おそらく昔できていまはできないと考えていることの大半は体力ではなく、気力の差であると思うことが多い。体力的な衰えは否み難い。体力の中には脳の活動力も含まれる。体力が落ちれば能の働きも鈍くなる。
ただ、問題はフィジカルだけではないと考えている。集中力なり、レジリエンスなりが落ちるのは体力的な要因だけではないのではないか。できるのにできないと思い込んだり、他者と比較して遅いと考えていることが物事を諦めさせているのかもしれない。
何らかの工夫、発想の転換が現状の打開に繋がる。
日々の思いを言葉にして
タグ: 自己啓発
おそらく昔できていまはできないと考えていることの大半は体力ではなく、気力の差であると思うことが多い。体力的な衰えは否み難い。体力の中には脳の活動力も含まれる。体力が落ちれば能の働きも鈍くなる。
ただ、問題はフィジカルだけではないと考えている。集中力なり、レジリエンスなりが落ちるのは体力的な要因だけではないのではないか。できるのにできないと思い込んだり、他者と比較して遅いと考えていることが物事を諦めさせているのかもしれない。
何らかの工夫、発想の転換が現状の打開に繋がる。
この齢になると悔い多く悩みさらに多い。ただ、多くの先人がいうように反省するのは若い世代に任せればいいと思う。もちろん人様に迷惑をかけるのは論外だが、自分だけに収まるものであれば大いに縮小再生産で結構だ。大切なのは他人の評価ではなく、自分の矜持を保つこと。それも他人との比較ではなく、自分が今生きている世界を肯定できればそれでいい。
ただ、一方で今の持ち分で何か世のために残せることはないかという思いはずっとある。そう考え続けているうちに、自分の能力が漸減、あるいは急減していることに最近気づいている。今日できることが一ヶ月後にできることとは限らない。今の不摂生な毎日ではこの世からの退場がいつなのかも分からない。ならばやれることをやっておくべきだと思うのである。評価は後世に任せてやるべきことはやっておこうと。
いまはインターネットで検索すれば自分のやりたいことの上位互換の例はいくらでも見つかる。ただ、それが自分の理想かといえば少し違う。やはり自分のやりたいことは別にあり、自分の考える妄想には幾分かの価値があるのかもしれないということも同時に発見できるのだ。
ただ、自分でそういう考え方をまとめ、形にするのは手間とコスト、ときには犠牲も伴うから、既製品で満足しようと考えてしまう。大概はそれで何とかなるし、損得勘定からしてもその方が賢い。
でも、それでもこういうやり方もあるんだと無責任に言えるのがシニア世代なのではないか。多くの駄作の中に、現状打破の萌芽がある。最新のテクノロジーは若い技術者によって生み出されるかもしれないが、これからの世界に適切な哲学は世代に関係なく生み出されるだろう。私たちの世代はこのことを忘れてはならない。
経験知を言葉にし、さらに新しい知見を分かりやすく説明できるようにすることに私は今後の人生を費やそうと考えている。いろいろな衰えを感じている毎日で、それを断ち切るための精神的指針と言ってもいいだろう。
やる気は自然に湧いてくるもので、それがないのは怠惰であるからと考えてきた。おそらく7割方正解だ。でも、最近、このやる気というのも自然のものではないと思い出している。やる気は演出し、そして演じきらなくては実現できない。
私の場合何かを行う衝動は極めて感情的である。どんなに後付けの理由を拵えても、結局情動に任せて行動をしてきた。それをこれまで上手く操れたのは偶然ながら幸運であった。
いまはその湧き上がるものを事前に抑制する機能が発達し過ぎていろいろなことに制動がかかる。だからいま何かを行うときは敢えてそのブレーキを外し、意識的に前に進めなくてはならない。ここ数年でそうした自分の変化に気づき、やる気は演じきらなくてはならないと考えるようになった。
おそらくこれからはやる気とそれに伴う行動をせいぜい演じなくてはならないと考えている。大根役者でもいいのでそういう役を幕が降りるまで演じきりたいと思っている。
今日までフルタイムの仕事があった。明日からつかの間の休暇が始まる。特に何をする計画もないし、先立つものにも心もとない身においては普段はできない身近なことをする時間に充てたい。とりあえずは濫読の日々を考えている。
