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稽古は強かれ情識はなかれ

人生の支えになっている引用や、よく考える引用はありますか ?

 世阿弥の言葉というこの言葉は、能役者に対する戒めである。練習することに妥協はするな、自分勝手な思い込みは捨てよ、という意味で理解している。かなりストイックな箴言だが、私は敢て時々それを思い出している。

 実際の私はかなりの怠け者で、明日できるものは明後日に回してしまう。それで自分を追い込み、何度も苦難を味わって来たというのに。難所を偶然越えるとその苦しみを忘れて怠惰に戻ってしまうのである。

 だから、世阿弥の言葉は身に沁みる。練習や準備にもっと情熱を注ぎ、自分はこんなものだとか、結構いい線いっているといった思い込みを捨てなくてはならないのである。

 ただそれを実行できるかといえば、私の場合はいまのところ不達成だ。おそらく世の中で成功している人の多くは、この世阿弥の忠告を守っているのであろう。しかも、厳しい稽古それ自体を楽しめる心性と、それに基づいた生活を営んでいるのに違いない。

 私はできないことを棚に上げて、こうした求道者に対する憧れだけは持っている。

雨後の虹

どのような天候が好きですか ?

 北陸住んでいた頃はよく虹を見た。誤解している人が多いが北陸の冬は雪ばかりでは決してない。目まぐるしく天気が変わり、雨が降ったと思えば雲間から日が指してまた曇りに変わる。雪が降るときは雷鳴も伴うこともある。実に忙しい天気の移り変わりがある。

 こういう天候では実は虹がよく見える。空気中に水蒸気が充満しており、陽光が当たれば虹のもとはすぐにでき、一瞬のうちに架橋は完成する。そしてかき曇ればどこかに消えてしまうのだ。

 北陸に住んでいた頃は、この激変に手を焼いたこともある。でも、なぜか今は懐かしい。私の脳裏にはかなり脚色された虹を観るストーリーが繰り返されることがある。

渡辺先生

最も影響を受けた教師は誰ですか ? なぜですか ?

 私は教員でありながら生徒に影響を、しかもいい影響を与えたと思える実感がまったくない。授業にしても今日はよくできた、満足だと思ったことはない。それなりに準備はしていくのだが、思い通りに進められたことはないし、その錯覚を味わったこともない。結構自己嫌悪の連続なのである。

 生徒としての経験でもっとも影響を受けたと言えるのは、小学校の渡辺先生である。転校生ですべてが刺激的で、しかも臆病だった私を助けていただいたのである。心的なダメージを最小限に抑え、何とか環境の激変を乗り越えられたのはひとえに先生のお陰だと思っている。

 特に水泳の思い出は印象的だ。転校前の横浜市の小学校は新設のためプールがなかった。だから水泳の経験がほとんどなかったのである。転校先は水泳が盛んで、泳げる距離やタイムによって独自の階級が作られており、その級は水泳帽に刺繍されて可視化されていた。そこに無印の私が入ったのである。小学生にとっては封建社会の最下層のような感覚があった。

 渡辺先生はそんな私を個人指導してくれた。水面に顔をつけることから、力みを抜いて浮かぶところまで、水泳の授業がある度に付き合ってくれた。クラスに他に泳げない児童はいなかったから完全なお荷物なのだが、最後まで付き合っていただいた。お陰で何とか25メートルは泳げるようになった。いまはゆっくりならある程度長い時間浮いていられる。そんな自信が持てるのも先生のお陰だ。

 この自信はプールだけではなく、人生のさまざまな場面で生きている。先生は一昨年お亡くなりになられた。年賀状を送り続けていたが、必ず返事をくださっていた。それが娘さんから先生が逝去されたことを書いたお返事をいただいた。心の中で涙し、私の恩師が自分に残したことの大きさに感謝したのである。

 先生と呼ばれる仕事を勤めるのもあとわずか。尊敬されるとは思えないが、せめて生徒のために自分なりの誠意を尽くす瞬間をたくさん持ちたいと考えている。

頼りになる人物

優れたリーダーとは ?

