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鳥瞰の必要性

 鳥の目になって世界を見下ろしたような地図を鳥瞰図という。bird viewing の翻訳語なのだろうか。地面から見るのとは異なる世界が見えるのがいい。地面にはいつくばって生活している私たちは自分の生活範囲だけで世界を判断しがちだ。ときには鳥の視点を持つ必要がある。

 先日、渡り鳥に関する本を読んで気付いたことがある。鳥類の研究者は渡り鳥の実態を調査するために鳥に発信器をつけて、人工衛星の機能を利用することがあるようだ。ある鳥は冬に九州に渡ってくるが、春以降は北上してシベリアなどに渡るらしい。その本によると渡り鳥がしばしば休憩地と利用するのが韓国、北朝鮮の非武装地帯ということだ。この場所は人間の出入りが難しく、結果として野生動物の楽園となっているようなのだ。

 日本、韓国、北朝鮮、中国、ロシアとこの地域は複雑な政治的状況のもと、人間の交流は制限されることが多い。ただ、鳥には国境はない。民主主義国家も独裁的な国家も人間の話である。こうした動物たちが常に行き来しているという現実を鳥瞰しなくてはならないと思うのだ。

羽アリの日

 隣町のコンビニを訪ねたことろ、窓辺に大量の羽アリがうごめいていた。一部は店内に侵入し、若いバイト店員はその処置に当惑しているようで、掃き集めさえしない。レジ台にも虫がいてあまり気分は良くなかった。

 この時期になると羽アリが突如発生する。巣分けのときにアリは羽を思い出すらしく、新しいファミリーの形成のために空を目指す。その中で交尾が成功したごく一部の番がアリの家族の主となるらしい。もっとも生き残るのはメスだけのようだが。

 羽アリの日を迎えたことは一つの僥倖と捉えるべきなのだろう。都会の中にあって、生命の営みの重要な一場面を目撃できたのであるから。

パンダ不在

 上野動物園のパンダが中国に返還され、ジャイアントパンダは日本からいなくなった。残念であるが、政治利用される絶滅危惧種を日本で飼育することは止したほうがいい。

 この動物はもっぱら政治の具として利用されてきた。1972年の日中国交回復のシンボルとして譲渡されたのが始まりだ。その後、野生動物に関する国際法が制定され、絶滅危惧種を国外で飼育することは禁止され、例外としていわゆるレンタル料を支払うことで許可されたようだ。その資金は絶滅危惧種の保護に使われることになっている。ただ、いわゆるパンダ外交は中国の政策として利用されていることは確かである。

 パンダを飼育する意味が国内的にも国際的にも確認されなければならない。現在の日本において政治色の強い動物をなぜ飼うのか。飼わないことでどのような不利益が生じるのか。思うに世界中の動物が自分の国で見られることは嬉しいことであるが、本当にその必要があるのか。ジャイアントパンダがいなくなった今、このことは大事な確認事項である。

パンダ外交の終わり

 日本の動物園からジャイアントパンダがいなくなりそうだ。もともとパンダは中国からの貸与という形で飼育され、レンタル代を払っている。様々な試算があるが、1頭当たり年間1億円以上が中国側に支払われている。飼育料も数千万円なのだが、経済効果がそれを上回るためにかつては上野公園、和歌山、神戸の動物園で飼育されていた。最後に残った上野動物園のパンダも返還されることとなり、いま最後の姿を見ようと結構な人が集っているようだ。

熊猫

 この動物は1972年の日中国交正常化を記念して贈られたものであり、その後ワシントン条件によってレンタルと言う形に移行している。希少動物の展示という段階を越えて、政治的な道具として機能してきたものである。その愛くるしい風貌から、いつも人気の動物であり、さまざまなデザイン化が施されキャラクターアイコンとして定着している。

 昨今の日中関係の不安定化や国交正常化時点とはまったく異なる両国の立場の変化によって、パンダは日本には居られなくなったのである。この動物にはまったく罪はない。あれこれ騒いだのは人間のほうなのだから。日本側が送ったカモシカはどうなっているのか分からない。再びパンダが日本に来るのかは分からないが、それが政治の具でない形でならばよいと思う。

メダカの飼育

 子供のころメダカを飼っていた。川で直接捕まえたものもあったが、金魚店で買ったこともある。売っていたのは大抵ヒメダカというオレンジの魚で、普通のメダカは買うものではなかった。いまはその当たり前にいたメダカの方が貴重になっているらしい。