少なくとも2日で一冊、軽めの本を読み続ける。近くの図書館で避暑兼読書と決め込もう。最近の悩みはすぐに眠くなってしまうことだが、散歩と読書のサーキットで乗り切ってみようと思う。とりあえず今日、一冊読み終えた。渡り鳥に関するエッセイだった。
偏らず時流におもねらず手当たり次第に多ジャンルを読む。何かの役に立てようなどと考えない。そういう読書を十年ほど前まではよくしていた。気がつけば何かに役立てるために知識を入力することばかりを考え、まとまった読書の習慣が切れてしまった。
昔のようにはできないかもしれないが、この際まとまった読書をしてみたい。夏休みの自己に課すものであり、楽しみでもある。
窮地から立ち直るための言葉がいろいろある。私が個人的に好きなのは飛び上がるためにはかがまなくてはならない、といった言い方だ、出典が分からないというが、余計な説明がなくてもわかるのがいい。次の飛躍のための準備と思えば乗り切れることもある。
Starting overというものもいい。スタートなのオウバーなのか分かりにくいが、これでやり直しという意味になるのだそうだ。うまくいかなかったことは一度措いてやり直してみるという意味があるということである。今はそういう表現も支えてくれる気がある。
諸行無常の現実はいかんともしがたいが、せめて最後までこうした気持ちは持っていたいと考えている。
すでに引退した先輩が私を何かと褒めてくれたことばがある。君は世が世なれば大物になっていたはずだと。今風にいえば別の世界線に立てば君は成功者だとでも言うのだろうか。読者の皆さんもすでにお気づきだろうが、ありもしない「世」をどれだけ想定しても、現実世界では虚しいばかりだ。それをたびたび私に話してくれた先輩は、それが思いやりだとお考えだったのだろうか。
私のこれまでの人生は多くの人に比べてもさほど起伏に富んだものとは言えない。子どものころに転校が多かったこと、最初の定職が地方都市であったこと、さまざまな失敗を積み重ねてきたこと。それらも多くの人に共通することであろう。いろいろな人生の節目で、人生の変節点を感じたこともある。そして別の岐路に行けば違う人生が待っていたはずと思うこともある。
これも自分だけではなく、どんな人にもあることだ。それなのに、時々別の生き方をしていたらと考えてしまうことがある。今よりもっとましな人生があったのではないかと。先輩の「世が世なれば」という言い方はこうした妄想にやさしくカバーを付けてくれていたのかもしれない。別の世はない、いまの生き方を行くしかない。とにかく今を生きましょうと。私自身がその先輩と同年齢に近くなり、その思いやりに気づけるようになったのかもしれない。
最寄り駅で写真をたくさん撮っている人を見た。駅名の看板や改札など私にとっては当たり前となっている風景を撮影していたのである。見た目では分からなかったが、旅行者だったのだろうか。外国人の可能性もある。
自分にとっては日常の光景であっても、ほかの人からすれば、非日常である。日常に埋没してしまうとこのことをつい忘れてしまう。明日も見るものだと思うと価値を感じなくなる。過去の住まいのことを考えてみても日ごろ利用したところの写真ほど少ない。
よく考えてみればすべてものは移り変わり、今見ているものは二度と現れない。すべてが新鮮なものであるのに、類型化という脳の働きによって小異を無視してしまう。見ていても気づかない。あるいは見ようとしない。そういう機能は過度な刺激を防止するために有益だ。
ただ、ときには日常化フィルターをはずしてみるのは必要だと思う。旅人の心になって普段歩く道を見て、それが明日は別の光景になるものと思えば、何か新しい気づきがあるかもしれない。
憧れの人というのはかなり怪しい。なぜなら、あこがれはどんどんインフレを起こし、実態以上になってしまうからだ。私の中で理想と考えるものがいくつかあって、それらは過度に理想化されている。そのことに気付いたのは歳を重ねた後だが、いまでも完全に客観視はできていない。
韓国ドラマでは初恋の人が特別扱いされている。おそらく実際はそういうことはめったになくていわば理想型として考えられているのだろう。韓国ドラマをみる限り、我が国よりも理想に関する思い入れは大きく高く、妥協点は高所にある気がする。
