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稽古は強かれ情識はなかれ

人生の支えになっている引用や、よく考える引用はありますか ?

 世阿弥の言葉というこの言葉は、能役者に対する戒めである。練習することに妥協はするな、自分勝手な思い込みは捨てよ、という意味で理解している。かなりストイックな箴言だが、私は敢て時々それを思い出している。

 実際の私はかなりの怠け者で、明日できるものは明後日に回してしまう。それで自分を追い込み、何度も苦難を味わって来たというのに。難所を偶然越えるとその苦しみを忘れて怠惰に戻ってしまうのである。

 だから、世阿弥の言葉は身に沁みる。練習や準備にもっと情熱を注ぎ、自分はこんなものだとか、結構いい線いっているといった思い込みを捨てなくてはならないのである。

 ただそれを実行できるかといえば、私の場合はいまのところ不達成だ。おそらく世の中で成功している人の多くは、この世阿弥の忠告を守っているのであろう。しかも、厳しい稽古それ自体を楽しめる心性と、それに基づいた生活を営んでいるのに違いない。

 私はできないことを棚に上げて、こうした求道者に対する憧れだけは持っている。

面倒なことをやることが

 自発的に何かができるかが人工知能と人間との違いだといわれる。AIは与えられた指令を高速で処理し、回答を用意するが、自分から問いを立てることはしない。処理を連動させるといつまでも動き続けるように見えるが、それもきっかけとなる指示があってのことだ。

 それでは人間らしいとはどういうことなのか。それは自ら考え、悩み、それでも考え続けることができること。誰かに言われなくても問いを立て、その解決方法を考えることなのだろう。

 人工知能が私たちの生活を変え、多くの職業を代替してしまうという。ならば、やらなくてはならないのは与えられたことをこなすことではなく、指示を出せる能力を磨くことのはずだ。にもかかわらず、最近の私、及び周辺の人々はますます考えなくなっている気がする。面倒なことは避け、もっとも最短距離の既定のルートを探すことに専念しているかのようだ。

 面倒なことをやることが今後の人間の役割だ。私自身がいろいろなことにかこつけて骨折りすることを避けている。損してくたびれるように思えることにこそ、次への展開の芽が隠れている。

手に職

 AIが発達するとなくなってしまう職があるとはしばらく前から何度も言われている。技術の発展で消滅した職業は数多い。いわゆるホワイトカラーの職業の多くは今後人工知能に代替されてしまうかもしれないという。そのあとで生き残るためには、AIを操作する側に回るか、AIのできない職に代わるかしかないとも言われている。前者になるのはかなりの能力と機会的な幸運が必要だ。後者はそれに比べると転身の可能性が高い。

 ただ、AIに代替しない領域と言えば、数値化しにくい繊細で人間的な仕事か、物理的な動作を伴う、つまり力仕事になる。かつてはブルーカラーと呼ばれた職業階級がAI時代以降は人間の生きる道になるということだ。先見の明のある人はいわゆる手に職を目指して動き出しているともいわれる。

 私のような世代になるとこの種の転身はかなり難しい。でも生きるためとなればやるしかなるのだろう。今のような仕事をそのまま継続することは想定しない方がいいだろう。やはり手に職は必要なのかもしれない。

堂々と間違える

 同じように情熱を傾けたつもりであつてもその成果はさまざまだ。うまくいくときと何をやってもだめなときとがある。おそらくその極端な例が記憶されていて基準のようなものになっているのだと思う。実際はその時々の状況によるものだ。たまたまうまくいったこともあれば、失敗の連続で心が萎縮してしまったこともある。

 私は何かをやるときに過去の経験から逃れることが難しい。失敗した例があると、その繰り返しを恐れて余計うまくいかない。その難易度とは別に障害となるものが出来してしまうのである。そもそもやることを回避してしまうこともあるから、余計に克服できなくなっていく。

 その都度気持ちを切り替えて、過去の経験にとらわれないようにすべきなのだろう。これは言うは易し、行うは難し。今の私にできるのは堂々と失敗することに慣れるのに越したことはない。間違えることが決してものごとの末端ではないことを認識すべきなのだろう。

 

抜けている何か

 日々の生活の中で、つい見失ってしまうことがある。とても大事なことなのにあっさりと忘れてしまう。違和感を覚えながらもそのまま過ごして、あるときふと異常を感じるのである。一度気づいたら気になって仕方なくなる。

 何かが足りないと思うとき、つい冷静な判断力が失われることがある。余計なことをしたり、逆に必要な措置を取らなかったりする。精神的にいう抜けている状態はさまざまな失敗の温床となる。

 ただ、すべてが良くないわけではない。日常に追いつめられている人にとっては何かを抜かすことは大切な生きる知恵なのだろう。私は抜けている何かを敢えて求めないことも大事だと考えている。

面倒くさいこと

 面倒なことを嫌うのは効率化優先の今日では当たり前のように考えられている。答えに出来るだけ短時間で、しかも低コスト、最低限の努力でたどり着くことが理想とされているようだ。この考え方は日本の社会全体を覆いつつあり、地道な努力をしている人を変人扱いしてそのつど毀誉褒貶の軸にかける。そして失敗した場合は冷笑して見なかったことにする。そんな風潮があるのは確かだ。 

 だからこそ、創作の世界の主人公は艱難辛苦を乗り越えて目的を達成しようとする。そこに感動する。それはあくまでフィクションの枠組みのなかで起きていることだからだろう。もしそれと同じことをやれと言われたら、多くの人は拒否してしまうのかもしれない。

