反・反教養主義

 自分のことを棚に上げて理想を言うことにする。これからの知識人はもっと幅広い教養が必要になるのではないか。なんでもAIが答えを生成する時代になり、その真偽を見極め、人工知能を操る力を持つためには様々な価値観を持った現実をそのまま受け入れる人間としての力が必要になると考えられるからである。現実世界の問題は決して単一の論理で解決できない。相反する考え方の乱立する中で一つの方針を決めなくてはならないことの方がむしろ普通なような気がする。

 それなのにいまの教育がどちらかというと情報処理能力の方に傾いているのが心配である。大量の問題を短時間で解答させ、その大意をつかませることが教育界のトレンドだ。確かにこれも大切なことであり、情報があふれる現代社会においては欠かせない能力だ。でも、この作業こそ人工知能の得意分野であり、むしろ代替してもらうことが必要な能力になるのかもしれない。こればかりをやらせていると、人々はその内容に興味を持たなくなる。短時間で設問を解答することに関心が向きすぎてしまうのである。

 教養ばかりを重視する風潮を批判する動きがある。一部の特権階級が知識を独占することは不平等であるというのがその理由であった。確かに教養の独占は長い歴史があり、それが社会的地位を固定化してきたことも事実だ。しかし、現在は学ぶことをそれ自体の意欲を削ぐような動きが教養の意味を変えている。有名大学に入るようなエリートであるのに読書量が少なかったり、知識に伴う経験が乏しかったりする。入試問題は解けても、その問題の中で訴えられているメッセージに関しては深く考えない。

 おそらく、この後の教育の動きは人工知能のできない人間的な問題を解決する力の涵養に動くのだろう。様々な実体験、およびその疑似体験、その一部としての読書体験をどれだけ積んできたのかを問う形に変わっていくと予測している。おそらくそれまでにはもう少し時間がかかるだろう。その時、私はすでに現役ではないがそういう教育の在り方を見てみたい気がする。

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