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反・反教養主義

 自分のことを棚に上げて理想を言うことにする。これからの知識人はもっと幅広い教養が必要になるのではないか。なんでもAIが答えを生成する時代になり、その真偽を見極め、人工知能を操る力を持つためには様々な価値観を持った現実をそのまま受け入れる人間としての力が必要になると考えられるからである。現実世界の問題は決して単一の論理で解決できない。相反する考え方の乱立する中で一つの方針を決めなくてはならないことの方がむしろ普通なような気がする。

 それなのにいまの教育がどちらかというと情報処理能力の方に傾いているのが心配である。大量の問題を短時間で解答させ、その大意をつかませることが教育界のトレンドだ。確かにこれも大切なことであり、情報があふれる現代社会においては欠かせない能力だ。でも、この作業こそ人工知能の得意分野であり、むしろ代替してもらうことが必要な能力になるのかもしれない。こればかりをやらせていると、人々はその内容に興味を持たなくなる。短時間で設問を解答することに関心が向きすぎてしまうのである。

 教養ばかりを重視する風潮を批判する動きがある。一部の特権階級が知識を独占することは不平等であるというのがその理由であった。確かに教養の独占は長い歴史があり、それが社会的地位を固定化してきたことも事実だ。しかし、現在は学ぶことをそれ自体の意欲を削ぐような動きが教養の意味を変えている。有名大学に入るようなエリートであるのに読書量が少なかったり、知識に伴う経験が乏しかったりする。入試問題は解けても、その問題の中で訴えられているメッセージに関しては深く考えない。

 おそらく、この後の教育の動きは人工知能のできない人間的な問題を解決する力の涵養に動くのだろう。様々な実体験、およびその疑似体験、その一部としての読書体験をどれだけ積んできたのかを問う形に変わっていくと予測している。おそらくそれまでにはもう少し時間がかかるだろう。その時、私はすでに現役ではないがそういう教育の在り方を見てみたい気がする。

調理という個性

 最近は料理をする機会が少ない。それでもわずかな機会を捉えて料理とは何かを考えることがある。今回はその雑感である。

 調理は一種の方程式であり、代入すればある程度の解は求められる。塩コショウの量の間違いは食べるときに気になるだけのことである。なんなら、修正も可能だ。

 方程式を乱しているだけなのに、なぜか料理の出来はその都度変わる。我々の味覚というものが繊細なのか、類型的なのかは分からないが、調理の努力に関わらず、味覚の大きな変革点がある。

 調理という日常的な作業は、この点を見事に克服できている。大きな冒険をしないが確実にネイティブの心を捉える料理を提供し続ける。これがプロの技であろう。

 かくいう私は通を装いながら、実はよく分かっておらず、類型的な価値判断に頼っていることがよくある。料理に正解はないが、作る人の価値観は確かにある。

クマとバス

 学校関係者として頭が痛いのが、部活動の校外活動である。特に山間部の野外活動は昨今のクマ被害のために中止や変更が求められている。クマが出たというニュースが出たときに合宿は中止できるのか。したとしてキャンセル料金の支払いはどうするのかといった問題が生じている。

 加えてバスの安全性への懸念がある。業界では人材不足が深刻という。なので、高齢者やにわか運転手がハンドルを握る可能性もあり、事故の起きる可能性は相対的に高まっているといえる。大手のバス会社との契約はコストがかかる。しかも、かなり早めに抑えなければ予約自体ができない。生徒相手の移動手段としては選択の順位が下がらざるをえない。

 このクマとバスの問題がこれからの部活動を苦しめることになる。リスクが全くないということはあり得ないが、せめて楽しく有意義な学外活動を行う機会が失われることがないことを祈る。

非効率のすすめ

 コスパとかタイパとか効率性を称賛するのはいかにも現代的だ。しかし、効率性を追求するのは場面と状況を選んだほうがいい。無駄を認めること、時間をかけることがその後の発展、現状打破に繋がることもあるからである。

 学ぶことに関してはなんとかパフォーマンスは選ばない方がよさそうだ。結局、自分で考えないことは身につかない。多くの無駄に思える時間を積み重ねていくうちに、あるとき突破口が見える。継続することの愚直さが実は何よりも大切なのだ。

 大器晩成という言葉は現代で第一の理想とはされない。むしろなかなか成果が出ない人への慰めの意味しかない。しかし、人工知能が何でもやってしまう時代においてはじっくりと考え続け、少々の失敗にへこたれない心性こそが求められているのではないだろうか。

