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終戦記念日

 戦争について知る日本人はどんどん少なくなっている。今年で終戦81年である。ということは戦争の直接的な記憶がある人は80歳代の後半ということになる。昨年の時点で85歳以上の人口は約692万人という統計がある。しかし、いわゆる健康な人口となるとさらに減少する。要介護認定率は40~45%程度らしく、その反対の55~60%は介護認定を受けていないことになる。認定を受けていないから健康とは言えないが、これらの数字から比較的健康で自立できている人は85歳以上では380~415万人であり、全人口の3.0~3.3パーセントということになる。荒い統計であるが数字を示せばそういうことだ。つまり、戦争を体験し、語れる人自体がわずかになっていることになる。

 日本の戦後の平和教育に関しては一定の効果があったと言える。憲法9条の条文により、いわゆる国軍を持たず、徴兵制を放棄したことも大きかった。しかし、戦争の真の痛みを概念的にしか理解できない世代にとって、戦争は実利や自分の自由度のみが評価基準になっている。本当の意味での反戦の主張はかなり難しい。さらにロシアやアメリカがそれぞれの自国利益のために戦争という手段を使ってはばからず、中国もまた軍備拡張に余念がない。国連の常任理事国が平和維持ではなく、自国利益のために腐心する状況にあって、ならば日本もという主張がはばからなくなっている。

 概念化した戦争は、実感から乖離して人を傷つけること、その後の苦しみなどを後景に押しやってしまう。だから、核兵器を持つ方が国防上は安上がりだなどといった発言がなされ、本人に失言の意識すらない。またそれにうなづいてしまう人が多数いる。

 終戦記念日は平和の意味を問い直す日でなくてはならない。かつてはこの時期になるとそういう新聞記事やテレビ番組がたくさんあったが、最近はそれも少ない気がする。人類の歴史において戦いが繰り返されてきたのはこういうことなのだろう。その愚をまた繰り返してしまうのだろうか。

価値観の相対化

 小学生のとき父の転勤で一家は福岡市に引っ越した。両親にとっては何回目かの引っ越しですでに手慣れたものだったようだ。今になってみるとそう思う。ただ低学年の小学生だった私にとってはまるで外国に行ったかのような急激な環境の変化だった。

 まずは言葉が分からないことだ。そして普通に話す東京方言が「つやつけとう」とみなされ拒まれる。父親が何も考えずに買い与えた野球帽のHTの合字のロゴが(関西に無関係の家庭の息子になぜこの帽子を被せたのかは分からない)地元の小学生には気に食わないらしく、太平洋クラブライオンズの帽子を被るように注意された。

 私にとっては福岡での生活は夢のように過ぎ去った。地域のソフトボールチームに無理やり入れられて2軍ながら、そこそこ勝って地域のオヤジたちにほめられた。その地域のさまざまなな環境下の友人と付き合い、友情の素晴らしさと、子どもらしい残酷さとを味わった。浮浪者と呼ばれた被差別階級の生活を垣間見たのもこの時期だった。決して理想化できないが、世の中とはこういうものという原体験ができたのである。

 東京に転校して田舎者の逆差別を受けても、私は動じなかった。子どもとは違う価値観を何となく身につけていたのだ。担任からも変わり者だと評されたが、なぜか達観できた。母が先生は何も分かっていないといったことを言ってくれたのも助けになった。

 今の自分に繋がる精神的な財産があるとすればこの転校の繰り返しによる価値観の相対化が身についたことだと思う。自分の考える正義なり、よいことはもしかしたらほかの人にはそうでもないかもしれない。当たり前と思っていることは他の人には奇異なことである可能性がある。こういうことを理屈ではなく経験で知らしめたのが私の少年時代なのである。

 なかなか決断できない優柔不断さ。物事の判断を価値観の違いに帰してしまうずるさも、このときから生まれている。転校続きの子ども時代を恨んだこともあるが、今となってはそれも意味があったと考えることができるようになっている。

働いて働いて

 首相のワークライフバランス無視宣言は就任当時は好感されたが、やはり言ってはいけなかったことであることが次第に明らかになりつつある。トップに立つ者は人に気づかれずに努力するものであり、仕事量を部下に気づかれてはならない。私はこれだけやっているのだから、あなたがそうしないのは怠惰以外の何物でもない。そのように受け止められる可能性は高い。

