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やる気を演じる

 やる気は自然に湧いてくるもので、それがないのは怠惰であるからと考えてきた。おそらく7割方正解だ。でも、最近、このやる気というのも自然のものではないと思い出している。やる気は演出し、そして演じきらなくては実現できない。

 私の場合何かを行う衝動は極めて感情的である。どんなに後付けの理由を拵えても、結局情動に任せて行動をしてきた。それをこれまで上手く操れたのは偶然ながら幸運であった。

 いまはその湧き上がるものを事前に抑制する機能が発達し過ぎていろいろなことに制動がかかる。だからいま何かを行うときは敢えてそのブレーキを外し、意識的に前に進めなくてはならない。ここ数年でそうした自分の変化に気づき、やる気は演じきらなくてはならないと考えるようになった。

 おそらくこれからはやる気とそれに伴う行動をせいぜい演じなくてはならないと考えている。大根役者でもいいのでそういう役を幕が降りるまで演じきりたいと思っている。

非効率でも自力で

 ここ数日、非常に非効率な日々を送っている。疲労と病気で、行動の効率が落ち、必要以上に時間がかかっている。気がつけば時間を浪費していて現代の基準にはあっていない。それでも、何とか自分でできることはやるということだけは守ることにした。

 そんなに能力がないのなら、人工知能に任せればいいのにと若い世代はいうだろう。確かにAIにプロンプトを書けば数十秒で回答がくる。そしてそれはほぼ間違っていない。自分の書こうとしていたことよりもいいときもある。でも、この段階だけは他者に任せたくない。私のこだわりといえば聞こえはよいが、要するに哲学のようなものなのだろう。

 自分の本心に関わる内容の場合、やはり自分で考え、文字にしなくてはならない気がするのである。他人の言葉を使っても自分の思いは表現できないと考えてしまう。

 もっとも言語自体が他人のものであり、それを使う以上は、自分の独自性を主張しても虚しく響く。それでも、私はほんの少しでも自分独自の何かを表現したいと考えてしまうのである。これは多分に感情的なもので自己満足なのかもしれない。その点は恐らく人工知能に点検させれば明白になるはずだ。

 それでも私は文章は紙にメモを書き、キーボードで下書きを書き、それを幾度か遂行して投稿するという段階を繰り返している。恐らく指が動くまではこれを繰り返すはずだ。何というか、私にはそれ以外の表現方法がないということなのである。

 週に一度くらいの割合でAIに書かせた記事を投稿している。これは手書きで書いた記事をもとにその評価をしてもらうための記事を自動作成しているのだ。よくできているが、本心とは異なるニュアンスもある。そういうズレを楽しむこともいまの私にとっては大切なのである。

不老の夢

 もし老けなかったらという妄想は何度も繰り返している。不老不死ははるか昔からの永遠の課題だ。玉造小町子壮衰書は岩波文庫で読んだ。小野小町ではないのだが、歴代の読者は「花の色はうつりにけりな」の名歌に絡めて、そのように読み取り、不死の美女の晩年の寂しさを感じ取った。この読者史の末流に立つ私は不死に夢を託せない。

 不老不死ではなく不老有死ならどうだろう。まったく老いることはないのだが、寿命はあってあるとき突然死を迎える。これならいい気もする。いわゆるピンピンコロリである。人生の最期まで現役でいられることは夢のようではないか。

 でもよく考え直すならば、何か違う気がする。死の直前まで全力で機能し、あるときそれが急に絶える。これは機械と変わりがない。身体という道具に乗った生命が電池が切れるまで動く。その後は途切れるというのは、おかしな話だ。我々にはやはり老化が必要なのではないか。死へのデクレッシェンドがあってこそ、人生の意味を考えることができるのではないだろうか。

 死にたくはないと思うのは当たり前であった。そのためにはあらゆる抵抗をしたいと考えていた。それが少しかわりつつある。やはり長生きはしたいが、限度はある。それが思秋期の悩みなのだろう。

サヨナラだけが人生だ

 歳をとったからなのか、何もしないでいるとすぐ眠くなる。若い頃もよく寝たがそれとは少し質が違う。抗えない睡魔というのは同じだが、最近のは身体的限界を実感させる後味の悪い寝落ちがある。

