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旅人の心で

 最寄り駅で写真をたくさん撮っている人を見た。駅名の看板や改札など私にとっては当たり前となっている風景を撮影していたのである。見た目では分からなかったが、旅行者だったのだろうか。外国人の可能性もある。

 自分にとっては日常の光景であっても、ほかの人からすれば、非日常である。日常に埋没してしまうとこのことをつい忘れてしまう。明日も見るものだと思うと価値を感じなくなる。過去の住まいのことを考えてみても日ごろ利用したところの写真ほど少ない。

 よく考えてみればすべてものは移り変わり、今見ているものは二度と現れない。すべてが新鮮なものであるのに、類型化という脳の働きによって小異を無視してしまう。見ていても気づかない。あるいは見ようとしない。そういう機能は過度な刺激を防止するために有益だ。

 ただ、ときには日常化フィルターをはずしてみるのは必要だと思う。旅人の心になって普段歩く道を見て、それが明日は別の光景になるものと思えば、何か新しい気づきがあるかもしれない。

憧れの人

 憧れの人というのはかなり怪しい。なぜなら、あこがれはどんどんインフレを起こし、実態以上になってしまうからだ。私の中で理想と考えるものがいくつかあって、それらは過度に理想化されている。そのことに気付いたのは歳を重ねた後だが、いまでも完全に客観視はできていない。

 韓国ドラマでは初恋の人が特別扱いされている。おそらく実際はそういうことはめったになくていわば理想型として考えられているのだろう。韓国ドラマをみる限り、我が国よりも理想に関する思い入れは大きく高く、妥協点は高所にある気がする。

 私の場合は、基本的に現状を受け容れる立場であり、まさに妥協だらけの人生だ。かといって、現状に不満がある訳ではない。今ある状態を結果的に最良の選択をしていると肯定的に認めることができる。それは私の場合の長所であり、欠点であると自覚している。

 憧れの人といったときに若い頃は異性の恋愛対象が思い浮かんだ。でも、今は性別ではなく、自己実現をするために努力を惜しまない人にそれが向かうことが多い。いわゆる偉人でなくてもいい。巷間の雑事にあって自分の信念を貫き、活動をし続けている人々に羨望の念を抱くのである。

 そして密かに自分自身がそういう人になりたいと思い続けている。敬われたいとは思わない。たとえば、通り過ぎた後に、しばらく経って、ああああいう人は貴重だったなと追認されるような人になれたらいいと考えている。

 最近、心身の変節点を感じることが多い。先述した希望を叶えるためには残された時間は少ない。誰にも迷惑をかけたくないが、誰かの役には立ちたい。そんな夢想をいつまでも続けている。

反・反教養主義

 自分のことを棚に上げて理想を言うことにする。これからの知識人はもっと幅広い教養が必要になるのではないか。なんでもAIが答えを生成する時代になり、その真偽を見極め、人工知能を操る力を持つためには様々な価値観を持った現実をそのまま受け入れる人間としての力が必要になると考えられるからである。現実世界の問題は決して単一の論理で解決できない。相反する考え方の乱立する中で一つの方針を決めなくてはならないことの方がむしろ普通なような気がする。

 それなのにいまの教育がどちらかというと情報処理能力の方に傾いているのが心配である。大量の問題を短時間で解答させ、その大意をつかませることが教育界のトレンドだ。確かにこれも大切なことであり、情報があふれる現代社会においては欠かせない能力だ。でも、この作業こそ人工知能の得意分野であり、むしろ代替してもらうことが必要な能力になるのかもしれない。こればかりをやらせていると、人々はその内容に興味を持たなくなる。短時間で設問を解答することに関心が向きすぎてしまうのである。

 教養ばかりを重視する風潮を批判する動きがある。一部の特権階級が知識を独占することは不平等であるというのがその理由であった。確かに教養の独占は長い歴史があり、それが社会的地位を固定化してきたことも事実だ。しかし、現在は学ぶことをそれ自体の意欲を削ぐような動きが教養の意味を変えている。有名大学に入るようなエリートであるのに読書量が少なかったり、知識に伴う経験が乏しかったりする。入試問題は解けても、その問題の中で訴えられているメッセージに関しては深く考えない。

