タグ: 思い出

懐かしさの背景

 昔見た風景に再会したとき、心が溶けるように動きだすことがある。特に時々思い描くことがあった風景となるとそれが強く表れる。懐かしいという言葉は万能だ。そう言ってしまえば、とりあえず自分の気持ちを表現できたかのように感じてしまう。

 でも、その感情はもう少し複雑で、自分がいなかったときに起きたさまざまな変化を見逃し、過去の記憶と一致することを抽出することにまず集中する。しかし、例えば昔あった樹木がなくなっていたり、気に入っていた店が廃業していたり、あるいは建物自体がなくなっていたりすると、時の流れを痛感せざるを得なくなる。

 たまたま通り過ぎる人に知る人はいない。話しかけることもできないので、不在の間に起きたことを尋ねることもできない。たとえ訊くことができたとしても、おそらく求める答えは得られないはずだ。彼らその日常を日々重ねてきただけであり、私のように切り抜かれた時間があるわけではない。

 そこで次に試みるのが、時間の経過を積極的に認識しようとすることだ。これだけ時間が経ったのだから、変化は当然だ。考えてみれば自分も歳を重ね、あの頃は駆け出していた道を、いま同じ速度で走ることはできなくなっているではないか。油断するとどんどん衰えてゆく体力、脳の働きを実感しているではないか。

 古い風景を再見することによって、普段は見えない時間が急に具現化する。その衝撃をまず柔らかく受け止めるのが「懐かしい」という感情なのではないだろうか。

残り続ける記憶

 おそらく昔聞いたり、嗅いだり、触ったりした感覚はなぜか保存されている気がする。もちろんそのまま保存される訳ではなく、適度に脚色されながら、忘れられない思い出として残り続ける訳である。

 不思議なことにこの方面の記憶の保持期間は極めて長い。おそらく、実際にはさまざまな点において劣化が起きており、過去の記録そのままが保存されている訳ではなさそうだ。どうもわたしたちは、記録するという行動に対して厳密さを追い求める傾向にあるが、実生活レベルで覚えているという範囲のものなら、ある種の記憶の保持期間は長いと言うのが正解だろう。

 このようなことはすでに幾多の論者が記している。覚えられる記憶とそうでないものがあるのはなぜだろう。何がそれを分けるのだろうか。

夏休み、その後で

 児童、生徒の皆さんにとっては夏休みのただ中だ。暑すぎるのが問題だし、熊本の被災地の皆さんを始め、ここ数年で起きた様々な災害の被災者のことを考えると簡単には言えないが、子どもたちにはこの夏にしかできないことをやってほしいと願う。

 私にとって夏休みは転校先のまだ友だちが少ない中で過ごすことが多かったときだ。小学校で3回はそうだった。父の事例が7月半ばに出て、その後引っ越すことになったので、それまでの友には別れを告げず、見知らぬ土地に連れて行かれた。それでもその頃は順応することばかりを考えていたわけでもなく、結果的には流れに身を任せていたのだろう。

 いわゆる転校生いじめも経験したが、幸いにも私の場合は長期化することはなく、むしろその異質性から珍重されることが多かった。転校は試練ではあったが、子ども社会を生き抜くための基礎体力を形成してくれたことは確かだ。付き合い方の濃淡の重要性を小学生にして知ってしまった。

 実際に新しい学校に行くのは9月1日だったが、その前から近所の子どもと遊ぶこともあった。1人でゴムボールを弾ませていたら、おいと声をかけられて遊ばないかと誘われたこともある。近くの公園でハンドベースをしたり、何とかという変則鬼ごっこをして日々を暮らした。学校が始まったら、クラスが違うか何かの理由で疎遠になったのはなぜだろう。

 夏休みは子どもにとっての試練の時間ではあったが、今となっては貴重な社会勉強の期間であったと想起するのである。

受験生の頃

 受験生だった年のこの頃はどんなふうに過ごしていただろうか。考えるといまより脳の反射神経なるものははるかに優れていた。分かることも分からないこともはるかに早く見極めがつき、分かることに集中する思い切りもあった。いまの生徒諸君に比べれば、いろいろ情報不足で周囲の人が垂れ流す様々な噂を半ば信じてそればかりに集中することもできた。参考書を何度も解いたり、少し大きめの声で世界史を講談のような調子で覚えたりした。

