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ラジオ

 今月からNHKラジオが一波減った。ラジオの大切さは身にしみている。前は小型ラジオを持って歩いていたが、それも電波の届かない場所も多い都会では不便ということで、スマートフォンのアプリを通して聴く方法になった。

 この方式を知ってからはかなり頻繁に利用していたのだが、私の使うスマートフォンにミニプラグがなくなってからは遠ざかっていた。数年前に変換プラグがいわゆる百均でも手にはいることを知り、今回の停波のこともあって久しぶりに有線イヤホンでラジオを聴き始めた。周囲にはあまり見かけないオールドスタイルである。

 ソーシャルメディアのショート動画を見るよりよほど価値があると私は感じている。

所属意識

 幼い頃に何度も転居したためなのか、私には土地に関する所属意識が薄い。所属意識という概念を持つ故郷と言える場所がなく、それを切望しているのに一向に現れないのである。

 そんな私にとって、最初の職場は地方都市ながら自らの所属意識を持てそうな場所であった。いろいろ足りないことはあったが、その不足分に自らの存在意義を感じることができたのである。できればそこにいつまでも暮らしていたかった。

 それが職場の事実で中断され、再び流浪の身になる。東京での生活はかなり長くなったが、いまだに客人として生きているという感覚のままだ。先輩たちのいう「骨を埋める覚悟」が持てていない。これは多分に情緒的なもので、気の所為と言われれば反論は時間がかかる。

 ある場所に対して執着しろとか献身的に振る舞えというのは間違っていると思う。愛国心とか、郷土愛といったものは内発的なもので他者から強要されるべきではない。ただ、その内発的意識が生まれないのはやはりそれなりの問題がある。私たちは愛国心なり、郷土愛といったものと、コスモポリタンとの調和を常に意識する必要がある。現在はそれが自己愛に傾き過ぎているので分断が進行している。でも、世界を等閑視するのはやはり問題がある。

 自分の生活圏を大切にしながら、その生活圏を成立させている周辺世界への目配せも忘れないのがこれからの世界を生き抜く術となる。私はこれからも「旅の人」たる生活を続けるだろう。臨終間近にあるいはこう思うかも知れない。いたるとろろに青山ありしと。今のところはそのような境地には至らないけれども。

新年度

 週単位の仕事をしている業者にとっては今日が新年度の始めということらしい。気温が高めで桜はほぼ満開、春というのにふさわしい日だった。

 中東の困った戦争のため、石油危機の予兆が日々色濃くなり、株式が混乱している。ただでさえ変化の激しいこの時期に要らぬ騒ぎは早く終えてほしい。

 NHKラジオが第2放送をやめてしまったのは残念だ。語学番組などはFMなどで引き継ぐようだが私のような世代にとってはかなり残念だ。インターネットでいつでも放送が再生できる時代にあっては存在意義が薄れたとも言える。AMが二波あったことによる非常時の安心感が少しなくなったのも問題だ。

 年度が変わることで何かを捨て新しいことを始めなくてはならない。社会もこの私も。

今の形になる前の

 都会に住んでいると、ここがもともとどんな土地であったのかを考えることを忘れてしまう。始めからアスファルトに覆われ、高いビルが建っていたのではない。人間生活がもたらすさまざまなものだけが表面にあって、そのほかが目隠しされているような毎日にすっかり慣れてしまっているのだ。

 今の形になる前を思いやるには地形を俯瞰的にみるのがいい。もちろん整地されて形は少しずつ変わっているが、山や丘陵はそう簡単には動かない。河川は移ろいやすいものの、水源から河口までの経路はある幅をもって変動している。そういうものを感じ取る必要がある。

 そのためには実際に歩いてみなくてはならない。その傾斜を実感することでその地がどういうところだったのかを想像することができる。ただ、歩ける範囲だけでは時間がかかるので、乗り物に乗って移動することも同時に行わなくてはならないであろう。そして、過去の資料を調べることも必要だ。近世以降なら古地図もあるし、絵画として残っているものも参考になることがある。

 自分の住んでいるところがかつてはどんなところであったのかが分かれば、いまそこで生活していることのありがたさや素晴らしさが確認できるかもしれない。そういうことを忘れて、今を消費するだけの生活をしていると、よくないこともしてしまうような気がする。

リーダーはアイドルではない

 イスラエルとアメリカの同盟がイランの首脳を攻撃して殺害したという。ネタニヤフ氏もトランプ氏も自身の進退に関わる選挙を目前としてあるいは利己的な目的でこの戦争を仕掛けたのではないかとも言われている。

 真相は分からないが、どうも権力者たちの横暴がポピュリズムに担保されて歯止めが利かなくなっている現状がある気がする。もしこの推測が正しいのなら、民主主義は重大な局面を迎えている。

