昔見た風景に再会したとき、心が溶けるように動きだすことがある。特に時々思い描くことがあった風景となるとそれが強く表れる。懐かしいという言葉は万能だ。そう言ってしまえば、とりあえず自分の気持ちを表現できたかのように感じてしまう。
でも、その感情はもう少し複雑で、自分がいなかったときに起きたさまざまな変化を見逃し、過去の記憶と一致することを抽出することにまず集中する。しかし、例えば昔あった樹木がなくなっていたり、気に入っていた店が廃業していたり、あるいは建物自体がなくなっていたりすると、時の流れを痛感せざるを得なくなる。
たまたま通り過ぎる人に知る人はいない。話しかけることもできないので、不在の間に起きたことを尋ねることもできない。たとえ訊くことができたとしても、おそらく求める答えは得られないはずだ。彼らその日常を日々重ねてきただけであり、私のように切り抜かれた時間があるわけではない。
そこで次に試みるのが、時間の経過を積極的に認識しようとすることだ。これだけ時間が経ったのだから、変化は当然だ。考えてみれば自分も歳を重ね、あの頃は駆け出していた道を、いま同じ速度で走ることはできなくなっているではないか。油断するとどんどん衰えてゆく体力、脳の働きを実感しているではないか。
古い風景を再見することによって、普段は見えない時間が急に具現化する。その衝撃をまず柔らかく受け止めるのが「懐かしい」という感情なのではないだろうか。

とても思慮深く、共感できる文章です。過去の場所に戻ることで記憶が蘇るだけでなく、自分自身を含め、あらゆるものがどれほど変化したかを実感させられる、ということを語っています。特に、ノスタルジアが、自分自身の人生にも時間が流れてきたという事実を知った時の衝撃を和らげてくれる、という考え方が気に入りました。