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憲法記念日に思う

 憲法記念日は本来、日本の法制度について考える日であるべきだ。特に改憲派の首相がある程度の支持率を維持している現在、この問題は喫緊のものと言える。現在の日本国憲法が先の大戦の敗戦を受けて作られ、そこには占領軍側の思惑が多分に反映されていると言われている。

 特に平和主義の精神が反映された第9条には日本の再軍備を防止する意図が見える。だが、結果的にこの条項が戦犯国の復興を保証するものとなった。自衛隊という強力な軍事組織があつても専守防衛の大義名分があれば、世界各地の紛争に参加することが免ぜられ、戦わない国としての信用を得られたのである。

 人類は話し合いですべてを解決できるほど進化していない。恐らく俯瞰的に考えれば、戦争は人類の未来においてはマイナスの行動であり、その損失のために被る損害が計り知れない。それは大半の人類が直感的に分かっていながら、それでも兵器を作り続け、兵士だけではなく一般市民も殺戮し続けている。

 だから残念ながら兵器を無くすことはいまのところできない。特に日本のような経済大国であり、国際的存在感が大きな国家が無防備で存在できないというのは自明の事実だ。非武装中立は夢でしかない。

 憲法で非戦をうたっていることは大きな賭けなのだろう。自衛隊はあるが戦時になれば法律を遵守すれば決して勝つことはない。引き分けに持ち込むことが勝利になる。理論上ではそうでも次々にミサイルを撃ち込んでくる相手に対して迎撃しかできないというのは現実的ではないのだ。

 憲法の既定は専守防衛の構えを世界中に示すことで、日本に攻撃を仕掛けることの道義的な罪悪感を引き出す最善の防衛策として機能しているといえる。かなり危うい奇跡的なバランスだが、これに賭けてきたことがここまでの繁栄の背後にあったのではないか。

 改憲して他国と同様の法制度にするのは、こうしたソフトながら強力な盾を自ら取り除き、国際的緊張に身を晒すことである。当然軍備のための莫大な出費や、徴兵に関する方法も変えなくてはならない。その覚悟を確認する段階を政治家、関係者の皆さんには設定していただきたい。

人文知の必要な時代に

 人工知能の発展は高速である。私のような世代でも気が付けばかなりお世話になっている。私のスマホの最初の画面にはジェミニのウィジェットがあり、個別アプリをたちあげるより、それを使うことの方がはるかに多くなっている。もちろん返ってきた回答を全面的に信じてはいない。どんなに完璧な回答でも、いやそうであればあるほど疑わしく思ってしまうのはやはり、まだ私自身が時代の進化についていけていないからでもあろう。

 プログラム言語ではなく、自然な日本語である程度のプログラミングまでできてしまうのが現在の人工知能だが、専門家によるとこの先はもう人間が余計な口出しをしなくてもAIが自己修正をしながらバージョンアップしていくようになる(なっている)らしい。すると、もう人間の出番はない。AIに適切な指示を与える創造的な能力を持っている人物ならばよいが、ほとんどの人間は作られたプログラムをブラックボックスから出てきたものとして使うことになるようだ。

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 私の従事している教職もかつてはAIに侵害されない職とされていた。しかし、今そう考える人はほとんどいない。教えるということに関しては個々の習熟度に合わせて限りなくカスタマイズする人工知能のやり方に勝てそうもない。今は一斉教育によって、できる生徒とできない生徒が発生している。これは事実だ。ただ人工知能が達成できるのは、教材の提供法や評価の方法においてのことであり、生徒にやる気を起こさせたり、叱咤激励する方面においてはまだ機械にはできないところがあると考えられる。

 今は世間的に存在感を持っているデスクワークを中心とする人々の仕事は次第にAIに代替されていくとして、その先に残るのは機械ではできない人間臭いことを行うものになる。感覚にかかわる繊細な作業や、数値化しにくいサービス関係の仕事などは当面生き残るのだろう。教職でいえば、教えることそのものよりも学びに向かう雰囲気を創生し、維持管理できる人材が必要になっていくのだ。そのために何が必要だろうか。それは人の考え方や行動傾向、心情の理解、他者の価値観の推測などが欠かせない。これらは人文学的な課題ではなかったか。いま、低位にみられているこうした分野の研究がやはり必要になっていくといえる。

 AIを作り出した人は当面AIにその場を奪われていく、そしてこの状況を俯瞰できる人が次の段階に進めるのではないか。手前味噌だが、芸術や文学を学ぶ時代に移行しつつあると考えている。

すぐ辞める新入社員

 すぐに辞める新入社員が増えているという。入れてしまえば支配下におけるという過去の通念は今の世代には通用しない。

 新入社員がすぐに退社してしまうというニュースに接した。私の世代では無理をでも企業の風土に順応し、できるだけ長く雇用してもらうことが何よりも優先された。終身雇用がほぼ標準であった世代にとって、入社直後は忍耐の時期であったのだ。