 労働者にとっては働きたくても時間の制限があり、無給になってしまうとか、報奨ではなく非難の対象になる可能性が高いものである。ならば完全にこうした制限をなくせばいいというのは短慮で、人権無視の労働を要求する口実になってしまう。今の日本の労働環境は素直に働くことにさまざまな足枷をつけている。

 働くことが喜びに直結し、他者もそれによって幸福感を増すことができるのならば何も問題はない。しかし、実際には労働がさまざまな問題をもたらしているという現実を政治家は知っているべきであった。自主的に働くものに対しては一定評価を、働き過ぎるものに対しては緩やかな規制を、働かないものに対しては労働への誘導を。上に立つ人のやるべきことはその区分けを合理的に行うことだ。

副首都とは何か

 副首都に関する法案が可決された。日本維新の会の肝いりの法案だが、大阪だけに副首都を担わせるという意味ではないと考える。

 大阪は江戸時代から江戸に次ぐ役割を果たしていたのは事実だ。ただ、例えば金沢もそれに劣らぬ役割を持っていたと思う。東京は歴史的には後発の都市であるが、ほとんどの中心機関を東京やその周辺に置いている今となってはこれらの機能を他都市が代替するのは難しい。

 インターネットがはりめぐらされた現在では機能によっていくつかの都市に分散させた方がよさそうだ。それには大災害が発生したときの一時的な分断に対する対応を考えておくべきだが。

 副首都というのは決して一つではない。恐らく首都という概念そのものが変わらなくてはならないのだろう。

求人広告

 近年、この場所でと思う求人広告がある。例えば実家のある町でバスの行先を示す先頭の電光掲示板にバス運転手募集と書いてある。駅前の発車時刻前の待機時間にこのサインが光り続ける。おそらく運転手のなりてが少ないからこその訴えなのだろう。

 ファストフードの店にもアルバイト募集の告知をよく目にする。時にはかなり大きく、商品の宣伝以上のスペースで募集している。これもおそらく人手不足を訴えているのだろう。我が国の労働市場は安価な非正規雇用に頼りすぎている。安い労働力を求めて従業員を使い捨てにする現状から、アルバイトで働くことを求めているが、本来は正規社員待遇で企業の型を作っていくべきなのだろう。私たちは人間も大量消費の対象にしてしまったのである。

 おそらく、縮小していく日本経済においては人材確保は焦眉の急の課題だ。外国人労働者を充てる手法で今は切り抜けているが、彼らを使い捨てしていることが恒常化すれば、やがて日本は選ばれなくなる。それより自分の組織に適合した人材をしっかりと雇用し、その精度を上げていくことこそが大切なのだと思う。日本はこれまでのように大量生産の国ではなくなる。価格は必ずしも安くはないが、質が高く安心できる商品なりサービスを提供できるものとして世界に認知されるべきなのだ。それにはその組織の成員はプロフェッショナルでなくてはならない。労働者を使い捨てするやり方ではこの国の未来はないのだ。

 求人広告が商品広告よりも大きくなってしまった事態を私は大いに憂うのだ。魅力的な企業であり、待遇もよければ広告などいらないのではないか。


















未成年SNS禁止に思う

  16歳未満にソーシャルメディアを使わせることを禁じる国が増えつつある。判断力、責任力のない世代にSNSの有象無象に対峙させることは危険であるという判断は間違いではない。私たちは悪意の含まれた情報を無害化しながら受け取れるほど進化はしていない。どんなに怪しい情報でもすぐに信じてしまう。まして近年の人工知能の作り出す非現実情報を見抜ける力はない。

 SNSを使わせないことはやはり必要だと思う。ただ、年齢が上がればその害を判別できる能力がつくのかといえばこれも疑問だ。このリテラシーは容易に身につかない。年齢だけの問題ではない気がする。もちろん、似非情報を判別できる能力を身につける努力は必要だ。そのための教育もやるべきだ。

 ただ何よりも必要なのは、多くの人と対面でコミュニケーションする機会を設けていくことだと考える。効率化で自動化無人化する傾向にあるが、せめてあいさつする程度のコミュニケーションは見直していいのかもしれない。