 恐らくこれは本当の眠りの予兆なのだろう。ただ、今の私としてはせいぜいこの自然の摂理に反抗してみようと思う。少々無理をしてもいい。自分の生きたいように生きる。それがいまの願いである。

 ただ、自分の生き方を追求するあまり人に迷惑をかけたくない。さんざん粘るが、去るときはあっけなく行く。それが理想だ。最近はこんな話をすることが架空の話とは思えなくなっている。今はなんとかなっていても明日は分からない。考え方も少しずつだが、生命の有限性に基づいたものになっている。

 いつどのようにサヨナラを言うか。そういうストーリーをいくつも考えている。もっともそんな計画はどれも無意味なのは分かっている。サヨナラだけが人生だとは思わないが。このフレーズを叫びたくなるときがある。やや

開拓者への敬意

 物事を効率的に行うことばかりを求める現在において貴重なのは最初の一歩を踏み出すことである。人がやっていないことを行うことには多くのリスクを伴い、失敗すれば損失も多い。効率主義の考え方ではこのような賭けを嫌う。だから、これまでの成功例に則り、最小の努力、最短の時間で成し遂げようとする。コスパとかタイパとかいろいろな言い方をするが、要するに挑戦を避けた生き方である。

 かくいう私も毎日の生活に危険を冒すことを極力避けている。同じ時間に起き、同じ道を通り、同じものを食べ、同じ時間で仕事をする。その枠からはみ出さないように細心の注意を払い、結果として可もなく不可もない毎日を送っている。しかし、これでは新機軸は得られず、長期的に見れば衰退していくことになる。

 失敗しながらもそれにくじけることがなく、自分のやりたいことを続けている開拓者精神を持った人物には敬意を持っている。そうした強者はどこかに傷を負っていたり、他とは違う属性を持っていることも多い。自分とは違うと切り離して考えることもある。自分のことを棚に上げて言うならば、開拓者にもっと敬意を持ってその生き方を少しでもなぞりたいと思う。

そうはなりたくなかつた

 そうはなりたくないと思っていた姿になっていることを自覚したとき、底知れない無力感と救いへの渇望を覚えるのである。

 今の自分の姿は二十歳の頃に描いていたものとは全く違う。何というか平凡で、しかも少々陰気だ。上手くいかない毎日に疲れ切ったいまがある。

 でも明日を生きねばならぬ。もうやるしかないのだ。自分を納得させるためのさまざまな言い訳を何通りも考える。この方面の技術に関しては我ながら優れたものがある。現実認識と妥協に関するプロセスを日々磨いている気がする。その努力の結果、大抵の危機的側面を乗り越えてきたのである。

 でもこれは一時しのぎの方策でしかない。どうして生きるためには他者と争うのか。平和が必要と直感的に分かっていながら、悪事を繰り返すのはなんなのか。そういった疑問にいちいち立ち会わなくてはならない。

 なりたくない姿になっている現在も、それに甘んじていることに疑問を感じない自分も、全てを呑み込もうとするいまがある。それはここまでの敗北で獲得してきたいわば財産であり、生活の知恵の最たるものである。なりたくなかった自分をどう続けていくのか。私にとっての課題はまさにここにある。

知らぬふり

 思うにいまの世の中はあらゆることに因果関係を求めすぎて、人々の自然な行為を受け生けられなくしているような気がしてならない。偶然の振る舞い。そこにほの見える善意もしくは悪意は切り捨てられて見えなくなっている。

 何かの事態を目撃して、行動するときの精神構造は必ずしも合理的ではない。その人がよいと考えることをただ実行するだけのことだ。そこに理屈はない。あったとしても後付けである。

 私はわざとらしい善意に感心しない。意図せず動いてしまう人の振る舞いにこそ、心の美を感じるのだ。それは意図的なものとは限らない。あたかも知らぬふりをしているかのように見えるほど、自然で偶然のように感じられるものなのだ。

 近年、こうした善意は対価のないものとして避けられている気がする。評価されない行為はその善悪に関わらず無意味なものと考えられやすい。でも、何でも商品化される世間の風潮に背を向けることも必要だ。そして、それにことごとしい賞賛は要らない。当たり前のように他者のためになる何かをする。そんな人生を送りたい。