 ところが、最近は理不尽な新人待遇は論外だが、入社前の雇用条件が守られない場合は退職するという選択肢を取る人もいる。退職に関する事務手続きを代行する業者もいるからハードルも低い。

 企業側としては人材確保は経営の生命線であり、代替の人材をリクルートするための労力と経費を考えるならば、流出は防がなくてはならない。職場の魅力、労働の価値をアピールしなくてはならないのである。「お前の変わりはいくらでもいる」と豪語できる企業は意外に少ない。

 ならば、経営者は労働環境の改善に努めるべきだ。そのための資本投入は欠かせない。さらに金では解決できない社員への精神的な働きかけももとめられる。日本の企業はこの方面では優れていたはずだ。効率性ばかり追求したあまり、情の要素がやせ細ってしまっているように思える。

 辞めていく新入社員を止めることはおそらくできない。彼らは外部の現状をすぐに知り得る。自分の毎日が世界の常識だとなど思うことはないのである。不当な扱いには、すぐに法的な手続きをとって対抗する用意ができている。

 私が今の時代に新人だつとしたら、やはり少し違った職業意識を持ったかもしれない。

平成レトロ?

令和となって8年経つと平成も懐古されるべき過去になってゆくようだ。私のような世代にとっては平成年間は通り過ぎた通過点であり、懐古すべき対象とするには最近のことに感じてしまう。

 戦争も戦後の発展もあった昭和時代に比べると、戦争こそなかったものの阪神・淡路大震災や東日本大震災のような大規模な自然災害に見舞われ、経済的な大停滞時代だったのが平成の特徴と言える。努力すれば必ず報われると信じてきた昭和の信念は、報われることのない場面をいくつも積み重ねた。天災や人災にさらされ決して平穏ではない時代だったと言える。

 最近、平成レトロという言葉を聞くことがある。あまりに近い懐古だと思うが、それほど世の中の変化は激しく、また現状への不満があるのだろう。

自転車運転手の受難

 今日から自転車に対する交通規制が変わった。身近な乗り物である自転車が車両として扱われるようになり、罰則規定も強化された。

 この規定は交通安全を促進するには帰依するだろうが、かなり理想的、もっと言えば非現実的なものであることが残念だ。自転車の走行が想定されている車道脇は路面状態が必ずしもいいとは言えない。水捌けを良くするため斜面になっていることもあり、マンホールなどが設置されていることもある。

 さらには路肩駐車がある場合はそれを回避するために中央に近づかなくてはならず、自動車やバイクとの接触や衝突の危険性が増す。自転車以外の運転者にも自転車への配慮が義務づけられ、罰則規定もあるようだがその周知はなされていない。

 恐らく警察はこの罰則を運用面で制御するつもりでいるのだろう。ただ、例外や除外事項が増えると規則の存在意義が失われる。訴訟にでもなれば、非常に厄介な事例になりそうだ。

 そもそもこの法律を成立させるためには、自転車専用レーンを整備することから始めるべきだった。私の住む街の近辺では車道の両端を塗装して、自転車道のように見せかけたものがあるが、その場所に自動車やバイクが入ってもお咎めはない。駐車も可能とあれば、自転車道とは言えない。速度も重量も走行の安定性も異なる自転車を車道で走らせることはまったく理にかなっていない。

 エネルギー問題、環境問題などを考慮すれば自転車の利用は促進されるべきなのに、そのためのインフラが間に合っていない。今回の法改正はこの事実を浮き彫りにしてしまった。

自転車にブレーキランプを

 単なる思いつきに過ぎないのだが、自転車にもブレーキランプをつけたほうがいいのではないか。車道を走ることが条件付きで義務付けられたいま、来月からは罰則も適用されると言うのだから後方に停止を知らせるランプはあってもいい。前方灯のように常時点灯する必要もないので、さほどの電力消費もないし、太陽電池などを活用すればセルを回すときに起こる負担もないはずだ。

 狭い道路脇を走る自転車には危険が多い。そのリスクを少しでも減らす工夫は必要だと考える。停車を手信号でやるためには片手運転となり、危険性を増やす。ブレーキランプは市販されていて、充電式やモーター連動型、ブレーキレバー起動型から加速度センサーで自動点灯するものなどいろいろある。これらをもっと普及させた方がいい。現状では数千円程度だが、命の安全に役立つものであれば出費としては大きくない。普及すれば価格は下がるはずだ。

 自転車の事故は実はかなり多い。歩道を高速で走るのは論外だが、車道を走る際にさまざまななトラブルに遭いそうだ。対策の一つとしてブレーキランプの装着を提案したい。

ルール変更

 日本人が嫌いなことの一つにルール変更がある。自分のチームが不利だと分かるとルールそのものを変えてくる。ここがゴールですよと決めてそれを目指してきたのに、うまくゴールに入れられるようになったあとで、やはりゴールはここじゃなかったんですと急に変えてくるのだ。これは理解しがたい。