 水槽に適当に小石を入れて水草を入れれば、あまり何もしなくてもメダカは生きていた。今はビオトープとかいうそうだが、アパートのベランダに放置していた手抜き飼育だ。勝手に産卵し、増えたかと思ったらいつの間にか死んだのもいて、そういう世代交代が何代か続き、ちょっとしたアクシデントで全滅したこともあった。

 メダカは身近な生き物でなぜか心が落ち着く効果を持っていた。いまは生き物を飼育する余裕がない。いつかまた鉢の中を見下ろす日が来ないかと考えている。

燕の巣

 ときどき利用する駅には燕が営巣している。今年は3カ所あり、すべてがうまく雛が育っているようだ。

 巣のある場所の下には三角コーンが置かれ、頭上から落ちてくるものに注意するようにとの但し書きが付いている。誰もこの不自由さに不満を述べる者はなく、当たり前のこととしている。

 燕が人間と共生するようになったのはいつからなのだろう。この鳥が南方からの渡り鳥であり、その雛がまた戻って来ることを古人は知っていたのだろうか。燕が雛に与える餌の多くは昆虫であり、かつては農業を支える益鳥であったことをよしとしていたのだろう。都会の人間にもその記憶は残っているのかもしれない。

 燕が人のよく通行する場所に営巣するのは、天敵たちが近づけないことを見越しているからなのだろう。それを発見するまでの歴史に自然と惹かれてしまう。

狐の役どころ

漢文の授業で「戦国策」にある「虎の威を借る」という件を扱う。虎に捕えられ絶対絶命の狐が、天命によって百獣の王に任ぜられたものと偽ることで危機を逃れるというあの話である。

 弱い者が機知によって強者に勝つという話のように思うが原文に当たると話の目的が異なることが分かる。隣国から送り込まれたスパイのような者がこの話を語るのだが、その中では虎は王の比喩であり、狐は実力者である重臣を例えている。そして、重臣が王の権威を蔑ろにして、自らを王の力を持つものと僭称しているというのだ。王と臣下の信頼関係を貶めるための話ということになる。内紛を狙った工作の話は他にもあるから、その一つであることになる。

狐はあくまでも狡猾な立回りをしたまでで、機知を賞賛する気分はなかった。絶対的な王制の時代に王臣の関係を覆すことが推奨されることはないだろう。現代人が狐を賢い者と捉えるのは、既成権力にも知恵を使えば立ち向かえると考えるからだ。反面、権威に対する敬意を失っているとも言える。

 現代人が社会で行っているのは狐の知恵なのだろうか。

初燕

 今朝、私としては今季初めてツバメの姿を見つけた。数日前に鳴き声は聞いていたので少し前から飛来していたのだろう。寒暖の差が激しいこの頃だがそれでも季節は確実に遷移しているようだ。

猫を見ていて

 猫はもともとウサギやネズミを狩っていたようである。長い人間との付き合いの中ですっかり牙を隠している。でもその本質はハンターであることは忘れてはならない。

 ある施設に飼われている猫に今日は接した。媚びを売るように近づいてきて、少し撫でてやると急に腹を見せてくる。これをかわいいというのだろう。私もその思いを発しながらも、でもこの動物は根本的に狩猟を旨とする生き物であると考えてもいた。油断はならない。

 おそらくこの人なつこい行動は長い人間との共生の中で獲得されたものであり、後天的な要素なのだろう。人類が滅亡したらイヌの多くは共に滅亡するが、ネコ類は野性に戻って生き続けると考えられているのも、もっともだと思う。

 こどもの頃は猫が嫌いだった。どこか自分の弱みを見透かされている気がしたのだ。ところがある年齢を過ぎると猫を愛おしく思えるようになった。何かに共感したのだろう。ネコも人間に従属することになるとは思っていなかったはずだ。媚びを売りながらもしっかりと欲求をする。ネコ的なしたたかさを再評価しているのだ。

法師蝉

 気のせいかツクツクボウシの鳴き声をあまり聞かない。晩夏によく鳴くのでこの蝉が鳴くと夏休みも終わりだと感じたものだ。

 私の住まいの近くだけの現象かもしれないが、ツクツクボウシを聞くことがとても少なくなっている気がしている。これも気候変動の影響なのだろうか。それともあまりに忙しく蝉の声を聞き取る余裕がなくなっているせいなのだろうか。