要する局面に至ったようだ。いまだに個人や国家の利権のためにこの問題に向き合わない人も多い。科学的見解の違いはあるにしても、少しでも懸念されることは考え直した方がいいのかもしれない。

 印旛沼堤防の決壊は決して他人事ではない。自然は制御できるものと考えるのは一度リセットしなくてはならない。

古典は過去の作品ではない

 古典といえば過去の古臭い、現代とは切離された世界と考えられることが多いだろう。現代の即利益性が他を優先する風潮において、後から味わいが出て、その結果長い期間に利益が期待できるといった手法は、度外視されることが多いはずだ。

 しかし、本当の古典には少々の改変を跳ね返す力がある。民族の深層に訴える何かがあり、異文化の人々にも何らかのメッセージをもたらす力を持っている。だから、古典は過去の作品というわけではない。現在の民族性を含む何らかの要素が含まれている故に唯一絶対の魅力を保つのである。

 古典文学を教える身の上として、過去の遺産としてと教えるのではなく、現在と直接関係を持つものとして若い世代に伝えることが必要だと考えている。

実用、効率

 実用性とか効率性とかそういうものにすっかり毒された気がする。毒ではないのは確かなのだが、それを唯一の基準にしがちな現今の風潮に息苦しさを感じてしまう。何をもって実用というのか、効率とは何なのかを考えたとき、おそらくそこには人間はいない。漠然とした社会という名の下の多数派が勝手に唱えている正義に似た何かだ。

 ただこれに背くことは著しく困難だ。少数派でいることにさまざまな難題を突きつけるのが現代社会なのかもしれない。

マスクの一日

 風邪をひいてしまい、マスクをつけて一日過ごした。気がつけば同じような咳をしている人を街で見かけるから流行っているのかもしれない。いまのところ発熱や倦怠感は顕著ではないのでなんとか週末までは持ちそうだ。私の場合、連休は単なる休養にはならず、生活のリズムを崩す契機となってしまったようだ。どうも、休みだからといっていつもと違う生活をするのは心身に悪影響があるらしい。テレビでもそんなことを言っていた。

新幹線

 日本の新幹線は鉄道の最高位に立ちながら、極めて庶民的な運行をしている。折り返し運転時には清掃作業員が驚異的な速度で整備して新たな旅を提供する。魔法の如く速い。外国人がしばしば驚嘆のビデオを投稿しているが、これを定常化していること自体が矜持の一因である。

 先日利用したときは指定席が満員だった。途中駅で降りた人の席に、その駅から乗車した人が座る。そんな当然なことも新幹線で行なわれていると素晴らしいことのように思えてしまう。そしてこの方法が成り立つのは降車の際にゴミを残さない習慣を確立しているからだろう。

 いわゆる特急は1時間に数本あれば多いほうだ。新幹線はあたかも通勤電車のような間隔で走る地域もある。さまざまなテクノロジーと乗車マナーの維持とでこの高速鉄道は、今日も走り続けている。