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世が世なれば

 すでに引退した先輩が私を何かと褒めてくれたことばがある。君は世が世なれば大物になっていたはずだと。今風にいえば別の世界線に立てば君は成功者だとでも言うのだろうか。読者の皆さんもすでにお気づきだろうが、ありもしない「世」をどれだけ想定しても、現実世界では虚しいばかりだ。それをたびたび私に話してくれた先輩は、それが思いやりだとお考えだったのだろうか。

 私のこれまでの人生は多くの人に比べてもさほど起伏に富んだものとは言えない。子どものころに転校が多かったこと、最初の定職が地方都市であったこと、さまざまな失敗を積み重ねてきたこと。それらも多くの人に共通することであろう。いろいろな人生の節目で、人生の変節点を感じたこともある。そして別の岐路に行けば違う人生が待っていたはずと思うこともある。

 これも自分だけではなく、どんな人にもあることだ。それなのに、時々別の生き方をしていたらと考えてしまうことがある。今よりもっとましな人生があったのではないかと。先輩の「世が世なれば」という言い方はこうした妄想にやさしくカバーを付けてくれていたのかもしれない。別の世はない、いまの生き方を行くしかない。とにかく今を生きましょうと。私自身がその先輩と同年齢に近くなり、その思いやりに気づけるようになったのかもしれない。

できることできないこと

 自分ができることができない人に出会うと哀れだと考えてしまうことがある。こんなこともできないのだ。きっとなにか訳があるのだろうなどと。

 しかしこれは他人事ではなく、自分もまたできないことが他人に露見したときに同じことを思われている可能性がある。このくらいのことができないのかと蔑まされるか、哀れみの対象になるかは実に相対的なものだ。

 優位の基準も時代により地域により立場により異なる。方程式が解けないことや、読解力がないことは現今の価値観からすれば劣位に置かれて然るべきだろう。ただ、どうしたら植物を安定して育てられるか。効果的な魚釣りの方法を理解しているのかという別の基準を持ち出されたら、まったく違う結果になる。

 人にはできることとできないことがあり、それらを補いあってこそ集団の力が発生する。なのに、ある一つの物差しを絶対化して、それ以外を無意味化するのは実生活と乖離しているというしかない。私たちは一人では生きられない生物であることを思い出すべきなのだろう。

思い出は

 思い出は積み上げていくものだと思っていたが、実はそうでもない。零れ落ちていくものが多くて、過去を保つことはできないからだ。いつの間にか自分の記憶の世界が痩せていく。でも、それは仕方がないことなのだ。

 細胞単位では私たちは常に新陳代謝を繰り返し、いくつもの過去を捨て去り、新しい何かを生み出している。その収支のバランスがうまくいかなくなるとその先にこの世の終わりがあることになる。だから思い出も日々更新してくものだと考えなくてはならない。

 過去の成功にこだわらず、まして失敗にも左右されず、これからのことを考えなくてはならないのだ。私はこの歳になってさまざまな覚悟ができない自分に焦りを感じている。

求人広告

 近年、この場所でと思う求人広告がある。例えば実家のある町でバスの行先を示す先頭の電光掲示板にバス運転手募集と書いてある。駅前の発車時刻前の待機時間にこのサインが光り続ける。おそらく運転手のなりてが少ないからこその訴えなのだろう。

 ファストフードの店にもアルバイト募集の告知をよく目にする。時にはかなり大きく、商品の宣伝以上のスペースで募集している。これもおそらく人手不足を訴えているのだろう。我が国の労働市場は安価な非正規雇用に頼りすぎている。安い労働力を求めて従業員を使い捨てにする現状から、アルバイトで働くことを求めているが、本来は正規社員待遇で企業の型を作っていくべきなのだろう。私たちは人間も大量消費の対象にしてしまったのである。

 おそらく、縮小していく日本経済においては人材確保は焦眉の急の課題だ。外国人労働者を充てる手法で今は切り抜けているが、彼らを使い捨てしていることが恒常化すれば、やがて日本は選ばれなくなる。それより自分の組織に適合した人材をしっかりと雇用し、その精度を上げていくことこそが大切なのだと思う。日本はこれまでのように大量生産の国ではなくなる。価格は必ずしも安くはないが、質が高く安心できる商品なりサービスを提供できるものとして世界に認知されるべきなのだ。それにはその組織の成員はプロフェッショナルでなくてはならない。労働者を使い捨てするやり方ではこの国の未来はないのだ。

 求人広告が商品広告よりも大きくなってしまった事態を私は大いに憂うのだ。魅力的な企業であり、待遇もよければ広告などいらないのではないか。


















避暑空間

 酷暑日という言い方は以前からあり、私もブログで使ったことがある。一種のブラックジョークのようなものと思っていたが今年から正式名称昇格してしまった。すでに観測点がいくつも出ている。もはやSFの世界ではなく、今ここにある危機である。

 こうなると冷房というシェルターがなければ生存すら脅かされる。公的機関は避難所扱いで空調の効いた空間を提供すべきだ。民間施設も有料でもよいので酷暑避難所を開設してほしい。これももはや架空の話ではない。

 喫茶店や図書館など気軽に使える避暑空間をどれだけ知っているのかも重要だ。自宅のエアコンが万一故障しても逃げ場があることがこれからは死活問題となる。

文章を書くという癖

 文章を書くのが好きになったのはいつからだったろう。夏休みの絵日記の類は葉月晦の作になっていた。おそらく日記というものは苦行以外の何物でもなかった。それがブログ書きになっているのはものすごい皮肉な笑い話だ。