 最近、身の回りから国際ニュースに登場する人物まで、いいリーダーが少ないと思う。自己の得意分野には聡いが、それ以外になると利己的にしか動けない。残念だが、そんな方が多い気がする。

 ならばお前ならできるのかと言われれば、それは無理ですとしか言えない。つまり、私には素養がないのだ。でも、こういう人に導かれれば幸せだろうという見通しは立てられる。そこで思い浮かぶのは権力者とか資産家ではなく、目立たない仕事を黙々とこなし、なおかつそれを誇らない人なのである。

 恐らくいまの時代ではそういう人はリーダーにはなりたがらない。功利的に立ち回ることそれ自体が彼らにとっては苦手であろうから。

 少なくとも私たちは表面的によく振る舞っていたり、いわゆる口説の徒を上手く見抜きあしらうわざを磨くべきなのだろう。本当に大切なことは何なのかを考える余裕がいる。難しいことなのだが。

エンゼルマークだけが目的ではない

今、どのスナックを食べますか ?

 子どもの頃から好きでいまもたまに買うのが森永製菓のチョコボールである。この名称になったのが1969年ということだが、前身の商品を加えるとほぼ私の人生と同じ長さがある長期販売の菓子ということになる。

 安価で美味しく、適量であることに加え、キャラクターアイコンのキョロちゃんのイメージが魅力的でこれまでにどのくらい購入したのか分からない。飽きが来ないことを考えるとかなりよくできた商品であると言える。

 紙製容器の一部に隠されたエンゼルマークがあるとおもちゃの缶詰という謎の賞品がもらえるというのも子どもころは魅力的だった。ただなかなかエンゼルは見つからず、5枚集めなくてはならないエンゼルは集まる前になくしてしまい賞品にたどり着くことはなかった。

 いい大人になった頃、ようやく願いが叶い、応募すると大きなキョロちゃんのカタチをした缶詰が送られてきた。中にはいくつかのアナログのゲームなどがあり、期待していたものとは違ったが、とても嬉しいものであった。子どもの頃に達成していたらさぞかし周囲に自慢していたに違いないが、それで何かを失ったかもしれないなどとも考える。やはりいい大人になって獲得したのでよかったのかもしれない。

 でも、そういうおまけが目的でこのお菓子を買っていたのではないことは確かだ。何というか、チョコボールを食べられることだけで得られる安心感のようなものがある。移り変わる時代の中で一種の定点のような存在として私にとっては貴重な存在なのだ。

望遠鏡

子供の頃に大切にしていたものについて聞かせてください。 それはどうなりましたか ?

 小学生のときに親から買ってもらったもので一番嬉しかったものは天体望遠鏡だった。それも反射式というのが特に嬉しかった。月面や土星や木星をそれでよく見た。福岡に住んでいた頃はそれなりに星もよく見えた。オリオン座の星雲やスバルなども見つけては感激していたものだ。

 天体を捉えてもすぐにフレームアウトしてしまうことから、地球の自転を感じることができた。赤道儀型のマウントが欲しくて仕方なかったが、それは叶わなかった。あるときは晴れれば毎日のように望遠鏡を出して星空を見上げていた。

 東京に引っ越して星空はほぼ一等星だけの寂しいものになった。それでもベランダからときどきうっすらと見える惑星を見ることもあった。絶望的によく見えない空だった。なぜか文系に進み、望遠鏡をみる機会はどんどん減って、それでもしばらくは長いダンボールを捨てずに転居先に持ち歩いた。

 北陸に住んだ頃は絶好の観察機であったはずなのにほとんど使うことなく、荷物の山の中に眠ることになる。どんどん増えた本の中でついに持ち運び不可能と判断していつか捨ててしまったのは残念でならない。今でも星空を見上げると子供のころの新鮮な感動がよみがえることがある。

英会話学校

どの学校に通っていましたか ?

 高校生の時、何を間違ったのか英会話学校に通ったことがあった。10人くらいのクラスで、私の他は大学生や社会人だった。渋谷駅に近いビルの中の教室は彼ら彼女らにとっては利用しやすかったのだろう。

 彼らの目的は留学だったり、スキルアップだったりしたのだろうが、私は受験勉強でもなく、単に少しでも英語ができるようになればいいと考えていたのだろう。同級生となったお兄さんお姉さんには珍しがられ、かわいがってもらえた。有名大学の学生がほとんどで能力差は歴然としていたが、唯一愚直に暗記するとか宿題をやっておくといったことに関しては少しだけ勝っていた気がする。