 こうした感性は子どものうちから自分でものをなしとげる経験の蓄積から身につくはずだ。成果が出ないとすぐにやり方の変更を強制するのでは自主的な進展の道は開けない。親や教員がすぐに口出ししないことも大切なのだ。効率性偏重の考え方は今後上手くいかなくなりそうだ。地道に練習を重ねることの意味を理解している指導者を増やさなくてはならない。

感動を現場に

 教育改革についてさまざまな意見がある。その中で私が重視したいのが学習者の情に訴える方法である。これは両刃の剣であり、扇情的な手法はしばしば悲劇を生み出してきた。でも、人の心を動かし、未知の能力を引き出すにはこの方法が一番優れている。

 最近の教育環境は過酷である。世の中にの役に立つと考えられることはすぐに舞台の中央に引き出され、その関係者は少しだけ優位な世界を展開できるものの、その栄華はとても短く、新たな別の思いつきにその座を奪われる。知識は検索して借用するものに位置づけられて、獲得の途中の経緯は軽視されているから、知ることそのものへの喜びは得にくい。苦労しない分、忘れるのも早い。忘れてもまた検索すればいい、なんなら人工知能に自動化させればいいと考えてしまう。

 そういう風潮にあってやらなくてはならないのは、知ることの喜びなり、苦しみなりの手応えを目に見える形にすることなのだろう。教育現場はそれを実演し、実行させる場所であるべきなのだ。決まった答えを決まったやり方で行うことをよしとするやり方は少し整理しなくてはならない。要領よくやることの前には自力で何とかやってみる経験が欠かせない。

見極め

 日本企業が世界で主導権を握れないのは検証をしすぎるからだという意見がある。万一のための試験を繰り返し、失敗をしないように実験や調査を繰り返す習慣が、国際的競争力を奪っているのだという意見だ。ある意味当たっているのかもしれない。せっかくいいものを作り出しても、検証に時間と資金を使っているうちに他国との競争に敗れてしまう。そういう話はいくつも聞く。

 日本がこのように慎重になるのは、過去の公害や健康被害などの経験を繰り返しているからだろう。それは大切な教訓であり、消費者利用者に対する信用を極めているということなのだろう。だから、この慣習をあながちまちがっているという批判はおかしい。それでも、現状では日本の技術開発なり、商業戦略なりは負け続けることになりそうだ。だから、できたところからすぐに公開して利益を出していくということは大切なのだろう。人材不足は今後の課題である。少子高齢化に加えて、海外企業への転出が続く中で、優秀な人材は貴重になる。人工知能などの活用で、機械的な作業は極力省力化して、クリエイティブな方面の人材を増やすことが必要になる。

 教育の方面もただ就職するための学歴を磨くというより、想像力や創造力を発揮できるような基礎知識と自由な発想をする機会を提供することが必要になるはずだ。それはもしかしたら、今のようないたずらな情報処理能力の追求ではないのかもしれない。もっとじっくり物事を考え、これまで考えもしなかった独創性を発揮できるようにするべきなのだろう。

 日本チームがオリンピックでメダルが取れているのは選手の能力と努力はもちろんであるが、それを引き出すような環境が揃っているからだという。長期的なものの考え方と機を見て方針を変えていく思い切りの良さをとを両立させることが求められている。

 話は単純ではなく、さまざまな方面を効力してそれを統御していかなくてはならない。個人の力をまとめて、それを実現していくより俯瞰的なものの考え方が求められているのかもしれない。その見極めのできる能力こそが未来を拓いていくのだろう。

学ぶ楽しさを覚え続けるには

 学ぶことの喜びを忘れつつある気がする。何でも検索すれば、もしくはAIに尋ねれば、すぐに答えが出てくる時代において、何かを根気よく学ぶことの意味が分からなくなって来ている気がするのである。

 かくいう私のことを考えてみても、語学であれ、その他の技能であれ、かつてはそれなりに関心があり、独学ながらある程度までは習得できていた。それがいまは何というか、そういうことに時間を使うこと自体が億劫に感じられるようになっている。

 本当は学ぶことは自分の進化なり発展なりを考える機会として感じるもののはずだ。それがいまは苦行のようにしか感じられないのは何とも残念でならない。

遠藤周作の母親像

 昨日行われた共通テストの「国語」は相変わらず、短時間で多くの問題を解く、反射神経と脳の若さを前提とした出題であった。昨年に比べると問3の実用文と、問4の古文が難しく感じられた。もっとも問3のような問題は解きなれていないということが主因であると考えられる。時間をかけずにいろいろな資料の要点をさっとつかみ取る力が試されている。これは人工知能の仕事のように思われるのだが。