 2月も下旬なると大抵の大学は試験が終わり、結果も出てくる。私は下旬になっても合否の発表がなく、どうせ浪人だろうと思っていたが、何とか合格を取れた。もっとも行きたかった地方の国立大学も合格できたのだが、親の意見で結局都内の私立に進んだ。学費に下宿費を加えればそれほど差はなくなるし、実家からの通学はあとから考えればかなりお得であったことは間違いない。ただ、そのときはかなり複雑な思いであった。

 3月に卒業式がいきなりあり、同級生男子のほとんどが浪人していたので、遊びにも誘いにくく、孤独になってしまった。英会話、新興宗教の誘いに乗りそうになり、危うく避けて孤独な日々を送った。それが今ごろの季節であったことを少しずつ思い出している。

 受験勉強は集中的にいわゆる学力を伸ばしたのかもしれないが、生きる力とか真実を見抜く能力については成長を期待できない。私にとっては18歳の3月を無事に乗り越えられたことが奇跡のようにも思えてしまう。もし、その年代の方が読者におられたら、もしくはお知り合いにおられたら、是非考えていただきたい。受験勉強は大学に入るための手段の一つであり、それで合格できたからと言って何かが終わった訳ではない。寧ろそののあとの方がやるべきことが多い。高校とはまったく違う大学生活に適応するまでは焦らず、即断せず、本当にやりたいことは何かをよく考えることだ、と。

懐かしい曲

 金曜の夜は実はかなり披露している。体力の減退もあるが、いまの生活は毎日が全力で行かなければならないという思いが強く、心身ともに困憊してしまうのである。もっと余裕があったはずなのに。それを思うとさまざまな悪い付帯事項が惹起するので、すぐに打ち消すことにしている。

 疲れた夜にするのはなにか。いろいろ試してみるがどれも神経をかえってすり減らしてしまう。そのなかで成功率が高いのが若いころに聴いた曲を聴くことだ。昔夢中になって曲を聴き直してみると、その当時のことがほんの少し思い出される。当時の若く甘い人生観を思い出すとなぜかほほえましく感じてしまうのである。同じ自分であるのに。

 それを今を嘆く材料にしてしまっては逆効果だ。むしろ、忘れていたひたむきな気持ちを取り戻すことを思うのがいいと思う。そして大抵の場合、そういう方面に心は動くのである。懐かしい曲を聴くのは知らず知らずのうちに失われた何かを取り戻すためのきっかけなのである。

特別な記憶

 覚えていることの中には、いわゆる特別な記憶というものがある。その多くが自分の生き方に深く関与し、多大なる影響をもたらしている。

 妙なものだが、若くして死んだ友の葬儀に立ち会い、焼き場にまで付き合ったことはいまでも深く心に刻まれている。棺桶が焼かれるところへ移動するときの扉を閉める音は、この世とあの世の境界として深層に刻印されている記憶だ。

 他にも特別な記憶はいくつかあって、何かあるごとに想起される。随分昔のこともあるのに、そこに出来するのは常に瑞々しい記憶なのだ。

 特別な記憶の多くは類型的な誇張がなされていて、真実そのものからは遠い。でも、その中で考えたことは虚偽ではなく、必ず一面の真理を踏まえている。そのような記憶が飛び交い、場合によってはその記憶で横溢されるのも意味のあることだと思う。私たちは新しいことを始めるのは苦手だ。だから、過去の記録をそのまま受け入れるのではなく、いまの生き方にあわせて過去を改変することも、残念ながらあるのである。

北千住の銭湯

北千住駅にて

 北千住の駅のディスプレイが変わっていた。前にも何度か書いたが、私は幼年期にこの街に住んでいて断片的に記憶が残っている。銭湯もその一つである。当時は自宅に風呂がなく、銭湯通いは必然の生活風景だったのだ。現在はその面影はない。が、私の覚えている北千住はもっと地方都市感があった。人口は多かったが、平屋がほとんどで下町の情緒が横溢していた。

 銭湯に行くときは父か母に連れられて行き、それによって男湯に入るか女湯に入った。覚えているのは父の頭の洗い方は痛く、少し不快だったことだけだ。男湯には入れ墨の人もいたように思うが特に恐れもしなかった。関心があったのは風呂上がりに紙のキャップで封じられた瓶の牛乳が飲めるか否かだった。恐らく当時の父の収入では贅沢はできなかったはずで、毎回飲めるとは限らなかったと思う。

