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燕の営巣

 数日前、燕の囀りを聞いた。姿は発見できなかったが、恐らく電線の上などにいたのだろう。今朝、それと同じ個体かどうかは分からないが駅の入り口の屋根裏に営巣しているのを見た。早業だ。

 このところ初夏と言うには高すぎる気温の日が続き、今日も夏日になるらしい。燕もせかされているのだろうか。野生動物なのに人間の直ぐ側に巣を作り、我々が手を出さないことを信じているかのようだ。確かにこの間合いはカラスには無理だ。

 おそらく瞬く間に成長し、空をかけめぐることになるはずだ。ツバメが来るとなぜか安心する。

都会の野生動物

 駅前のベンチで荷物を整理していたら小さな生き物が歩道を走って横切り、街路樹のツツジの植え込みの中に隠れた。しばらくすると別の個体がほぼ同じ速度と経路で走り過ぎる。どうやらネズミのようだ。

 人通りの多い駅前にネズミがいることに普段は気づかない。でも、調査すれば恐らく多数のドブネズミなどが生息しているはずだ。ネズミだけではない。多くの野生動物がこの街にもいる。

 少し前にタヌキに遭遇したことがある。アライグマではなく確かにタヌキだった。ホンドタヌキは在来種らしいが、都会に普通に生息しているらしい。外来種に押されているようだが、小さな雑木林でも繁殖できる。

 ハクビシンに出会ったこともある。屋根裏などに棲み着くので害獣扱いになる。他にもいろいろな野生動物がいるようである。身を隠ししたたかに生きている。

 多くの動物たちと共生しているという意識を持つだけで日常の見え方が変わっていく。何でも人間優先という価値観が変われば解決できることが増えるのかもしれない。

カラスの番

 まだ寒い日が続くがそれでも確実に季節は進行している。先日は桜のことを書いたが、動物も季節の移ろいを感じさせてくれる。メジロが盛んに飛んでくるようになったし、これまであまり聞こえなかった鳥のさえずりに木々を見上げることが増えた。そして身近な鳥としてカラスの行動がある。

 カラスは一年中いる鳥だが、この頃は番(つがい)で行動していることが多い。食べ物以外のものを加えて飛び去るのは巣材の収集であろう。調べてみるとカラスは一夫一妻制であり、その絆は深いのだという。2羽で並んで飛んでいるのはおそらく夫婦なのだろう。どちらが夫でどちらが婦なのかは分からないが。

 カラスは死肉をついばむ食性があり、不気味な印象が強い。また、都市部ではゴミ集積場を荒らす厄介な害鳥にもなる。鳥類にしては知能が発達しており、ある程度の記憶も可能で、また鳴き声によってコミュニケーションをとることもあるという。こうした性質が複合すると、不気味で侮れないというマイナスの印象が高まる。しかし、一方では神の使いとして神聖な動物として捉えられることもある。聖俗の間を大きく振れる存在なのはこの鳥の特徴である。それだけ人間の生活に密接に関係しているのかもしれない。

 カラスにとってみればひたすら生きるために行動しているのに過ぎない。「カラスの勝手でしょ」とさえ思っていない。ただそれを見ている人間がこの鳥にさまざまな意味を見出し、毀誉褒貶を与えているのに過ぎないのだ。

富山湾のイワシ

 富山湾で異常なほどマイワシが獲れているそうだ。漁船に積みきれないほどの大漁で網に掛かってもそのまま放流している現状だという。

 確か昨年も大漁のイワシが海岸に押し寄せたはずだ。気候変動と先日の能登半島地震の影響を考えたくなる。豊漁は価格の下落をもたらす。しかし、豊漁のあとは不漁となる可能性が高い。収穫量を調整するとともに保存方法や有効活用を考えたい。

 イワシはかつては下魚の扱いだったが、鮮度さえ保たれれば金の取れる魚種となった。加工の仕方次第では和食にも洋食にも合う。干物としても使える活用法の多い魚だ。

 日本近海で取れる魚は食料自給の鍵となる。大漁のイワシをいかに使うのかは今後の日本の食のあり方を考える試金石となるはずだ。

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すずめ続報

 この前すずめを見かけなくなったという記事を書いてから、ずっと気になっている。やはり、私の生活圏にはすずめがいなくなった。一度だけ10羽ほどの群れを見たときは実に嬉しい気持ちになった。

 恐らく私のようなアスファルトに囲まれた空間にお住まいでない方々には何のことか分からないだろう、確かにすずめに出会う機会が激減したのである。カラスやハトはいくらでもいる。ヒヨドリやムクドリもいるのになぜかすずめだけが消えてしまったのである。

 様々な環境要因を考えなくてはなるまい。いまは小さな鳥の問題だが、この延長に人間がある。何が原因なのかを明確にしてその対策を考えなくてはなるまい。

スズメがいなくなった

 いつの間にか変わってしまった風景がある。その一つにスズメがいなくなったことがある。私の住む東京の郊外には比較的街路樹や公園などがあり、都心部に比べれば野生動物も住みやすいと思う。にもかかわらず、かつてはどこにでもいたスズメに出会うことが少なくなってしまった。