 第2問は遠藤周作の小説からの出題であった。没後発見された遺稿とのことで、古い価値観のなかで自らの生き方を貫くことを拒まれた母親の姿を描いている。自伝的な小説ということだ。遠藤周作の作品の中に登場する弱さを受け入れ、罰することなく、寄り添っていくという母親像の原点はここにあったことを感じさせる作品だ。受験生の多くは遠藤作品を読んだことがないはずだ。社会から強いられる女性の生き方をどのように受け取ったのか気になる。

 社会でも女性の生き方についての問題が出題されたという。これはもしかして高市首相誕生効果なのかなどと勘ぐってしまう。女性の生き方はかなり変わったものの、いまださまざまな問題がある。そのことの問いかけならば受験生にとって意味がある。

新機軸

 知識は学習の蓄積からなる。それは疑いようもない事実だ。この点に関しては人工知能が人間の先に行きつつある。これまで人工知能に対して未熟であると否定的に捉えてきたが、この方面では考えを改めなくてはならないと考え始めている。

 今日Microsoftのコパイロットと連句を巻いてみた。式目に沿って付句をしてくるのを見て、少なからず驚いた。確かに感情はないが、過去の多くの人たちがどのように反応するのかという傾向は瞬時に分析し、即座に言葉に変換してくるので文学を理解しているかのように振る舞ってくるのだ。現代人の類型的な思考回路などすぐに克服してしまう可能性が高い。

 ならばこれから人間がやることは何か。思うにこれまでにない考え方を敢えて試してみるという勇気を出すことであろう。しかし、こうしたやり方はこれまでの社会通念とは乖離している。なるべく失敗しないように、過去の成功例を参考にしてそこから逸脱しないことが、いわゆる必勝法と信じられているからである。

 私のように教育の現場に長く暮らしたものとしては、いわゆる「常識」を完全に習得し、そこから大きく逸脱しないようにさせることが人間形成の基本と考えてきた。突飛な考え方は矯めるべきものであり、それが本人のためになると信じてきた。

 でもどうだろう、過去の蓄積だけでいまを考えて行くことは人工知能に凌駕されてしまった。必要なのは学習の果てに起きる飛躍だ。その振れ幅をこそ大切にすべきなのである。いまの我が国の社会にこうした考え方を持つ人は少数派だ。かくいう私も言うは易し、されど本当にそんな場面を見れば、ついそれは違うと口出ししてしまうかもしれない。

 もしかしたら奇妙な考え方、奇怪な行動が真実なのかもしれないという寛大な見方が必要なのだろう。そのためには過去の知識の価値を認めながらも、後生の示した新機軸も認める必要がある。多様な方法のうち、本当に通用するものが生き残り、それが時代を進める。その可能性を高齢世代が奪ってはならないのだ。

 最近の若いものは、と言うのが非難の言葉だけにならないようになればいい。青二才がこんなふうにやってみたぞと言えば、それもありかもなとするのか、はなから否定するのかでは未来は大きく変わる。

聴き方再考

 若い世代の基礎学力が低下しているかもしれないという意見は方々で耳にする。個人的な偏見はあるに違いないがある意味では真実に近いのかもしれない。その原因の一つが情報認知の方法が変わったことにあるという。

 かつては知るものと知らざるものの差は歴然としていた。情報源に接する機会を得られるのか、得た情報を解釈できるのか、その見解を他者に共有する手段はあるのか。様々な段階において格差があり、それ故に受容については相当の緊張感が伴っていた。言ってみればかなりの緊張感を持って対象に接していた。それがいまではネット検索でいつでもアクセスできると思っている人が増え、さらに生成AIがより簡単に答えを出してくれるものと信じている。その結果、聴くことに対するのめり込みはかなり薄っぺらいものになってしまった。

 他人のことを批判するより、自分のことを考えてみたい。講演などを聴講するときに大切なのは結論だけではない。結論は著書などを読めば書いてあるし、話を聴きに行く時点で大体どんな立場の人物なのかは知っている。聴きたいことの中心はその結論に至る思考の行程であり、背景となった環境だ。「どんな」より「どのように」が知りたい。それも著作に整理して書かれたことより、論理的な飛躍はあってもその糧となったものごとを窺い知りたいのである。思考の過程を知ることはその人の出した結論を本当に理解するために欠かせない。

 そのためにメモを取るならば取り方も変わる。思考の過程に注目し、ちょっとした小話を聞き逃さないようにする。事実の羅列はそれこそネット検索でもできるのかもしれない。しかし、本人の口吻から図らずも伝わってくる思考の理解の本当の糸口があるかもしれないのである。

 

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