 おそらく、この後の教育の動きは人工知能のできない人間的な問題を解決する力の涵養に動くのだろう。様々な実体験、およびその疑似体験、その一部としての読書体験をどれだけ積んできたのかを問う形に変わっていくと予測している。おそらくそれまでにはもう少し時間がかかるだろう。その時、私はすでに現役ではないがそういう教育の在り方を見てみたい気がする。

今の脳力に対する手当

 認めたくはないが、やはり加齢による影響は思考にも現れる。その一つが短期記憶と集中力の減退ではないかと考えている。いまはそれを補うための工夫をして何とか乗り切っているが、この先はさらなる手当てが必要になるのかもしれない。

 まず、短期記憶が弱くなっていることに関しては常に小型メモを持ち歩くことでカバーしている。捨ててもよい小さなメモとボールペンは欠かせない。最近、家族からもらった小型カメラ兼レコーダーも役に立ちそうだが、まずは手書きのメモだろう。

 集中力に関しては対策が十分ではないが、30分以上は続けないということをとりあえずの目安としている。昔のように数時間にわたってやり続けるということは今の状況では難しい。ならば初めから30分したら別のことをするとか、休憩するということに決めた方がかえってうまくいくことが多いようなのだ。

 ただ困ったことにこの方法では気持ちの継続性が途切れやすく、創作的な文章が書きにくい。感情のつながりがうまく表現できないのである。これも短編を書くことで満足することにした。それをつなげばなにかができるかもしれない。いまのところ、その見込みはないけれども。

 今の脳の力を考えればできることとできないことがある。できることを優先し、できないことは無理しない。それが今の戦略である。

大失敗は財産

 根拠のない妄言だが、大失敗の思い出はなかなか忘れられない。その記憶の保存期間の長さが結果的に自分にとってはよき教訓となり続けている。失敗はしなくてはならない。

 うまくいったことはその時は嬉しく、興奮もするが、意外と忘れるのも早い。試合に勝ったことや、大学に合格したことなど私にとっての数少ない栄光の記憶となるはずのものが、今となってみればほとんど思い出せない。その記憶は陳腐な類型的なものであり、本当に自分のことだったのか、後で他の人の記憶を当てはめたのか分からなくなっている。

 失敗の記憶の方は具体的な状況まで思い出せる。場合によってはそのときの心身の痛みまで再現されることもある。激しいダメージを伴うこともある。そのときに感じた再現される記憶が身体の感覚と結びついて保存されている気がする。

 私の経験が他の方にも当てはまるとしたならば、失敗の経験は貴重なものだということになる。不快で屈辱的な思い出は、将来の教訓として機能する。脳内で生成される失敗の経験がいまの自分の行動を制御するのである。

 その意味で大失敗は巨視的には財産であり、貴重なものと言える。この考え方は若い世代には受け入れ難いかも知れない。でも、失敗は屈辱的だが意味がある。

稽古は強かれ情識はなかれ

人生の支えになっている引用や、よく考える引用はありますか ?

 世阿弥の言葉というこの言葉は、能役者に対する戒めである。練習することに妥協はするな、自分勝手な思い込みは捨てよ、という意味で理解している。かなりストイックな箴言だが、私は敢て時々それを思い出している。

 実際の私はかなりの怠け者で、明日できるものは明後日に回してしまう。それで自分を追い込み、何度も苦難を味わって来たというのに。難所を偶然越えるとその苦しみを忘れて怠惰に戻ってしまうのである。

 だから、世阿弥の言葉は身に沁みる。練習や準備にもっと情熱を注ぎ、自分はこんなものだとか、結構いい線いっているといった思い込みを捨てなくてはならないのである。

 ただそれを実行できるかといえば、私の場合はいまのところ不達成だ。おそらく世の中で成功している人の多くは、この世阿弥の忠告を守っているのであろう。しかも、厳しい稽古それ自体を楽しめる心性と、それに基づいた生活を営んでいるのに違いない。