やり遂げることが大切

 面倒くさいことは嫌うのは、実は私にもある。ちょっとしたことをするのにもスマホの検索や人工知能アプリの助けを借り、自分で考えようとしない。即座に回答があるが、それが真実なのかハルシネーションなのかを検証することもなく、次の検索に移ってしまう。確かに便利であり大抵の場合はそれで間違っていない「気がする」のだが、自分で考えた経歴がないので、すぐに忘れてしまう。

 学生時代、私は国文科の学生であったので、図書館にこもることが多かった。今のようなデータベースがなく、国歌大観のような検索本にも実は不備が多いと思ったので、結局原典をあたるという作業をしていた。仏教関係の典拠を探すのに「大正新脩大藏經」の壁と格闘して何日もかかったこともあった。そしてようやく見つけてゼミで発表すると、いやもっと古い経典にあると教授に指摘されてがっかりしたこともある。ただ、そういう苦労とその時のフレーズの一部はなぜか記憶に残っている。

 せっかく探した資料もそれをどのように解釈し、どう組み合わせるか、そしてどう評価するかで内容は全く別のものになる。いま、私たちはそういう過程を機械任せにしてしまっている。大雑把なことを言えば、価値が決まっているものを前提に評価を判断することには長けているが、価値を決めていかなくてはならないものが複数ある場合の処理の仕方は苦手のようだ。そしれ現時点での人工知能ができないことがまさにこれだと考える。私たちはこの分野の頭の使い方をもっと鍛えるべきだと考える。そのためにはやはり、面倒くさいことをやる経験を持たなくてはならない。

 そう思うから、なかなか答えを出せない人、考え続ける人に対して私は決して軽蔑することはできない。むしろ、そういう継続力のある人こそ現状を打破できるのではないかと少々羨望するのである。

満たされていない幸せ

 あまり物事がうまくいかなかったときに、ふと思い出す過去の瞬間がある。それは必ずしも古きよき思い出ではなく、むしろ満足するには幾重の克服すべき課題を残していた段階の記憶である。満たされていないときは、いろいろな悩みがある。でも、その悩みこそが幸せの源なのである。

 それをもう少し考えてみると、やはりものごとに主体的に真剣に向き合っていたときのことはたとえそれが失敗に終わっていたとしても価値があると考えるということだ。あんなにやったのに出来なかったは、適当に済ませて結果が出なかったより遥かに尊い。もちろん挫折とか屈辱とかそういう負の感情は避けられない。それでもやることをやって敗れたのなら、次に繋がる何かがある気がする。

 何かを達成して満たされる幸せがあるのは言うまでもない。でも叶わなかった思いのかけらも実は大切なのものであったりする。

改札の音

 久しぶりに原宿駅前に行ったときにかつての駅前の風景がすでになくなっていたことに驚いた。神宮橋の前にあった原宿駅は少しレトロな駅舎と、その前に駅員が並んで切符にハサミを入れる特別な場所であった。近隣に住んでいた私にとっては通学のルーティンの一部であり、特別な外出のときにはその第一関門と言えるのが原宿駅の改札だった。

 私と同じかそれ以上の世代ならご存知だろうが、当時の改札は駅員が切符にハサミを入れていた。その切り口によって時間帯などが区別されていたとも聞く。改札通過時に駅員にいかにハサミを入れやすく差し出すのかは当時の乗客の基本的な姿勢というべきものであり、誰も口にしなかったが、公衆の常識というべきものであった。

 今、改札でハサミの跡を見る例はほとんどない。そもそも切符なるのものを買わず、電子取引で終わってしまうから、紙面の切符が存在しないから、それにハサミを入れるという物理的な行為が存在しないのである。だから若い世代にこの一連の行動を説明しても実感が伴わないだろう。

 紙を使わず、乗客の動向をデジタルで把握できる現在の方式はさまざまな恩恵をもたらす画期的な技術に違いない。どれだけ労働時間を軽減し、労働条件を解消したのだろう。ただ、その手間減らしによって消えてしまった情緒の損失は計り知れない。駅の改札で響いていた改札の音は、ただの作業音以上のものであった。それがもう長い説明なしでは伝わらない。

 昔に戻れとは思わない。昔の方がよかったとはまったく思えない。現在の方が昔よりはるかによい。ただ、失われたものが必ずしも合理性や効率性では計れないことも記しておきたかったのである。

みぞれ

 夜になって雨が白くなった。雪と言っていいのか霙なのか際どいところだ。寒波が南下して関東南部にも積雪の可能性があるという。もしかしたら積もるかもしれない。そんな予感がする。でも、すぐ消える雪だろう。

 富山に住んでいた頃はいわゆるぼたん雪がだんだん細い雪になり、時には雷鳴もあって激しく降り出すとまとまった積雪になった。1人ぐらしのときは覚悟のために酒を少々飲んだが酔えない。明朝は雪かきで始まり、慣れない雪道を車で走らなくてはと思うと自然と緊張してしまうのであった。いまとなっては懐かしい感触だ。

 雪の前の緊張感はなくなっているが、これから何があるかわからない毎日だ。せめて今日のような夜は気を引き締めてみたい。

2026始まる

 2026年はどんな年になるのだろう。私にとってはまもなく人生の節目を迎えることになる。最後の仕上げの一年だ。といっても、やれることは限られているし、それをとにかくやってみるしかない。毎年、年始には大風呂敷を広げ、勝手なことを抱負として述べることにしている。

 今年はこれまでにやってこなかったことを始めたい。その多くは地味で詰まらないことかもしれない。それでもいい。何もしないよりずっといい。恐らく始めた分だけ、いやそれ以上に失敗があるはずだ。その屈辱や挫折も含めて人生に彩りを加えてみよう。

 その一端はブログにも書いてみよう。恥をかき、かいたものを書く。そんな1年にできたらいい。