 ただ、国際社会においてはこれは当たり前らしい。ルール自体は全員に公平です。ただ今のルールでは特定のチームに有利なので変えます。という論理だ。既存のルールに特化してそれを追究してゆく我が国の気質は、突然のルール変更に何度も苦汁を飲まされている。

 スポーツの世界ならば何とか我慢できるが経済の表舞台でそれを殺られるとダメージが大きい。結局、ルールメーカーにならなくてはならないということなのだろう。今の日本にそのようなチャンスは限られているが、もしかしたらやらなくてはならないのかもしれない。コンピューターのOSトロンを気前よく開放したり、カラオケの特許を申請しない国民性がどこまで現実的になれるのかは甚だ疑問ではあるけれども。

監視カメラの列を過ぎ

 東急の電車には監視カメラが付いている。出口前の照明の一つにカメラがあるのは周知の事実であり、緑色のランプが点いて稼働中であることを知らせている。車内で起こるさまざまなトラブルを抑止するためにも必要だと思う。

 ただ、私たちの日常は以前よりはるかに監視されていることを自覚しなくてはならない。商店や個人宅に設置された録画機能付監視カメラに加えて、自動車に搭載されたカメラも日常を記録し続けている。かつてはどんなに録画しても、それを解析するのに時間がかかるので無意味と言われていたが、人工知能の機能を活用すれば驚くべき短時間で記録の検索が可能になっている。

 時間は流れ、そして消えてゆくものであったはずなのに、それが記録され蓄積され、ときに目的に応じて再生される。何とも窮屈な時代になったものだ。私は今だけに生きたいが、過去をむしかえされる恐怖に常に怯えなくてはならないのだから。

 さしたる悪事も善行も積んでいない身でかような心配は杞憂であると言われそうだが、いわゆるパノプティコン社会で暮らす身の生きづらさは、微かながらも確実に我が身に迫ってくるのである。

見極め

 日本企業が世界で主導権を握れないのは検証をしすぎるからだという意見がある。万一のための試験を繰り返し、失敗をしないように実験や調査を繰り返す習慣が、国際的競争力を奪っているのだという意見だ。ある意味当たっているのかもしれない。せっかくいいものを作り出しても、検証に時間と資金を使っているうちに他国との競争に敗れてしまう。そういう話はいくつも聞く。

 日本がこのように慎重になるのは、過去の公害や健康被害などの経験を繰り返しているからだろう。それは大切な教訓であり、消費者利用者に対する信用を極めているということなのだろう。だから、この慣習をあながちまちがっているという批判はおかしい。それでも、現状では日本の技術開発なり、商業戦略なりは負け続けることになりそうだ。だから、できたところからすぐに公開して利益を出していくということは大切なのだろう。人材不足は今後の課題である。少子高齢化に加えて、海外企業への転出が続く中で、優秀な人材は貴重になる。人工知能などの活用で、機械的な作業は極力省力化して、クリエイティブな方面の人材を増やすことが必要になる。

 教育の方面もただ就職するための学歴を磨くというより、想像力や創造力を発揮できるような基礎知識と自由な発想をする機会を提供することが必要になるはずだ。それはもしかしたら、今のようないたずらな情報処理能力の追求ではないのかもしれない。もっとじっくり物事を考え、これまで考えもしなかった独創性を発揮できるようにするべきなのだろう。

 日本チームがオリンピックでメダルが取れているのは選手の能力と努力はもちろんであるが、それを引き出すような環境が揃っているからだという。長期的なものの考え方と機を見て方針を変えていく思い切りの良さをとを両立させることが求められている。

 話は単純ではなく、さまざまな方面を効力してそれを統御していかなくてはならない。個人の力をまとめて、それを実現していくより俯瞰的なものの考え方が求められているのかもしれない。その見極めのできる能力こそが未来を拓いていくのだろう。

衆議院議員選挙始まる

 衆議院議員選挙が始まった。唐突でよく分からない選挙だが、野党が離合したり、ポピュリズムに訴える政党がわけの分からない政策を展開したりとか狂想曲の始まりだ。

 ネットの世界でもさまざまな選挙関連の情報が飛び交っている、この種のメディア対策をした候補者、政党が票を伸ばすようだが、多くの場合は静止画やショート動画であり、印象操作以上のものではない。情報に接する機会は格段に増えたが、その質を見極められないまま膨大な量が流れ続けている。

 名前を連呼するだけの選挙戦は論外だが、盛りに盛ったデジタル情報もいただけない。結局、有権者は愚かであるということが前提の選挙活動が続いているのだ。

 この時期に選挙を強行することからおかしいと思うが、せめて印象や刺激にとらわれない判断をするしかない。恐らく投票率は伸びないというのが大方の見方だろうが、期日前も含めて投票することで、国民の政治への関心を示すべきだろう。