 私は高校3年になった時点でやはりいわゆる受験勉強の方が必要ということで英会話学校をやめてしまった。続けていればせめて日常会話くらいには困らないようになっていたのかもと思うが後の祭りだ。大学受験は奇跡的に切り抜けられたが、結果として何とか読めても話せないいまがある。英会話学校は続けていればよかったといつも思う。

太鼓の先生

何かに初めて参加した日 (学校、会社、親としてなど) のことを教えてください。

 初めて親元を離れて地方の職場に就いた日は、思い出すとなかなか大変な一日だった。新幹線と特急を乗り継いで、ようやく到着した地方都市は思った以上に静かな街で、夜8時になるとほとんどの店は閉まった。コンビニが1軒もなく、いわゆるスーパーマーケットも車で行かなくてはならない距離にあった。都市部の住人であった私にとってはまさにコペルニクス的展開の人生が始まった。

 ただ、私には性に合っていた。寂しくなってしようがなくなった夜に、下宿先のアパートを出ると満天の星、さらにすぐ近くの用水路には蛍の光が見えた。寂寞の情が通り過ぎると意外に快適な時間が広がった。誰にも拘束されない時間と空間を手に入れた気がした。

 新しい職場に初めて行った時に、そこの最高責任者から、太鼓の先生、こんな田舎にありがとうと言われた。音楽科の教員と間違われたのだろう。面倒なのでいやどうもよろしくお願いしますと答えた。思えば呑気な時代だった。

 その後色々あって職場が立ち行かなくなり、撤退することが決まって私の夢のような時代は終わってしまった。本当に残念なことだった。そのままあの地で仕事ができたなら、きっとやれたことは大きかったのではと妄想する。

 東京に戻ることになり、微妙に職種を変えたために何事も上手くいかない日々が続いた。今も続いている。似たような仕事なのだがやることは天と地ほど違う。自分には向いていない職とは知りながら、ついに辞めることなく続けてしまった。

 初めて新しい職場に行った日を、忘れないでいたいと思っている。でも、日々の喧騒に追い立てられてその時のときめきとか、新鮮な感動とかを次第に忘れつつある。太鼓の先生と誤認された日のことをこれからも忘れないでいたい。

失敗しないなら

失敗しないことが保証されているとしたら、何に挑戦しますか ?

 このお題で直観的に思ったのは、それなら挑戦はしないかもしれないということだ。挑戦というからには相応の覚悟を決めて準備し、失敗するリスクを考えてやるはずだ。始めから失敗しないことが分かったいるのなら、何も新しいことを始めなくてもいい。

 私がこれまでやってきたことの大半は失敗し、そのたびに軽重の差こそあれ、挫折を味わいやり方を修正してきた。その中には諦めという選択肢もあったが、第二、第三の道に進んでいまに至るのだ。

 だから失敗のない人生はもしかしたらかなり味気ないものになるのだろう。まあ負け惜しみだと言われたなら何も言い返せないが。

子どもパイロット

今までで最も家から遠い場所に行ったときのことを聞かせてください。

 距離ではなく精神的な隔たりとしての長距離旅行といえば福岡から東京への小学生の頃の一人旅だろう。父の転勤で福岡市に住むことになった私は、夏休みになぜか一人で東京へ行くことになった。東京には叔母の家があったのでそこを訪ねる旅だ。なぜ一人旅になったのかは覚えていない。恐らく親の配慮なのだろう。

 福岡空港から飛行機に乗ったが、一人旅ということでワッペンを渡された。スチュワーデスのお姉さんがいろいろ世話してくれたのだが、残念ながらこの辺りの記憶が曖昧だ。恐らくとても良い緊張していて記憶の形成を妨げたのだろう。僅かな記憶はそのワッペンを安全クリップか何かで服に付けて、しばらくは宝物のように大切にしていたことだ。

 子どもにとっては初めての経験は負担が大きい。緊張感もあったと思うがこの点も忘却の彼方だ。余計なことを考えない分、案外簡単に切り抜けられたのではないだろうか。飛行機に乗れたことだけで十分満足していたに違いない。

 大人になって一人旅は当たり前になった。どうやって暇を潰そうかということばかり考えて、鉄道も航空機も単なる移動手段のように考えてしまう。子どもパイロットの時のときめきを思い出すべきだろう。それができれば旅はまた楽しくなるはずだ。