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夏休みは読書

 今日までフルタイムの仕事があった。明日からつかの間の休暇が始まる。特に何をする計画もないし、先立つものにも心もとない身においては普段はできない身近なことをする時間に充てたい。とりあえずは濫読の日々を考えている。

 少なくとも2日で一冊、軽めの本を読み続ける。近くの図書館で避暑兼読書と決め込もう。最近の悩みはすぐに眠くなってしまうことだが、散歩と読書のサーキットで乗り切ってみようと思う。とりあえず今日、一冊読み終えた。渡り鳥に関するエッセイだった。

 偏らず時流におもねらず手当たり次第に多ジャンルを読む。何かの役に立てようなどと考えない。そういう読書を十年ほど前まではよくしていた。気がつけば何かに役立てるために知識を入力することばかりを考え、まとまった読書の習慣が切れてしまった。

 昔のようにはできないかもしれないが、この際まとまった読書をしてみたい。夏休みの自己に課すものであり、楽しみでもある。

AIで要約の陥穽

 最近は文書を読み込んだだけで人工知能が立ち上がり、文章を要約してくれる。さらに文章の改善点を指摘することもある。実用的な文章に限ればかなり精度が上がっており、私もしばしば参考にしている。

 ただ、小説などの文章においてはあまり信用していない。そもそも創作を要約することには限定的な意味しか感じない。論理的な文章に比べればあいまいであり、無駄な展開もある。ただそれを含めて作品世界であり、要点だけを知っても本当に作品を鑑賞したとは言えない。

 最近はタイパなる概念のもと、なるべく短時間で効率よく収穫物を得ることがよいことのように考える人が増えている。自ら努力して作品世界に踏み込み、迷宮をさまようことなく、失敗しないガイドブックを始めから求めてしまう。

 私自身、何度完読しようと思っても挫折してしまっている本がいくつもある。ただ、いつかは読んでやろうとは思っている。さまざまな情報源により、どんな内容なのかはだいたい察しはつくのだが、やはり自分の足でゴールまで歩き通したいと思うのである。

 人工知能はたどり着けなかった到達点の幻影を見せてくれるが、それはあくまで幻だと考えている。その地に到達するまでのさまざまな経験こそが大切だと思うのである。

速読と精読

 速読するときに大切なのは文章の構造を俯瞰視することだろう。詳細まで見渡せない制約下では大体の構造を把握することが必要になる。どうなのかは分からなくとも、どのようなものかが分かれば、大間違いはしない。

 そのためには、論理の型を知っていることや、その目印となる接続語の性質を理解している必要がある。これらは普遍的な約束事であるから機械にも認識できる。人工知能の行う文章理解はこれを高速に作業した結果だろう。人間が人工知能に教えたことであるが、その手法は再び人間のものとしなくてはならない。

 精読はいわゆる行間を読む能力を要する。書いてはないがその背景にある事実、出来事、関係性、筆者や関係する人物の生活環境や感情といったものを加味していく。中には書かれていることとは別の意味が隠されていたり、暗喩の中に特別なメッセージがあることも考えられる。こうしたことを読み取るのはいわゆる速読では困難だ。批判的思考も動員して時間をかけ、場合によっては他者と読みを検討する必要もあるだろう。

 速読も精読もともに必要な方法だが、今は前者に注目がいき、AIの能力に敗北感を覚えている傾向にあると感じる。内心、文章はもう自分の力で読む必要などないとしている人も多いのではないか。精読の方法をしっかりと学ぶ機会はやはり必要である。

読書自慢

 高校生の頃、国語の教科書の後ろにある年表に掲載された作品をどれだけ読んだことがあるかを競っている級友がいた。漱石や鴎外だけではなく、文学史では名前を聞いたことがあるが読んだことはないという作品を彼らは面白かった、そうでもなかったと論じていたのである。私はついにその輪に入ることはできなかったが、密かに対抗心を燃やして読んでみたものもある。多くは意味不明で理解不可能だった。私は読み始めたら、とにかく最後のページまではめくらなくてはならないと勝手に思い込んでいたので、難行苦行の読書体験が続いた。

 それでも島崎藤村の詩集にであったことは私にとっての幸運であった。自然主義文学の世界はどこか納得いかなかったので、同じ作家の作品とはなかなか判別できなかった。西田幾多郎の哲学の本とか、葛西善蔵とか太宰治とか読んでも実感がわかない小説とかもとにかく濫読してその多くは内容も忘れてしまった。文学者になる人との分かれ目はそういうところにあるのだろう。

 そして受験勉強の大義名分をもとにそうした目的なき読書は中止してしまった。大学の教養時代に少しだけ復活したが、世は効率を求める時代になっており、何がいいのか分からない読書の経験は価値が低いものと考えてしまったようだ。

 でも、愚直にあの網羅的読書を続けていたら私の人生はもっと違ったものになっていたのではと思うことがある。その方がよかったのかどうかは分からない。ただ、先人があれこれ悩んだことの経緯をショートカットしないで辿っていたら、今のような器用だけれど実感を持てない味気ない毎日はなかったのかもしれないなどと勝手に考えてしまうのである。