スズメの写真

 公園などに訪れる野鳥は圧倒的にハトとカラスが多く、メジロ、ウグイス、シジュウカラなどを季節によっては見つけることができる。ハクセキレイは少ないが印象的であり、ヒヨドリやムクドリは群れて飛来すると圧倒的である。ところがかつては最も多かったスズメがほとんどいない。

 鳥に詳しい方の書籍やサイトによると、都市部のスズメの減少は大変顕著な現象のようだ。その原因として営巣場所が現在の建築物では確保しにくいこと、耕作地の減少で昆虫などの餌の確保が難しいこと、騒音や排気ガスなどの与えるストレスが繁殖力に影響を及ぼしていることなどが挙げられている。おそらく、そのいくつかの原因が相関しているのだろう。

 スズメは源氏物語に幼い紫の上が飼育しようとしていたエピソードが書かれているし、枕草子にも登場する。スズメを図案化した文様はいろいろある。文化に溶け込んできた動物である。子どものころ籠を伏せてスズメ獲りに挑戦した人は多いだろう。雛を拾って育てたこともある。そういう身近な動物が少しずついなくなっている。

森の熊さん

 各地で熊の被害が出ている。私は直接熊に遭遇した経験はない。富山にいた頃、山間部で熊の被害にあったというニュースに時々接した。その多くが農作物への害であり、人的な被害はめったになかった。それが昨今は違う。死傷者が出ているのだ。

本州に棲息するツキノワグマは、秋から冬に食料確保のために奔走する。その中で人間の生活圏には入るものも出てくる。発見されたはものの大半は指定されたハンターにより落命する。それが最近は鉄砲の数が足りないほどやってくるらしい。これには猛暑による森林の生態系の変化が影響しているのには間違いない。

地球の歴史のレベルでいえば人間の方が新参者であり、熊にしてみれば人間は迷惑な生き物に違いない。ただ、こうなっている以上、折り合いをつけざるを得ない。熊には山で暮らしてほしい。その山を削っているのは誰だろう。熊さんは好きで人間を襲うのではない生きるための障害であればそれを倒すしかないのだろう。

出会った熊は倒すしかないが、できれば出会わない方法を考える必要がある。おそらく森に詳しい方はいくらでもいるはずだ、その方達の意見に耳を傾けようではないか。

進化の不思議

 生物学者のエッセイを読んでいると実に不思議な気持ちになる。生物はいつも環境に適応するために自分の身体を変化させ続けているというのだ。世代という単位では気づかないことも多いが、そのスケールを少し拡げるとすぐにその変化に気づく。寿命が極めて短い種の場合はそれがかなり早く起きる。

 人間も同じだ。今の学説ではホモサピエンスはアフリカ大陸にいた共通の祖先から世界中に拡散したという。地球上の各地に拡散するグレート•ジャーニーの途中で各地の気候や地理的な要因に適応した人類は、その形を次々に変えていったことになる。東アジア人の顔が凹凸に乏しいのは、寒冷な気候を過ごすうちに体表面の面積み減らして体温の発散を減らすためだという。

 実は進化の要因は複数の要素の複合の結果であり、単純な説明ができない。それを遺伝子とか進化論とかで何とか理由づけしているのだ。その意味で後付けの説明であって未来のことは分からない。

 ただ、私たちの身体そのものも自然の一部で、適応し子孫を残すために今後も形を変え続けるということだけは確かだということだ。今の姿が過去に遡れる訳ではなく、未来もこのままであるはずもない。

いまの笑顔が未来もそうだとは限らない。これは人工知能に作らせた笑顔のイメージです。

狐は何て鳴く

何て鳴く?

 What does the fox say? を繰り返す奇妙な歌に合わせて踊るきつねダンスは北海道日本ハムファイターズのイニング間のアトラクションとして行われ話題になっている。ナンセンスだが乗りのいい曲と簡単だが印象的な振り付けで楽しい、ところで本当に狐は何て鳴くんだ?

 日本人はほとんどの人はこの問いに困らない。コンコンと鳴くと子ども頃に教えられるからだ。イソップ物語では悪役が多いが、童話の世界では可愛らしいキャクターにもなる。伝統的には憑依する霊的動物であり、稲荷社には霊獣として祀られる。調理の世界ではきつね色は常套だ。でも本当にキツネを見たことのある人はどのくらいいるのだろう。

 万葉集に、「さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の桧橋より来む狐に浴むさむ」という歌がある。恐らく宴席でそこら中にあるものをなるべく多く詠み込んで歌うという芸として披露されたものだ。湯をなぜ狐に浴びせるのかは分からない。この歌来む(こむ)に狐の鳴き声まで詠み込まれているという説もある。どうだろう。

 姿を見たことがないのだから、まして鳴き声を知るわけがない。調べてみるとコンではなくコンコンコンが単位のようだ。人の声のように鳴くこともある。もっと複雑なのだ。

 ファイターズのお姉さんたちが踊る歌の中でもキツネはさまざまに鳴いている。これは嘘ではないらしい。