 長い文章を書いたのは旅行したときの印象を書き出したことだと思う。図らずも私の日記は紀行文から始まっている。特別な体験は文章に残したくなるというのが自然の成り行きなのだろう。どこそこに着いたとか、何を見たとか、そういう他愛もないことを書いていた。

 ネット時代になってブログという存在に気づいてからは日記というよりは随想を書くようになった。それもこの二十数年の間で少しずつ変化して今の形になった。いまや生活の一部であり、特別な経験がなくてもよくなっている。

 私の場合はこれが存在の自己確認手段の一つであり、明日もまた同じ行為をすることを何となく目標として考えている。すでに癖であるともいえそうだ。

スニーカー通勤

 最近、スニーカーを履いている女性が増えている。それも通勤時にスーツと積み合わせている人も多い。私は個人的にはいいことだと考えている。

 働く女性の靴といえばヒールの高いものとかつては決まっていた。おしゃれというより一種のルールとしてヒールのある靴は当たり前とされていたのだろう。身体によくないことは明らかだし、運動能力も低下してしまう。スニーカーはそうした弊害を除くには当然の履物だ。

 ただ、いまだスニーカーの選択には考慮すべき点があるように感じる。着ている服とのコーディネートを考え色や形を選ぶべきだと思う。スーツに合う履物をデザインすることも必要であろう。

 少し心配なのは、ハイヒールに代わるものとして超厚底の靴を履く人がいることだ。身長を高くし、足を長く見せる効果はある。ただ、重心が上に行くことによる危険性の方がはるかにまさるのではないか。

 履物とは何なのか再考しなくてはならない。日ごろからいろいろな履き替えを要求されているからであろうか。大変気になる問題なのだ。

デジタル文字を見て

 駅の電光掲示板を見ていたら、ドットの作る文字が、実は随分大雑把なものであることに気づいた。日本語にはひらがなや漢字の一部の画に曲線を描くものがあり、多彩だ。それを限られたドットで表現するのはかなりの工夫が要る。

 でも、それほど多くはない点の集合の組み合わせでみごとに文字が表されている。不自然を感じない曲線が映し出されている。

 でもこれをよく見れば、結構抜けている部分がある。にもかかわらずそれに不自然を覚えず、読めてしまうのは、文字というものは、ある要素さえ抑えて入れば少々おかしな形でも読めてしまうことを意味する。足りない要素があるのに読めてしまう。

 おそらく省略された文字の部分は脳が補完するのであろう。それを逆算してデジタルの文字はできているようだ。

分かり易いのが良いわけでは

 分かりやすさは理想とすべき目標の一つだが、大切なのは高度に検証された内容を分かりやすく語ることである。単に安易でありその実がなかったり、間違っていたりするならば害にしかならない。最近はあまりにも分かりやすくしようとするために内実が貧困になっているものがある気がする。

 高度に複雑であり、理解に専門性が求められるものやことに対しては、過程を飛ばして結果だけを得るということが多く行われている。よく分からないが使ってみれば便利だとか、どんな背景があるのか分からないが、言っていることはよさそうだといった感じで分かり易い言説は受け入れられている。ブラックボックスのことは考えずに、そこから出てきた魅力的な回答だけをいただく、そんなことはいくらでもある。

 解答を短絡的に求める志向性は、残念ながら学校教育で形成されているのかもしれない。短時間で回答を求め、とりあえず想定された正解を答えることでよしとされる。それは現今の教育のあり方そのものだ。

 だが、今は正解と考えられることも、時代とともにそうは考えられなくなることはいくらでも実例がある。価値観が変われば評価の軸は変わってしまうのである。

暗黙のルールが守られるために

 私たちの日常は様々な約束事で成り立っているが、もっとも表面的なものとして暗黙のルールというべきものがある。たとえば車を運転する場合、2つの道路が1つに合流するときには一台ずつ交互に譲り合うというのが私の住む近辺でのルールである。ファスナーに例えられる合流の方法は誰から教えられるでもなく実行されている。救急車両が来れば路肩に車を寄せ道を譲るのもそれであろう。

 運転手でなくても決まっていることは大概守られる。電車に乗るときは降車客が降りてからにする。ただこれは時々破られてしまうことがある。モラルの欠如もあるが、乗りなれていない人に見られる失敗であろう。普段使っている路線ならばどのくらいの人が降りてくるのかは大体分かるので、それを待ってから入ろうとするが、旅先では慣れない乗り換えに遅れたくないという焦りに、その駅の乗降客数の状況がつかめないためフライングしてしまいがちだ。

 暗黙のルールはさまざまな局面にあるが、それが表面化していないために部外者には分かりにくい。これが国際レベルになるともっと深刻で、自国では当たり前のことが通用しない。場合によっては違反行為になってしまうことも多いのである。

 そこから起きるトラブルを防ぐにはどうすればいいのか。それは周囲への観察が欠かせない。自分の行動が他集団ではどのように翻訳されるべきなのかを考えなくてはならない。おそらくそれは多くの失敗も伴うだろう。でもそれを乗り越えてこそ達成できる。暗黙のルールは別の言葉に置き換えると文化と言ってもいい。異文化を知り、場合によってはそれに沿った行動をすることは、日常生活の中からも学べるのである。