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東京も粉雪

 今朝は東京でも粉雪が舞っている。今のところ積もりそうもないがこのまま低温が続くとどうなるか分からない。関東は雪の備えがないので少しの積雪で様々な障害が出る。今日は運転する予定があるので積もらないことを祈るのみだ。

 ニュースによると雪国の積雪は深刻らしく、北陸ではさらに70㎝の積雪があるかもしれないという。融雪装置が効かなくなるまでにならないことを祈る。屋根雪の除雪で事故になる件も多く報じられている。少しだけ雪国暮らしを経験した私にとってはその恐ろしさは実感できるものである。

 子どものころは雪が降ると心躍った。福岡に住んでいたころ、記録的な寒波の影響で北九州でも積雪があり、従兄弟のおにいさんが作ってくれたにわかのそりで斜面を滑ったことをなぜか忘れずに覚えている。おそらく大人たちはいろいろ大変であったはずだが、そこには考えは及ばなかった。いまは雪が降るたびに面倒なことばかりを考えてしまう。当然といえばそうなのだが、純粋に天気の変化に感動する気持ちがかなり薄れていることを思うのである。

 何はともあれ、この雪で痛い思いをする人が出ないことを心から祈る。

朝日のかげ

 平日は毎日同じ時間の電車に乗る生活をしている。だから日の出の時間が少しずつ早くなっていることを実感できるのである。

 今日の東京の日の出は6時44分だったようだが、これは冬至の時よりも3分程度早い。そのくらいの差ならよく分からないはずだが、従前の理由により気がついてしまうのである。車窓から見える風景の明るさや、朝日が作る陰影の具合が少しずつ変わっている。

 これからは変化の割合が大きくなる。3月頃に日が延びたと感じられるのはそのためだという。春が来たという実感と花粉の季節の到来が同時に来る。

 朝のルーティンはこのところ固定している。あれこれ考えないのは楽だが、日々の刺激というかそんなものが消えてしまった気がする。だから日の出時刻の変化を感じるのは私にとって実はとても大切なことなのだろう。

 

豪雪

 ニュースによると北陸ではかなり雪が降っているらしい。積雪のためにさまざまな障害が起きつつあるというから心配だ。

 除雪にはいろいろな危険も伴うので十分に注意していただきたい。特に人力で行う場合は要注意である。無理のないようにしていただきたいと思うばかりだ。関東は乾燥した晴天、毎年思うのだが、この差の激しさは日本の特徴ではあるが、何とかならないものか。

冬越しの読書

 マフラーを着けるとやはり暖かい。首は寒さを感じやすいらしく、ここを管理することがだいじなようだ。そういえば夏はここを冷やした。

 急に寒くなり、しかもしばらく低温傾向が続くという。少しずつ体調が悪く、疲労度が増えている。こういうときは心にもマフラーがいる。現実から少しだけ目を逸らして全く関係ない本を読んでみることにしている。先日は海賊の話、その前は天気予報の話、戦国時代の皇室のことを書いた本といった具合に。

 何かのためと思わずに読む本はなぜか面白い。そして、内容が理解できるのは不思議なことである。

ボンボンシール流行の意味

 よく使う駅の改札の外に設けられたワゴン販売に珍しく長い列ができていた。大抵はお菓子や、革細工などの小物などが売られていて、足を止める人はいて、そこそこ売れることもあるようだが、列ができることはない。それが少なくとも20名以上の列だったのである。

 何だろうと思って見に行くと意外なものだった。シールだったのである。キャラクターの形に作られたシール集で、立体感がある。調べてみたらボンボンシールというそうだ。諸説あるが平成年間に主に女児の間で流行していたシール収集がここにきて復活したらしい。でも、昭和にも似たようなものがあった。転写シールというフィルム上のシールなどはあちこちに貼って怒られたものだ。

 シールのような安価でかわいらしいものが流行するのはなぜなのだろうか。一つにはそれを買い与える親世代の精神が影響している。昔のことを懐かしむ気持ちだ。平成レトロと言われているようだ。昭和世代にとっては複雑な気持ちになる言葉ではあるが。さらには幼いころに回帰したいという一種の退行心理もあるのかもしれない。ストレスが多く、常に何かに追われているような毎日、また縮小する国家経済、近いうちに起きる天災などのニュースをジャブのように受けている私たちが、心理学でいう防衛本能を子どもの遊びのなかで実行している可能性もある。

 現役の子どもたちにとっては簡単にできるデコレーションに創作活動を始めるきっかけを使ってほしい。そして私たちも、デザインすれば日常品が違った輝きをもつということをシールの貼付から思い出す契機となるのかもしれない。私の子ども時代のようにあちこちに貼りつけて怒られることがないようにしなくてはならないけれども。

 

低温予報

 予報によれば関東は21日くらいから著しい低温傾向になるという。日本海側ではその前日くらいから雪になり、所によってはかなりの積雪もあるかもしれないという。この時期にはよくあることだが、問題はその程度である。生活に支障が起きるほどの天災にならないことを祈る。

 北陸に住んでいた頃は、この時期は結構スリリングだった。道路には融雪装置が付いているので、よほどのことがない限り大丈夫なのだが、問題は車庫から公道までのアプローチである。距離は大してないのだが、降り出すと除雪してもすぐにまた雪が塞いでしまう。私のような雪国ネイティブでない者にとって、手の抜きどころが分からず、無駄な力仕事が重なって疲労してしまうのである。

