カテゴリー: エッセイ

高温の5月下旬

 予報によると5月下旬はかなり高温になるという。17日以降の最高気温は28℃というからもう夏と言っていい。よく言われるように、最近は春と秋がやせ細り、冬と夏が幅をきかせるようになっている。四季から二季になるというかつては大げさな表現だったものが現実味を帯びている。

 人間の体調不良もさることながら、自然界のさまざまな現象への影響も心配だ。近年深刻化しているクマの被害も気候変動の影響もあると考えられている。これまで通りに生きていけない動物たちが起こす新しい行動が人間の社会に何らかの脅威をもたらすことになる。

 もしこれが地球規模で起きていることであるならば、どうして戦争などしているのだろうか。人類は仲間割れしているうちにもっと大きな力にねじ伏せられてしまうのだろうか。巨視的な判断ができる人材を俟たなくてはならないのか。あるいはそういう見方のできる若者を育成しなくてはならないのだろう。かなり苦い試みになるが、君らの先輩は失敗ばかりしてきた。だから批判的に考え、現状を打破してほしい。そう切望するしかない。

 とりあえず、今年も猛暑あるいは酷暑の日々を過ごさなくてはならないことはほぼ間違いない。それに耐え、正気を失わずヤケを起こさないことが大事だと考える。

宇宙のことを考える必要性

 夜空を見上げると星が輝いている。東京の空に見えるのはせいぜい3等星くらいで、天の川は想像力の力なしでは見えない。それでもその少ない星々の光彩を見るだけでも日常のしがらみを越えた何かを感じることはできる。

無限に広がる大宇宙

 先日、天体写真の専門家のKAGAYA氏の写真展を見てきた。長時間露光の写真がもたらす肉眼を越えた光の姿は美しさを超えて神秘的でもある。光を集める技能がもしあったら、世界は全く違って見えるであろう。ただ、そこまでしっかりと見守ることが今の私にできるだろうか。心もとない。

 無限とも言える宇宙の中で己の矮小さを自覚できたなら、もっと謙虚な生き方ができるのではないか。その意味では時々夜空を見上げ、虚心の域に達するのは意味があるのではないかと考えるのである。

泥臭いという褒め言葉

 泥臭いという言葉のイメージが変わりつつある。ネガティブなものから、評価されるものへの変化と言えばいいだろうか。非難の対象ではなくむしろ称賛の域へと変換されつつある。

 なぜなのだろう。思うに泥、つまり実体験に裏打ちされた経験が貴重になっているからなのであろう。私たちの日常は有意な情報の蓄積に満たされているが、その大半が経験を伴わない知識である。行ったこともない場所の出来事であったり、一度もやったことがない出来事の成功例を踏まえていたりする。

 泥臭いやり方とはそういう他人の知見に頼ることなく、自らの行動で獲得したいわゆる純粋経験に基づいているからこそ貴重なものなのだろう。だから、泥臭いことは決して貶し言葉にはならない。むしろ理想でもある。ただ、今となってはその泥のある場所にたどりつくのが一苦労であり、泥に飛び込む勇気がない。だから、既製品の知識で完結してしまうことが多いのだ。

 泥臭い経験をどれだけ積んだのかが、これからの人生には貴重になるのかもしれない。エリート教育にもこの体験を意識して行わせるべきだと思う。

人工知能は兵器にもなる

 人工知能はすでに軍事利用されている。例えば爆撃目標を映像から解析し、追尾して爆弾を命中させるといったことが行われているらしい。ブログラムは目的遂行のために最短で結果を出すことが求められ、それを果たす。人のいない戦争が始まっている。

 人情のない兵器に戦争を任せていいのだろうか。真剣に悩み、疑念が絶えない。人間も戦時には狂気になるようだが、それでも他者の命を奪うことに幾分の戸惑いは残ると信じたい。それが人工知能ならば温情の挟まる余地は無さそうだ。

 歴史上の戦記のいくつかを読むと、重要な局面で人間による判断がなされる。場合によってはこれにより形勢が逆転することもあるようだ。人間の関与があるだけ、少しだけ納得してしまうことがある。

 機械が戦争を始め、別の機械が抵抗し反撃するとしたら、人間的な葛藤は起こり得ない。より優れた(戦に勝つ上で)ブログラムが勝つとなればもう戦争とは言えないのかもしれない。

分かり易いのが良いわけでは

 分かりやすさは理想とすべき目標の一つだが、大切なのは高度に検証された内容を分かりやすく語ることである。単に安易でありその実がなかったり、間違っていたりするならば害にしかならない。最近はあまりにも分かりやすくしようとするために内実が貧困になっているものがある気がする。

 高度に複雑であり、理解に専門性が求められるものやことに対しては、過程を飛ばして結果だけを得るということが多く行われている。よく分からないが使ってみれば便利だとか、どんな背景があるのか分からないが、言っていることはよさそうだといった感じで分かり易い言説は受け入れられている。ブラックボックスのことは考えずに、そこから出てきた魅力的な回答だけをいただく、そんなことはいくらでもある。