 それを理想主義者、夢想家と難ずる人もいるはずだ。その指摘は間違っていない現実離れした何かを追いたいのはいまの私にとっては切実な欲求なのだ。

伯楽

 高校1年の漢文の教材に「雑説」がある。韓愈による名文とされる批判書といえる。世の中には名馬はいつもいるのだが、それを見分けられる伯楽はいつもいるとは限らない。才能があってもそれを見抜けず、結果としてその潜在力を無にしてしまうというのだ。

 漢文の常としてこれは馬の飼育方法の話ではないことは明らかだ。才能があってもその才を発揮する機会を得られなければ世間には現れないままだ。だから、人がその才能を発揮するためには、それを認め、引き出してくれる存在が必要なのだ。それが伯楽であり、今でいうなら師匠であり、監督であり、コーチである。企業で言えば上司がそれにあたる。

 この話の要点は人を育成するには個々のタレントを評価する能力がいるということなのかもしれない。日本では若い頃に人生を仕分けることに対して、大きな抵抗感がある。実際には生まれた環境によって、個人の人生はかなり決まってしまうものでありながら、わが国の教育は個人の努力の成果を強調する。ある程度のステータスの昇降は個人の努力の成果だと言って憚らない。

 結果としてステータス上昇のための学歴が偏重され、それが絶対の尺度のように扱われることもある。業界によっては学歴以外の基準がある。しかし、それも個人の能力の一端を可視化したものに過ぎず、本当の人物評価に資するのかといえば、疑わしいものもある。人間の可能性など他人には簡単に理解できない。それをあたかも人事の秀才のように振る舞う人は、あくまでその人自身のものの見方が当面うまくいっているのに過ぎない。

 伯楽は常には有らずという事実は考えてみれば深刻な事態だ。いや、それなら自分から世界の現場に飛び込んで非難と批判に曝されながらも、やりたいことを連呼するしかない。我は駿馬なりと臆せず語ることができるのか。現代社会は伯楽がいないときは自己責任でアピールせよという。理にかなってはいるが何とも殺伐としている。

 思うに他人の才能を見出せる人物になることは大事だと思う。利己的にしか考えられなければこの発想は出ない。自ら伯楽になる志を持つことが肝要なのである。

止まっていると

 最近できなくなったと感じることに沈思黙考がある。かつては私の得意な思考法でこれでいろいろなことを解決してきた。雑音から隔絶してひたすら自分の世界に引き篭もる。それによって新しい考えが生まれ突破口が見えてくる。そんな経験を何度もしてきた。






 しかし、最近はこれが機能しない。まず沈思黙考できるだけの体力と気力が欠けているのかもしれない。世間から隔絶するとすぐに睡魔が襲う。慢性的な睡眠不足と極度のストレスの蓄積が集中力を一気に奪い去る。だから、最近は気づいてきた。私には一人でじっくり考えることはあまり期待できないと。

 ならば、雑音の中に身を晒して、その中でアイデアを捻出するしかあるまい。人真似なのか、オリジナルなのかよく分からないが、とにかく考えたことを言葉にして、運がよければ理論化する。この方法で何とか生き残るしかあるまい。じっくり考えればいい考えが浮かぶという段階を私は過ごしてしまった。流れに身を任せてその中できらめくものを掴み取るしかないのだ。

 集中力が保てないのは自覚のなさのせいだと考えてきた。それもあるが、それ以上に自分の能力的な問題もあったのだ。ならば先に進むしかない。衰えた集中力を補いそれ以上の実績をもたらすための行動だ。私はそれを妄想ができる力と考えている。根拠のない空想をどれだけ言語化できるのか。それが私に残された善後策である。突飛なことを臆せずいう。それが老兵の戦い方と心得るのである。

演出

 平凡な毎日にあやをつけるためにはそれなりの演出が要る。それは一種の生活の知恵であり、必要不可欠なものだ。

 民俗にハレとケの日があるのは、ケの日をより豊かなものとするために、散財してまでもハレの日を設けたのであろう。現代社会は毎日がハレの姿をしているが、実際の日常はしばしば退屈である。その鮮度を落とさずに保つためにも、特別な行事が挟み込まれている。

 ならば我々は人生を送るためにさまざまな演出された毎日を送っていることになる。それが文明人の知恵であり、叡智でもあるのだ。私は民俗学を学びながら、この普遍的事実を忘れかけていた。つまらない毎日と突き放す前に、演出された日常を楽しむことを思い出さなくてはならない。