 関東に転居してこの苦労はなくなったが、代わりに異常な乾燥と他人からのウイルス感染の可能性の多さに常に曝されている。どうも体力が逓減しつつある現状において、少しの油断もできない。冬は嫌いな季節ではないが、緊張感を要求されることにおいては他季とは違う。

2026始まる

 2026年はどんな年になるのだろう。私にとってはまもなく人生の節目を迎えることになる。最後の仕上げの一年だ。といっても、やれることは限られているし、それをとにかくやってみるしかない。毎年、年始には大風呂敷を広げ、勝手なことを抱負として述べることにしている。

 今年はこれまでにやってこなかったことを始めたい。その多くは地味で詰まらないことかもしれない。それでもいい。何もしないよりずっといい。恐らく始めた分だけ、いやそれ以上に失敗があるはずだ。その屈辱や挫折も含めて人生に彩りを加えてみよう。

 その一端はブログにも書いてみよう。恥をかき、かいたものを書く。そんな1年にできたらいい。

丙午伝説

 来年は丙午(ひのえうま)にあたる。この年に生まれた女性は気性が激しく家庭を亡ぼすという迷信があり、直前の1906年、1966年は出生率が顕著に減少している。ただこの迷信の根拠が江戸時代に起きた八百屋お七の放火事件にあるというからかなりあやしい。お七は火事で自宅が火災になったとき、非難した場所で知り合った男と恋に落ち、その後別れたが火事になればまた会えると思って自宅に放火したという。ぼやで済んだがこの罪で火あぶりの刑に処せられたという。そのお七が丙午の生まれだというのだ。お七を取り上げた井原西鶴の『好色五人女』などによればお七は丙午生まれではない。そもそもこの浮世草子自体が創作であり、史実ではないのだがどうもこの女性の人生が江戸の人々には同情を惹いたようで何度も創作化され、そのなかで丙午誕生説ができたらしい。

 この根も葉もない迷信がなぜか丙午生まれの女性を差別する伝統を作ってしまった。1966年も人口ピラミッドをみると明らかに不自然にへこんでいる。この生まれの人たちはどうかと言えば実は偏見に悩んでいるというよりは恩恵を受けていることの方が多いようだ。同級生が少ないことは入学試験や入社試験で有利に働くということである。来年はこの迷信による出産抑制は少ないといわれている。そもそも何もなくても人口減少が激しいこの国にとって、毎年が丙午のような迷信にとらわれているといっていいのかもしれない。

 国家を維持するための人口が不足しつつあるというのが専門家の意見である。丙午の迷信を気にする若い世代は少ないと考えるが、それでも多少の影響はあるのかもしれない。同級生が少ないということはデメリットもあるが、どちらかと言えばメリットの方が大きいような気がする。迷信にとらわれず、むしろそれを利用するようなたくましさが求められている気がする。

今年痛感した課題 インフラ維持

 今年起きたさまざまなニュースの中でも衝撃的だったのは埼玉県八潮市でおきた道路陥没事故だった。埋設された下水管が地下で発生した腐食ガスの影響で崩壊したのが原因ではないかと言われている。この事故の恐ろしいのはこうしたインフラ老朽化による突然の事故がこれからもどこでも起こりうるということである。

 経済成長期に急速に進展したインフラの中には耐用年数を終わろうとしているものがかなりあるらしい。それをメンテナンスするための予算、人材が減少し、その技能も維持できなくなっている。解決のためには、まずこれ以上のインフラを造らないこと、もしくは都市機能を集約すること、作業の自動化やAIなどの活用で省力化を進めていくこと、何らかの方法で技能者を増やすことなどを達成していかなくてはならないという。いまの我が国にとってはかなり難題である。

 私の世代には街にものが増えていくのは当たり前であり、それが維持されてさらに新しいものが付け加わっていくという発展的な視点がある。しかし、これからはより計画性が重んじられるはずだ。造ったあとどうするのか、維持するため、もしくは解体するための作業工程を織り込んでいくことが求められるのだろう。

感動する短い動画の原点

 人の善意や悪意を短い動画にして見せるというものがある。小説には短すぎるが、短時間で全体像がわかり、それなりに感動できるというものだ。作り話だと思いながらもつい見てしまう。そして、このときに得られる感慨にどこか見覚えがあるのである。ほかでもこのようなことを経験してこなかったかと。

 何だったかとしばらく考えていると、思い当たるものがあった。いわゆる説話文学のなかにある世俗説話と言われるものや、江戸時代の奇人伝と呼ばれる個々人のエピソードを描いた文学の読後感とにているのだ。古典にまでさかのぼらなくても、個々人のちょっとした体験をつづった新聞や雑誌の読者投稿欄にも同じようなテイストを感じる。共通するのは分量が短く、簡潔で、読者は書かれていることを一応事実もしくは事実の可能性が少しはあるものとして受け取っているということだろう。そんなこともあるのかと思わせることがこの種のストーリーのミソである。

 今は人工知能の手を借りれば簡単な動画をそれらしく作ることもできる。人の善意や悪意を際立たせて筋を作れば現代の世俗説話ができてしまうのだ。しかもかつてなら専門家が長い時間をかけて作っていたアニメーションやそれっぽい実写風の動画も家庭のコンピュータで作れてしまう。それは新しい表現ジャンルができたのだということができる。それが創作であり、現実ではないというリテラシーが見る側にますます要求されれることになるのではあるが。