 

現状維持

 現状維持は消極的な目標と考えられてきた。日進月歩は当然のことで、上昇のない成果は失敗と考えられてきた。少なくとも私の世代の常識である。ただ、昨今の状況は違う。現状維持は立派な成果であり、称賛に値するものと考えられるものである。現今を取り巻く状況はかなり厳しい。その中で現状を維持できたのは幾多の努力と工夫の賜物なのだ。

 ダウンサイジングしていく日本の文化においては過去のような成功事例をそのまま当てはめるのは無理がある。過酷な環境に打ち勝ち、別のベクトルを見出してそれを実現できたものこそが成功者なのだ。大量生産大量消費の図式での競争は勝ち目がない。むしろ自分しかできないものを付加価値として打ち出すことが必要になってくる。、

数字の読み方

 いろいろな統計があるが、数字は客観的なデータに見えて、その扱い方によっては極めて主観的なものになると感じている。好結果だと言われても、実際にはさほどではなく、むしろよくないこともある。その逆もまた真である。最近はこの見かけの客観性に騙されていることが多くなっているように思う。

クマとバス

 学校関係者として頭が痛いのが、部活動の校外活動である。特に山間部の野外活動は昨今のクマ被害のために中止や変更が求められている。クマが出たというニュースが出たときに合宿は中止できるのか。したとしてキャンセル料金の支払いはどうするのかといった問題が生じている。

 加えてバスの安全性への懸念がある。業界では人材不足が深刻という。なので、高齢者やにわか運転手がハンドルを握る可能性もあり、事故の起きる可能性は相対的に高まっているといえる。大手のバス会社との契約はコストがかかる。しかも、かなり早めに抑えなければ予約自体ができない。生徒相手の移動手段としては選択の順位が下がらざるをえない。

 このクマとバスの問題がこれからの部活動を苦しめることになる。リスクが全くないということはあり得ないが、せめて楽しく有意義な学外活動を行う機会が失われることがないことを祈る。

憲法記念日に思う

 憲法記念日は本来、日本の法制度について考える日であるべきだ。特に改憲派の首相がある程度の支持率を維持している現在、この問題は喫緊のものと言える。現在の日本国憲法が先の大戦の敗戦を受けて作られ、そこには占領軍側の思惑が多分に反映されていると言われている。

 特に平和主義の精神が反映された第9条には日本の再軍備を防止する意図が見える。だが、結果的にこの条項が戦犯国の復興を保証するものとなった。自衛隊という強力な軍事組織があつても専守防衛の大義名分があれば、世界各地の紛争に参加することが免ぜられ、戦わない国としての信用を得られたのである。

 人類は話し合いですべてを解決できるほど進化していない。恐らく俯瞰的に考えれば、戦争は人類の未来においてはマイナスの行動であり、その損失のために被る損害が計り知れない。それは大半の人類が直感的に分かっていながら、それでも兵器を作り続け、兵士だけではなく一般市民も殺戮し続けている。

 だから残念ながら兵器を無くすことはいまのところできない。特に日本のような経済大国であり、国際的存在感が大きな国家が無防備で存在できないというのは自明の事実だ。非武装中立は夢でしかない。

 憲法で非戦をうたっていることは大きな賭けなのだろう。自衛隊はあるが戦時になれば法律を遵守すれば決して勝つことはない。引き分けに持ち込むことが勝利になる。理論上ではそうでも次々にミサイルを撃ち込んでくる相手に対して迎撃しかできないというのは現実的ではないのだ。

 憲法の既定は専守防衛の構えを世界中に示すことで、日本に攻撃を仕掛けることの道義的な罪悪感を引き出す最善の防衛策として機能しているといえる。かなり危うい奇跡的なバランスだが、これに賭けてきたことがここまでの繁栄の背後にあったのではないか。

 改憲して他国と同様の法制度にするのは、こうしたソフトながら強力な盾を自ら取り除き、国際的緊張に身を晒すことである。当然軍備のための莫大な出費や、徴兵に関する方法も変えなくてはならない。その覚悟を確認する段階を政治家、関係者の皆さんには設定していただきたい。