もし老けなかったらという妄想は何度も繰り返している。不老不死ははるか昔からの永遠の課題だ。玉造小町子壮衰書は岩波文庫で読んだ。小野小町ではないのだが、歴代の読者は「花の色はうつりにけりな」の名歌に絡めて、そのように読み取り、不死の美女の晩年の寂しさを感じ取った。この読者史の末流に立つ私は不死に夢を託せない。
不老不死ではなく不老有死ならどうだろう。まったく老いることはないのだが、寿命はあってあるとき突然死を迎える。これならいい気もする。いわゆるピンピンコロリである。人生の最期まで現役でいられることは夢のようではないか。
でもよく考え直すならば、何か違う気がする。死の直前まで全力で機能し、あるときそれが急に絶える。これは機械と変わりがない。身体という道具に乗った生命が電池が切れるまで動く。その後は途切れるというのは、おかしな話だ。我々にはやはり老化が必要なのではないか。死へのデクレッシェンドがあってこそ、人生の意味を考えることができるのではないだろうか。
死にたくはないと思うのは当たり前であった。そのためにはあらゆる抵抗をしたいと考えていた。それが少しかわりつつある。やはり長生きはしたいが、限度はある。それが思秋期の悩みなのだろう。