 よく分からないが、なんとなく印象がいい指導者に自分の望みを託し、本当にそれにふさわしいかどうかを検証せずに臣従してしまう。あたかもアイドルを推すかのように無批判に全肯定してしまうのは、かなり危うい行動なのだが、それに気づく間もない。

 トランプ大統領が自身の見解をソーシャルメディア垂れ流すように、現今のリーダーは批判の手続きを省略し、とにかく言ったもん勝ちの様態がある。リーダーが正しい判断をできれば何の問題もないが、それができない場合は悲劇が待っている。民主主義の制度設計をした人たちは気づかなかったのだろう。私たちはしばしば間違える。多数決は真実を特定できない。

 これは極めて残念で、信念を挫く事実だ。現在の人知では民主主義が必ずしも最善の方法ではない。寧ろ危険な世界の糸口になっている。多数決は絶対と学んできた真理が偽となったとき、われわれはどうすればいいのだろう。残された手数はほとんど残されていない。

 少なくとも現状が最良の状態とは思わないのが肝要だ。

受験生の頃

 受験生だった年のこの頃はどんなふうに過ごしていただろうか。考えるといまより脳の反射神経なるものははるかに優れていた。分かることも分からないこともはるかに早く見極めがつき、分かることに集中する思い切りもあった。いまの生徒諸君に比べれば、いろいろ情報不足で周囲の人が垂れ流す様々な噂を半ば信じてそればかりに集中することもできた。参考書を何度も解いたり、少し大きめの声で世界史を講談のような調子で覚えたりした。

 2月も下旬なると大抵の大学は試験が終わり、結果も出てくる。私は下旬になっても合否の発表がなく、どうせ浪人だろうと思っていたが、何とか合格を取れた。もっとも行きたかった地方の国立大学も合格できたのだが、親の意見で結局都内の私立に進んだ。学費に下宿費を加えればそれほど差はなくなるし、実家からの通学はあとから考えればかなりお得であったことは間違いない。ただ、そのときはかなり複雑な思いであった。

 3月に卒業式がいきなりあり、同級生男子のほとんどが浪人していたので、遊びにも誘いにくく、孤独になってしまった。英会話、新興宗教の誘いに乗りそうになり、危うく避けて孤独な日々を送った。それが今ごろの季節であったことを少しずつ思い出している。

 受験勉強は集中的にいわゆる学力を伸ばしたのかもしれないが、生きる力とか真実を見抜く能力については成長を期待できない。私にとっては18歳の3月を無事に乗り越えられたことが奇跡のようにも思えてしまう。もし、その年代の方が読者におられたら、もしくはお知り合いにおられたら、是非考えていただきたい。受験勉強は大学に入るための手段の一つであり、それで合格できたからと言って何かが終わった訳ではない。寧ろそののあとの方がやるべきことが多い。高校とはまったく違う大学生活に適応するまでは焦らず、即断せず、本当にやりたいことは何かをよく考えることだ、と。

雨降って

 雨が降ったせいなのか、花粉症の症状が少し楽になった。すると、なぜか集中力が上がった気がする。何も良くなった訳ではないのに、悪い状況から抜け出すとなぜかとても良くなった感触になるのだ。

 どうやら、私の感覚というものは随分あやしいもので、極めて相対的に感じ取っている。先日まで耐え難かったものが、それ以下の状態を通過して快適な部類に範疇を変えてしまっているのだ。

 雨が降るのは必ずしも悪いことではない。その後の曇りが期待できるからだ。

本降りの雨

 今日は朝から本降りの雨だ。予報によると夜まで続くという。乾燥した毎日だったのでこんな日もあってよい。何よりも貯水池の水量が少しでも回復することを願うばかりだ。利根川水系のダムの中には貯水率が3割を切ったところも出ている。

 とりあえず今朝は小さな折り畳みしかない私にとっては何とかしなくてはならない試練が待つ。やはり駅前にあるレンタル傘を使うのがいいのだろうか。

花粉症最盛期

 昨日からまともに花粉症の症状が出ている。鼻水が止まらない。例年、こうなるときが数日あり、次第に治まる。どうしたらよかったのか思い出しているが分からない。

 こういった問題は本当に深刻なときはあれこれ悩んでいろいろ考えるのだが、ピークを過ぎると急にどうでもよくなる。そのときのことを記録でもしておけばよいのだが、事態が収束したあとはそれが億劫にしか思えなくなってしまうのである。

 今回こそは記録をしようと今は思っている。ひと山超えて同じ志を保てているかは分からない。

地理感

 東京の地理感は鉄道の路線で把握している。だから、実際に歩いてみると意外に遠かったり、逆にかなり近かったりするのだ。意外と起伏があったり、川が隔てていたり、歩いてみないと分からないことがある