 私はできないことを棚に上げて、こうした求道者に対する憧れだけは持っている。

面倒なことをやることが

 自発的に何かができるかが人工知能と人間との違いだといわれる。AIは与えられた指令を高速で処理し、回答を用意するが、自分から問いを立てることはしない。処理を連動させるといつまでも動き続けるように見えるが、それもきっかけとなる指示があってのことだ。

 それでは人間らしいとはどういうことなのか。それは自ら考え、悩み、それでも考え続けることができること。誰かに言われなくても問いを立て、その解決方法を考えることなのだろう。

 人工知能が私たちの生活を変え、多くの職業を代替してしまうという。ならば、やらなくてはならないのは与えられたことをこなすことではなく、指示を出せる能力を磨くことのはずだ。にもかかわらず、最近の私、及び周辺の人々はますます考えなくなっている気がする。面倒なことは避け、もっとも最短距離の既定のルートを探すことに専念しているかのようだ。

 面倒なことをやることが今後の人間の役割だ。私自身がいろいろなことにかこつけて骨折りすることを避けている。損してくたびれるように思えることにこそ、次への展開の芽が隠れている。

手に職

 AIが発達するとなくなってしまう職があるとはしばらく前から何度も言われている。技術の発展で消滅した職業は数多い。いわゆるホワイトカラーの職業の多くは今後人工知能に代替されてしまうかもしれないという。そのあとで生き残るためには、AIを操作する側に回るか、AIのできない職に代わるかしかないとも言われている。前者になるのはかなりの能力と機会的な幸運が必要だ。後者はそれに比べると転身の可能性が高い。

 ただ、AIに代替しない領域と言えば、数値化しにくい繊細で人間的な仕事か、物理的な動作を伴う、つまり力仕事になる。かつてはブルーカラーと呼ばれた職業階級がAI時代以降は人間の生きる道になるということだ。先見の明のある人はいわゆる手に職を目指して動き出しているともいわれる。

 私のような世代になるとこの種の転身はかなり難しい。でも生きるためとなればやるしかなるのだろう。今のような仕事をそのまま継続することは想定しない方がいいだろう。やはり手に職は必要なのかもしれない。

堂々と間違える

 同じように情熱を傾けたつもりであつてもその成果はさまざまだ。うまくいくときと何をやってもだめなときとがある。おそらくその極端な例が記憶されていて基準のようなものになっているのだと思う。実際はその時々の状況によるものだ。たまたまうまくいったこともあれば、失敗の連続で心が萎縮してしまったこともある。

 私は何かをやるときに過去の経験から逃れることが難しい。失敗した例があると、その繰り返しを恐れて余計うまくいかない。その難易度とは別に障害となるものが出来してしまうのである。そもそもやることを回避してしまうこともあるから、余計に克服できなくなっていく。

 その都度気持ちを切り替えて、過去の経験にとらわれないようにすべきなのだろう。これは言うは易し、行うは難し。今の私にできるのは堂々と失敗することに慣れるのに越したことはない。間違えることが決してものごとの末端ではないことを認識すべきなのだろう。

 

抜けている何か

 日々の生活の中で、つい見失ってしまうことがある。とても大事なことなのにあっさりと忘れてしまう。違和感を覚えながらもそのまま過ごして、あるときふと異常を感じるのである。一度気づいたら気になって仕方なくなる。

 何かが足りないと思うとき、つい冷静な判断力が失われることがある。余計なことをしたり、逆に必要な措置を取らなかったりする。精神的にいう抜けている状態はさまざまな失敗の温床となる。

 ただ、すべてが良くないわけではない。日常に追いつめられている人にとっては何かを抜かすことは大切な生きる知恵なのだろう。私は抜けている何かを敢えて求めないことも大事だと考えている。