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分かり易いのが良いわけでは

 分かりやすさは理想とすべき目標の一つだが、大切なのは高度に検証された内容を分かりやすく語ることである。単に安易でありその実がなかったり、間違っていたりするならば害にしかならない。最近はあまりにも分かりやすくしようとするために内実が貧困になっているものがある気がする。

 高度に複雑であり、理解に専門性が求められるものやことに対しては、過程を飛ばして結果だけを得るということが多く行われている。よく分からないが使ってみれば便利だとか、どんな背景があるのか分からないが、言っていることはよさそうだといった感じで分かり易い言説は受け入れられている。ブラックボックスのことは考えずに、そこから出てきた魅力的な回答だけをいただく、そんなことはいくらでもある。

 解答を短絡的に求める志向性は、残念ながら学校教育で形成されているのかもしれない。短時間で回答を求め、とりあえず想定された正解を答えることでよしとされる。それは現今の教育のあり方そのものだ。

 だが、今は正解と考えられることも、時代とともにそうは考えられなくなることはいくらでも実例がある。価値観が変われば評価の軸は変わってしまうのである。

暗黙のルールが守られるために

 私たちの日常は様々な約束事で成り立っているが、もっとも表面的なものとして暗黙のルールというべきものがある。たとえば車を運転する場合、2つの道路が1つに合流するときには一台ずつ交互に譲り合うというのが私の住む近辺でのルールである。ファスナーに例えられる合流の方法は誰から教えられるでもなく実行されている。救急車両が来れば路肩に車を寄せ道を譲るのもそれであろう。

 運転手でなくても決まっていることは大概守られる。電車に乗るときは降車客が降りてからにする。ただこれは時々破られてしまうことがある。モラルの欠如もあるが、乗りなれていない人に見られる失敗であろう。普段使っている路線ならばどのくらいの人が降りてくるのかは大体分かるので、それを待ってから入ろうとするが、旅先では慣れない乗り換えに遅れたくないという焦りに、その駅の乗降客数の状況がつかめないためフライングしてしまいがちだ。

 暗黙のルールはさまざまな局面にあるが、それが表面化していないために部外者には分かりにくい。これが国際レベルになるともっと深刻で、自国では当たり前のことが通用しない。場合によっては違反行為になってしまうことも多いのである。

 そこから起きるトラブルを防ぐにはどうすればいいのか。それは周囲への観察が欠かせない。自分の行動が他集団ではどのように翻訳されるべきなのかを考えなくてはならない。おそらくそれは多くの失敗も伴うだろう。でもそれを乗り越えてこそ達成できる。暗黙のルールは別の言葉に置き換えると文化と言ってもいい。異文化を知り、場合によってはそれに沿った行動をすることは、日常生活の中からも学べるのである。

土産を買うことの意味は

 お土産を買う文化は世界共通ではないようだ。友人や同僚、近所の人々に土産を買うことは日本人にとっては当たり前の行動であり、これが観光産業を支える要素の一つになっている。旅先だけではなく、コンサートグッズや美術館や博物館のショップも結構賑わっている。

 私たちはその地に行ったこと、何かに参加したことを物に残そうとする思いがあるのかもしれない。経験は時間とともに消え去るがものにすれば少しその消滅を延長することができる。土産に多いキエモノは比較的すぐになくなるが、少なくともそれが消費されるときに経験が想起されることになる。他者に贈るモノは自分の管理から離れるが、少なくともそれを贈与する段階で、自分の経験は意味を持ち、うまくいけば人間関係の強化につなげることができる。真の目的は他人の好感を得ることでも見返りを期待することでもない。自分の経験を意味あるものにして、思い出すための手段なのであろう。

 だから、他者から土産をもらったときはその品物に対する評価よりも、送り主がした経験の意味を高めることをした方がよさそうだ。どんな旅だったのか、どんな経験をしたのか。それは実に素晴らしく、羨ましいと一言言えば土産を送った人の満足度を高めることができるのである。送る方はそれを実は期待しているはずだ。贈るだけで自己満足は得られるものの、リアクションによってそれ以上の報酬を得ることになるのである。

 贈答によって人間関係を堅固にしてゆく文化は世界各地にあるが、日本においてはそれが顕著に見られる。盆暮れの消費行動はその一つだ。特別な経験のあとにある土産物を贈る慣習もこれに含まれる。近年これを虚礼として廃する傾向にあるが、もしかしたらそれによって自分の経験の価値自体を貶める結果に至ってしまったのかもしれない。

 

連休の谷間

 連休の谷間だ。私は土曜日も出勤日なので本当の休みは日曜からだが、企業によっては休みが取れる人もいるらしく、今朝は朝の電車でも座ることができた。

 4月からいろいろなことが始まったので、この時期に休息ができることはありがたい。とともに、少しここまでのやり方を振り返っておきたい。果たして継続可能なのか。効果は出ているのか。やりたいことをできているのかなどと。

 実は大切なのは緑に触れることだと考えている。ルーティンから距離をおいて、考えない時間を少しだけ設ける。そこから何かが生まれるのかもしれない。休みになったら、公園にでも行ってみたいと考えている。

少しだけ飲むといいのだけれど

 少しだけ酒を飲んだときにさまざまなアイデアが浮かぶのはなぜだろうか。よく感じることなのだが酒を飲み始めて一定の時間まではいろいろなアイデアが出てくる。過去にそれで思いついたことをもとに始めたことがいろいろある。ただ、私のように酒自体が好きなものにとってゴールデンタイムはすぐに過ぎ去り、単なる酩酊の段階に入ってしまう。