 高校時代に読書自慢をしていた彼らはどうなったのだろう。その輪にはやはり入っていた方がよかったといまでは思う。

読書感想文のあり方

 以前も書いたことがあるが、読書感想文を書かせることは大事だと思う。ただ、それは書評ではないことを踏まえるべきだ。

 生徒の書く読書感想文を読むと、相当な割合であらすじや本の紹介が含まれている。中にはそれが大半であり、これならば他人のレビューを引用したり、人工知能に書かせたりでできてしまう。極端なことをいえば、まったく読まなくても書けてしまうものである。

 でも、それを自分の感じたこと考えたことだけを書くとしたらどうだろう。本文の設定やストーリー展開に縛られることなく、自分を語ることを中心にするのだ。読書は自分を語るためのきっかけであり、触媒のようなものである。

 ならば読書感想文は自分を見つめ直す大きなきっかけとなる。特に若い世代でこれをすることは意味がありそうだ。

速読だけではなく

 いかに速く本を読むかという能力に対する魅力は大きく、さまざまな速読術なるものが公開されている。私もかつては通勤電車の中で吊り革につかまりながら文庫本を速読する技を身につけようと試したことがある。

 確かに少し速く読めるようになったが、その分細部への考察がおろそかになり、大切な問題を読み落としている気がしてならなかった。電子書籍をスマホやリーダーで読むときも同じで身につく読書になっているのかついにわからなかった。

 私は読書ブログに読んだ本の感想を書いているが、感想を書くときも速読した本は通り一遍のことしか書けなかった。つまり速く読んだが読めてはいなかったということではないかと考えている。

 速読だけではなく、時には遅読、精読も必要だと思い、本によってはメモを取りながら立ち止まって読むことも必要だ。文庫本にいろいろ書き込みながら読んだ学生時代のような読み方をこれからは時々してみよう。

冬越しの読書

 マフラーを着けるとやはり暖かい。首は寒さを感じやすいらしく、ここを管理することがだいじなようだ。そういえば夏はここを冷やした。

 急に寒くなり、しかもしばらく低温傾向が続くという。少しずつ体調が悪く、疲労度が増えている。こういうときは心にもマフラーがいる。現実から少しだけ目を逸らして全く関係ない本を読んでみることにしている。先日は海賊の話、その前は天気予報の話、戦国時代の皇室のことを書いた本といった具合に。

 何かのためと思わずに読む本はなぜか面白い。そして、内容が理解できるのは不思議なことである。

読書案内

 全国学校図書館協議会が本年度の学校読書調査で、教員が本を推薦していないことが読書量減少の理由の一つであるとのまとめがあった。真実だとしても読書量減少の根本的な理由ではない。読書の推薦は一つのきっかけにはなるが、勧めれば読むようになるわけではない。

 読書量の減少はやはり本を読むことのメリットを実感できないことにあると考えた方がいい。本を読まなくても不利益なく過ごすことができると多くの人が信じている。だから世の中に存在するさまざまな他者の見解を知ることへの関心が失われ、結果としてさらに本を読まなくなるのだ。これでは強制的に読めと言われても心が動かない。

 本を読むことの実利、楽しさを知っておいた方がいい。それは教師とか家族とかが強制的に提示しなくても進んで読書をする生活習慣をつくることによって達成される。これは学校だけではなく、家庭でもしくは地域で読書の意味を様々な言葉で訴えるしかない。読書不足は誰かのせいではなく、社会の在り方そのものが関係している。

美しき日本

 ラフカディオ・ハーンの「日本の面影」に彼が赴任した島根の師範学校の様子が描かれている。学生の規律と勤勉さが賞賛されているのだが、現代の師範学校と言える大学の教育学部の学生との差はかなり激しい。

 ハーンの見た師範学校の学生は軍隊的な規律で統一されていたという。学費と一年の兵役を免除されていた学生たちは、それと引き換えに極めて自己抑制的、集団主義的な立ち居振る舞いを心がけていたようだ。ハーンはそれを美意識で捉えているが、現代の日本人からすればかなり窮屈で偏向した価値観に映る。教員となるものがかような一元的価値観で生活して良いものなのかと考えてしまうところである。

 ハーンはしばしば欧米との比較を行い、日本文化の独自性と優位性を論う。どちらが優れているのかという判断は個人的なものであるからそれ以上言うことはない。ただ、ハーンの見た日本のありようは晩年に精神的な理想郷を見ようとした心の作用の影響にあることは間違いない。

 ハーンにとっての島根時代がいかに豊かで素晴らしいものであったのかを、この「日本の面影」は伝えてくれる。ここに描かれた美しい生活は今の日本にあるのだろうか。

短期記憶

 短期記憶は読書の際にも大切だ。筋を追って読んでいく際に、ワーキングメモリーはフル活用される。歳をとるとそれが衰えている気がして残念だ。こればかりは諦めずに食い下がるしかない。メモを取りながら読むことが多くなったのはそのためなのかも知れない。