 解答を短絡的に求める志向性は、残念ながら学校教育で形成されているのかもしれない。短時間で回答を求め、とりあえず想定された正解を答えることでよしとされる。それは現今の教育のあり方そのものだ。

 だが、今は正解と考えられることも、時代とともにそうは考えられなくなることはいくらでも実例がある。価値観が変われば評価の軸は変わってしまうのである。

ふんわりとした感覚をつかむ

 AIの書けない文章を書くことを目指している。私のブログをNotebookLMに読ませたところ、情緒的であると指摘された。婉曲的に論理性が足りないことを言いたいのだろう。それに反駁するつもりはない。むしろ今後さらに情緒的に書こうと考えている。

 最近、もっとも関心があるのが、あるきっかけで感情が動くという事実だ。それが何なのかはまだ言葉にはできない。ただ、構想はいくら机に向かっても生まれないのに、そぞろ歩きをしているときに突然思いつくことがある。私はそのときに備えて小さなメモ帳をいつもポケットに入れている。大抵はくだらないことなのだが、年に数回は自分にとっては画期的な思いつきが得られることもあるのである。

 その理由とか因果関係とかはよく分からない。恐らく冷静に分析すればトリガーが何なのかは突き止められるのかもしれない。でも大切なのは、発想の転機は必ずしも論理的展開からは生まれないということなのだろう。ふとした思いつき、他人の何気ない言葉から得られることがどれだけ多いことか。

 こうしたふんわりとした感覚をできるだけ言語化することがこのブログの目的ではないかと考えている。矛盾や飛躍があるのはむしろ誇らしいことだ。そう思うようにしている。

言文一致はいまも未達成

 話し言葉と書き言葉は現時点でもかなり違う。話し言葉を忠実に文字化すると、かなり意味の取りにくいものになってしまうのは想像に難くない。

 前近代においては平安時代の言葉が書き言葉の手本として考えられた。話し言葉は時代ごとに刻々と変化していったのに、それは意識されることもなく規範であり続けたのてある。は

 話し言葉が状況に左右されるものであるために、いわば共通言語としての書き言葉が求められたのだとも言える。万人に同じ文法で語れるならばよほど便利であり、効率的なのだから。

 話し言葉は変化しやすく、状況や会話の成員によっても劇的に変わる。同じ人物の話し言葉であっても、どこで誰と話しているかによって言葉遣いが変わってしまう。それぞれの文脈に沿って、ふさわしい話し方があるので、特定の個人にとってどれがその人の本当の話し方なのかを決めることはあまり意味がない。その時々において話し手がもっとも伝え易い言葉が選択されている訳である。

 そのいわば共通語的な役割を果たしてきたのが書き言葉なのであろう。一定の文法と作法によって成り立っている書き言葉は表現の基準としてあり続けるのである。

 話し言葉の自由さと、書き言葉の規範性を私たちはうまく使い分けているということになる。これは結構大事なことであり、その能力がさまざまな災厄を遠ざけている。

 

暗黙のルールが守られるために

 私たちの日常は様々な約束事で成り立っているが、もっとも表面的なものとして暗黙のルールというべきものがある。たとえば車を運転する場合、2つの道路が1つに合流するときには一台ずつ交互に譲り合うというのが私の住む近辺でのルールである。ファスナーに例えられる合流の方法は誰から教えられるでもなく実行されている。救急車両が来れば路肩に車を寄せ道を譲るのもそれであろう。

 運転手でなくても決まっていることは大概守られる。電車に乗るときは降車客が降りてからにする。ただこれは時々破られてしまうことがある。モラルの欠如もあるが、乗りなれていない人に見られる失敗であろう。普段使っている路線ならばどのくらいの人が降りてくるのかは大体分かるので、それを待ってから入ろうとするが、旅先では慣れない乗り換えに遅れたくないという焦りに、その駅の乗降客数の状況がつかめないためフライングしてしまいがちだ。

 暗黙のルールはさまざまな局面にあるが、それが表面化していないために部外者には分かりにくい。これが国際レベルになるともっと深刻で、自国では当たり前のことが通用しない。場合によっては違反行為になってしまうことも多いのである。

 そこから起きるトラブルを防ぐにはどうすればいいのか。それは周囲への観察が欠かせない。自分の行動が他集団ではどのように翻訳されるべきなのかを考えなくてはならない。おそらくそれは多くの失敗も伴うだろう。でもそれを乗り越えてこそ達成できる。暗黙のルールは別の言葉に置き換えると文化と言ってもいい。異文化を知り、場合によってはそれに沿った行動をすることは、日常生活の中からも学べるのである。

体感を伴う教え方

 よく対話型の授業が大切だと言われている。私が生徒のころは一方的に教員が話し、それをノートに記録するという授業ばかりだったので、今のやり方はかなり違う。教える側になって気づいたことは本当に理解するためには、用語の記憶だけでは足りないということである。

