大失敗は財産

 根拠のない妄言だが、大失敗の思い出はなかなか忘れられない。その記憶の保存期間の長さが結果的に自分にとってはよき教訓となり続けている。失敗はしなくてはならない。

 うまくいったことはその時は嬉しく、興奮もするが、意外と忘れるのも早い。試合に勝ったことや、大学に合格したことなど私にとっての数少ない栄光の記憶となるはずのものが、今となってみればほとんど思い出せない。その記憶は陳腐な類型的なものであり、本当に自分のことだったのか、後で他の人の記憶を当てはめたのか分からなくなっている。

 失敗の記憶の方は具体的な状況まで思い出せる。場合によってはそのときの心身の痛みまで再現されることもある。激しいダメージを伴うこともある。そのときに感じた再現される記憶が身体の感覚と結びついて保存されている気がする。

 私の経験が他の方にも当てはまるとしたならば、失敗の経験は貴重なものだということになる。不快で屈辱的な思い出は、将来の教訓として機能する。脳内で生成される失敗の経験がいまの自分の行動を制御するのである。

 その意味で大失敗は巨視的には財産であり、貴重なものと言える。この考え方は若い世代には受け入れ難いかも知れない。でも、失敗は屈辱的だが意味がある。

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