 うまくいったときのことを考えると飲み始めたものの、それ以上の飲酒が許されないときで、しかも身近に記録する紙なりデジタル媒体なりがあったときのことだ。そういう偶然はそれほどないから、うまくいくケースは限られている。

酒は好きですが

 この齢になるとやるべきことの最低ラインをクリアすることはある程度できている。問題はそれ以上にならないことだ。加齢とともに、その合格ラインは逓減していき、それを上回ることで満足してしまいがちだ。うまくやった、きり抜けたと考えてしまう。

 でも、それはおそらくエントロピーの法則に従って消滅していく段階の出来事ということになる。悪あがきを旨とする私にとっては多少不格好でもやれることをやりたい。この意味で起爆剤としてのごく少量の酒を飲むことは諦めないでいよう。難しいのは第二段階に進まない工夫だ。

機種変更

 これまで使っていたスマートフォンが容量不足でどうしようもなくなったので買い換えることにした。よく考えれば、最新の機能を求めなくても時間とともに使えなくなっていくのはコンピューター性らしいが少しわりきれないところがある。

 アプリの再設計などが残されており、当面は魂を抜かれてWi-Fiで生き続ける旧機種の残務整理に追われそうだ。主役から降りてシステムファイルが小さくなった影響で元気を取り戻したのが何とも皮肉である。

 スマホ依存にならないよう、必要なとき以外には使わないように心がけたい。

手に職

 AIが発達するとなくなってしまう職があるとはしばらく前から何度も言われている。技術の発展で消滅した職業は数多い。いわゆるホワイトカラーの職業の多くは今後人工知能に代替されてしまうかもしれないという。そのあとで生き残るためには、AIを操作する側に回るか、AIのできない職に代わるかしかないとも言われている。前者になるのはかなりの能力と機会的な幸運が必要だ。後者はそれに比べると転身の可能性が高い。

 ただ、AIに代替しない領域と言えば、数値化しにくい繊細で人間的な仕事か、物理的な動作を伴う、つまり力仕事になる。かつてはブルーカラーと呼ばれた職業階級がAI時代以降は人間の生きる道になるということだ。先見の明のある人はいわゆる手に職を目指して動き出しているともいわれる。

 私のような世代になるとこの種の転身はかなり難しい。でも生きるためとなればやるしかなるのだろう。今のような仕事をそのまま継続することは想定しない方がいいだろう。やはり手に職は必要なのかもしれない。

平均身長より少し低い

 日本人の平均身長はと言われると結構統計的には難しいらしい。いわゆる成長期終了から中年までの年齢層だと171cmくらいになるそうだ。この数値が出るということは175cmを超える人がかなりの割合でいるということだろう。

 私はその平均身長にわずかに足りないほどの背丈なのだが、通勤電車での実感ではもっと下のような感覚がある。もっとも少し前の世代ならとっくに引退していてもいい年齢なのだから当たり前とも言える。

 学生の頃、大学に通うために乗った横浜に向かう電車では混雑しても自分の身長で群衆に埋没することはめったになかった。私より先輩の方々が少し低身長でいらしたためだろう。見下ろすとまではいかなくても、窮屈な思いをすることはなかった。それが最近はどちらかといえば囲まれて埋没する側になっている。一体、自分は何者なのか。それをあからさまにしないように装いながら、結局なにもしないまま加齢の偏見にたえるようにしている。

 日本人の場合は特にそうだが、身長を人物判断の基準にするべきではない。バブル経済時代に男の甲斐性として高収入、高学歴に加えて高身長が数えられた。少なくとも第3項はすでに無意味とされているはずだ。

堂々と間違える

 同じように情熱を傾けたつもりであつてもその成果はさまざまだ。うまくいくときと何をやってもだめなときとがある。おそらくその極端な例が記憶されていて基準のようなものになっているのだと思う。実際はその時々の状況によるものだ。たまたまうまくいったこともあれば、失敗の連続で心が萎縮してしまったこともある。

 私は何かをやるときに過去の経験から逃れることが難しい。失敗した例があると、その繰り返しを恐れて余計うまくいかない。その難易度とは別に障害となるものが出来してしまうのである。そもそもやることを回避してしまうこともあるから、余計に克服できなくなっていく。

 その都度気持ちを切り替えて、過去の経験にとらわれないようにすべきなのだろう。これは言うは易し、行うは難し。今の私にできるのは堂々と失敗することに慣れるのに越したことはない。間違えることが決してものごとの末端ではないことを認識すべきなのだろう。

 

生産の儀式

 生産の儀式というのは正しい表現ではないが、私の場合は結構大切なルーティンである。それをすることで非日常の時空を無視やり現出する。それが今の私の必須の日課だ。

 日常の中に無理やりあやをつける。その人為的な所為によって私は安楽な平凡から少しだけ抜け出せる。だから時間があれば何かが出来るという訳ではない。むしろ暇な時間は限りなく空白の何しない時間になってしまう。何かをなすためには意図的にそれを行う準備をして、かなり意識して始める。

 いまの私にとっては何かをすることはこのように大げさな企てが必要だ。そのための方策をいろいろ考えいる。もっと自然に始められたらいい。かつてはそうだったが、懐古は止そう。面倒だが今は儀式あってのことなのである。