 私のように国語を教えている場合はこの問題は切実だ。授業の大半は言葉だけでできており、論理的展開を教えるのも言葉で完結する。もちろん、説明用に幾分の記号を用いて図式化することもあるが、生徒側からすればそれは言葉の変形のようなものであり、腑に落ちる理解につながるものとは必ずしも言えない。厳しい言い方をすれば、教える側が説明ができたということを自己満足するための方法であり、学習者の利益になっているとは限らない。

Person in traditional Japanese clothing playing a flute seated on a wooden veranda with a garden and pond in the background
AIが生成した画像

 これは国語の成績が悪い生徒には顕著に表れる。言葉の操作が得意ではない生徒にどれだけ言葉を尽くして説明しても余計に混乱を招くだけなのである。言葉以外の要素を加えていかなくてはならない。例えば古語を教えるときにはその辞書的な意味を覚えてもらうことは最終的には必要だ。しかし「あはれ」は趣深いであり、「をかし」も趣深いと辞書にあればその違いは分からない。さらに「あはれ」は対象を見たときに思わず動く心の動きによるもので、感情的なもの、「をかし」は一度その内容を評価したうえでその素晴らしさをいう際に使う理知的なものといった説明がある。それはそうなのだが、この説明は両者の差異を自覚できた人には有効だが、そもそも何のことを言っているのか判然としない向きには、説明書きが長くなっただけのように感じるだろう。

 ならば「あはれ」や「をかし」を実際に体験してもらうしかないだろう。急激に心が動く感動体験を「あはれ」という経験を持ってもらうのが良い。無難なのは美しい花の写真や、悲しみに暮れる人の姿などの写真を見せて「あはれ」と言わせる。補助線として現代語の「ああ」から入るといいのかもしれない。感動のシーンが古語でいう「あはれ」につながる。対して美意識や価値観、道理などに照らし合わせて期待値を超えたものを見たときに出てくるのが「をかし」なのだとしたら、ちょっと考えてから判断を下す現代語の「なるほど」を出発点にして「をかし」に至らせるといいのかもしれない。月を見ようと思ったがあいにく雨、それでもそれを喜んでいる人がいるとする。なぜかと聞けば本当の月が見えない分、心の中で理想的な月影が見えているからだ、などと説明した後に「をかし」を言わせるといい。実際の用例ではこれほど分かりやすくはないが、根本の精神が理解できれば古文への親和感が増す。

 敬語についてもそのシステムを理論的に説明するだけではなく、身分の違う役割を演じさせて実感的に学習した方がいい。尊敬語を使うときの、使う側の気持ち、使われる側の気持ちを実感できれば理解は進むはずだ。敬意を払うべき対象が複数いる場合の語り手の気の使い方もまずは自分で感じた方が分かりやすい。言葉づかいで人間関係を構築しようとする日本語の仕組みは、おそらくその気遣いの在り方を知ることで深まるはずなのだ。

 生徒諸君が教科書や参考書で学習することはある程度自学自習でも可能だ。もちろん向学心を育成できていればなのだが。しかし、ここまで述べてきた実感の獲得というものについては他者の助けがあった方がいい気がする。授業においては古典の背景にある語感や当時の価値観、人生観の体感的理解を促す行動を中心に置いた方がいいような気がしている。

土産を買うことの意味は

 お土産を買う文化は世界共通ではないようだ。友人や同僚、近所の人々に土産を買うことは日本人にとっては当たり前の行動であり、これが観光産業を支える要素の一つになっている。旅先だけではなく、コンサートグッズや美術館や博物館のショップも結構賑わっている。

 私たちはその地に行ったこと、何かに参加したことを物に残そうとする思いがあるのかもしれない。経験は時間とともに消え去るがものにすれば少しその消滅を延長することができる。土産に多いキエモノは比較的すぐになくなるが、少なくともそれが消費されるときに経験が想起されることになる。他者に贈るモノは自分の管理から離れるが、少なくともそれを贈与する段階で、自分の経験は意味を持ち、うまくいけば人間関係の強化につなげることができる。真の目的は他人の好感を得ることでも見返りを期待することでもない。自分の経験を意味あるものにして、思い出すための手段なのであろう。

 だから、他者から土産をもらったときはその品物に対する評価よりも、送り主がした経験の意味を高めることをした方がよさそうだ。どんな旅だったのか、どんな経験をしたのか。それは実に素晴らしく、羨ましいと一言言えば土産を送った人の満足度を高めることができるのである。送る方はそれを実は期待しているはずだ。贈るだけで自己満足は得られるものの、リアクションによってそれ以上の報酬を得ることになるのである。

 贈答によって人間関係を堅固にしてゆく文化は世界各地にあるが、日本においてはそれが顕著に見られる。盆暮れの消費行動はその一つだ。特別な経験のあとにある土産物を贈る慣習もこれに含まれる。近年これを虚礼として廃する傾向にあるが、もしかしたらそれによって自分の経験の価値自体を貶める結果に至ってしまったのかもしれない。