私の場合は、基本的に現状を受け容れる立場であり、まさに妥協だらけの人生だ。かといって、現状に不満がある訳ではない。今ある状態を結果的に最良の選択をしていると肯定的に認めることができる。それは私の場合の長所であり、欠点であると自覚している。
憧れの人といったときに若い頃は異性の恋愛対象が思い浮かんだ。でも、今は性別ではなく、自己実現をするために努力を惜しまない人にそれが向かうことが多い。いわゆる偉人でなくてもいい。巷間の雑事にあって自分の信念を貫き、活動をし続けている人々に羨望の念を抱くのである。
そして密かに自分自身がそういう人になりたいと思い続けている。敬われたいとは思わない。たとえば、通り過ぎた後に、しばらく経って、ああああいう人は貴重だったなと追認されるような人になれたらいいと考えている。
最近、心身の変節点を感じることが多い。先述した希望を叶えるためには残された時間は少ない。誰にも迷惑をかけたくないが、誰かの役には立ちたい。そんな夢想をいつまでも続けている。
自分のことを棚に上げて理想を言うことにする。これからの知識人はもっと幅広い教養が必要になるのではないか。なんでもAIが答えを生成する時代になり、その真偽を見極め、人工知能を操る力を持つためには様々な価値観を持った現実をそのまま受け入れる人間としての力が必要になると考えられるからである。現実世界の問題は決して単一の論理で解決できない。相反する考え方の乱立する中で一つの方針を決めなくてはならないことの方がむしろ普通なような気がする。
それなのにいまの教育がどちらかというと情報処理能力の方に傾いているのが心配である。大量の問題を短時間で解答させ、その大意をつかませることが教育界のトレンドだ。確かにこれも大切なことであり、情報があふれる現代社会においては欠かせない能力だ。でも、この作業こそ人工知能の得意分野であり、むしろ代替してもらうことが必要な能力になるのかもしれない。こればかりをやらせていると、人々はその内容に興味を持たなくなる。短時間で設問を解答することに関心が向きすぎてしまうのである。
教養ばかりを重視する風潮を批判する動きがある。一部の特権階級が知識を独占することは不平等であるというのがその理由であった。確かに教養の独占は長い歴史があり、それが社会的地位を固定化してきたことも事実だ。しかし、現在は学ぶことをそれ自体の意欲を削ぐような動きが教養の意味を変えている。有名大学に入るようなエリートであるのに読書量が少なかったり、知識に伴う経験が乏しかったりする。入試問題は解けても、その問題の中で訴えられているメッセージに関しては深く考えない。
おそらく、この後の教育の動きは人工知能のできない人間的な問題を解決する力の涵養に動くのだろう。様々な実体験、およびその疑似体験、その一部としての読書体験をどれだけ積んできたのかを問う形に変わっていくと予測している。おそらくそれまでにはもう少し時間がかかるだろう。その時、私はすでに現役ではないがそういう教育の在り方を見てみたい気がする。
認めたくはないが、やはり加齢による影響は思考にも現れる。その一つが短期記憶と集中力の減退ではないかと考えている。いまはそれを補うための工夫をして何とか乗り切っているが、この先はさらなる手当てが必要になるのかもしれない。
まず、短期記憶が弱くなっていることに関しては常に小型メモを持ち歩くことでカバーしている。捨ててもよい小さなメモとボールペンは欠かせない。最近、家族からもらった小型カメラ兼レコーダーも役に立ちそうだが、まずは手書きのメモだろう。
集中力に関しては対策が十分ではないが、30分以上は続けないということをとりあえずの目安としている。昔のように数時間にわたってやり続けるということは今の状況では難しい。ならば初めから30分したら別のことをするとか、休憩するということに決めた方がかえってうまくいくことが多いようなのだ。
ただ困ったことにこの方法では気持ちの継続性が途切れやすく、創作的な文章が書きにくい。感情のつながりがうまく表現できないのである。これも短編を書くことで満足することにした。それをつなげばなにかができるかもしれない。いまのところ、その見込みはないけれども。
今の脳の力を考えればできることとできないことがある。できることを優先し、できないことは無理しない。それが今の戦略である。