 銭湯から当時の我が家まではそれほど距離はなかったはずだ。その道なりに多くの人とすれ違い、さまざまな店が声をあげて客を呼び込む姿を見た気がする。夕方から宵の口にかけての賑やかな街の様子が朧気に想起される。

 もしこの千住の街にもっと長く生活していたとしたら、どんな人生があったのだろうか。そんな妄想をすることがあるが、所詮それは無意味なことと思った瞬間に思考停止に陥いる。私はそういうもし、ならば、という段階がいくつもあるのでそんなことを考えては止めることを繰り返しているのである。いまはそれで正気を保ち、日常に立ち向かっているが、まもなく訪れる人生の転機の後で、この妄想に付き合ってみてもいいのかもと考え始めている。

屋上のアイドル

 渋谷に住んでいたころの思い出は数々あるが、懐古の波が起きると止まらなくなることがある。思い出したときに書いておこう。

 高校生の頃だったか、今はなき東急プラザの屋上にちょっとしたステージがあって、ときにはタレントやアイドルのショーがあった。友人と訪れたのは河合奈保子のプロモーションであった。その頃の彼女はデビューしたての新人歌手だった。レコードのいわば手売りのイベントで持ち歌もシングルの両面のみ、いかにもプロの作詞家と作曲家がアイドルのために作ったという感じのコケティシュな曲だった。後に彼女自身がかなり完成度の高い作曲をするとは、そのときは思えなかった。

 彼女にものすごく熱を入れていた友人は、いろんな情報を持っていて、いろいろと説明してくれた。彼はいたって真面目でピアノ演奏が得意な控えめな性格の持ち主だったので、アイドルへの執着は不思議だった。彼のおかげで売れる前のアイドルの姿を見られたのは幸いであったのかもしれない。

 昭和のアイドルたちはいまより過酷な条件でステージに立っていたようだ。一人もしくは数人の単位で営業していた当時は個人の能力や才能、資質に多く依存していた。そのキャラクターが前面に出ることから、個人的な批判に晒されることも多く、中にはステージ上の仮面と真の自分とのバランスを保てなくなってしまった人もいた。

 過酷な世界に咲いていたあだ花と見る向きもあるが、過去の思い出の一つとして記憶されていることを思えば、時間の流れの中に確かに結実したのかもしれない。

メダカの飼育

 子供のころメダカを飼っていた。川で直接捕まえたものもあったが、金魚店で買ったこともある。売っていたのは大抵ヒメダカというオレンジの魚で、普通のメダカは買うものではなかった。いまはその当たり前にいたメダカの方が貴重になっているらしい。

 水槽に適当に小石を入れて水草を入れれば、あまり何もしなくてもメダカは生きていた。今はビオトープとかいうそうだが、アパートのベランダに放置していた手抜き飼育だ。勝手に産卵し、増えたかと思ったらいつの間にか死んだのもいて、そういう世代交代が何代か続き、ちょっとしたアクシデントで全滅したこともあった。

 メダカは身近な生き物でなぜか心が落ち着く効果を持っていた。いまは生き物を飼育する余裕がない。いつかまた鉢の中を見下ろす日が来ないかと考えている。

記憶の修正

 過去の出来事を思い出すときに、どうしても記憶の修正が起きることは常に実感している。他の人の同じ経験談に接したときにいろいろな差異があることに気づくのだが、それまではこうだと思い込んでいる。

 恐らく他人と比較しても互いに変化したものどうしを並べているにすぎない。写真とか動画などの方が事実との比較には良いのかもしれない。ただ、それらの映像も撮影した者の何らかの解釈が入っているはずだ。真実にはなかなか辿り着けない。

 科学的思考という考え方はそういった個人差を排除したもので、これが近代の私たちの前提になっている。でも、直線と思っていたものが実は曲面の上にあり、光さえも曲がると言われればもうその前提も怪しい。日常生活では気づかないほどの誤差であるにしても、実は真実を掴んでいるものはないという事実は変わらない。

 現実の何を意識し、それを経験として認識して、その中から何が記憶に残るのかは人によって違う。また、その日の体調とか周囲の環境によっても変わってくる。その上に経年の修正も加わるのだから、物事は単純ではない。