タグ: ブログを書く意味

何かを言いたいのに言葉にならない

 何かを言いたいのに言葉にならないときはどうすればいいのだろう。私は時々そのような状況に陥る。ブログを、書くことでこの方面の技能を保持しようと思うのだが、あまり上手くいっていない。

 言いたいことの中には、実に言いにくいことがある。ブログに書くときはそれを限りなく一般化して表現する。でもそれでは「本心」は表現できない。私は結局他人の文脈に入り込み当たり障りのない表現を選択してしまう。書き上げたときはうまくやったと思うのだが、よくよく考えるとちょっと違うのだが、という思いを残す。

 おそらくその時々の思いをそのまま表現するのは至難の業で、限りなく不可能に近いのだろう。それを過去の経験や、他人の残した言い回しを利用してそれらしく言おうとしているのだろう。言葉にならないことを言葉にしようとすると、そういう無理も起きる。

 それでも、何かを表現したい。そう思うのは表現することに何らかの意味を考えるからだ。言語化することで感情に切れ目を入れることがその目的の一つだろう。そうやって私は日々を乗り越えている。

文章を書くという癖

 文章を書くのが好きになったのはいつからだったろう。夏休みの絵日記の類は葉月晦の作になっていた。おそらく日記というものは苦行以外の何物でもなかった。それがブログ書きになっているのはものすごい皮肉な笑い話だ。

 長い文章を書いたのは旅行したときの印象を書き出したことだと思う。図らずも私の日記は紀行文から始まっている。特別な体験は文章に残したくなるというのが自然の成り行きなのだろう。どこそこに着いたとか、何を見たとか、そういう他愛もないことを書いていた。

 ネット時代になってブログという存在に気づいてからは日記というよりは随想を書くようになった。それもこの二十数年の間で少しずつ変化して今の形になった。いまや生活の一部であり、特別な経験がなくてもよくなっている。

 私の場合はこれが存在の自己確認手段の一つであり、明日もまた同じ行為をすることを何となく目標として考えている。すでに癖であるともいえそうだ。

梅花盛り

 実家の近くの古くからお住まいの家の庭先に見事な梅が咲いていた。白梅も紅梅も花盛りである。

梅花爛漫

 有名な梅園で観梅もよいが散歩先で出会う何気ない花もまた捨てがたい。今日もこの時期としてはかなり暖かくなり、いわゆる春一番も吹いたらしい。自然は季節という単位で更新していく。私もただ時間を見送るだけにならないよう、せめてこのブログで戯言を重ねたいと考えている。

2026始まる

 2026年はどんな年になるのだろう。私にとってはまもなく人生の節目を迎えることになる。最後の仕上げの一年だ。といっても、やれることは限られているし、それをとにかくやってみるしかない。毎年、年始には大風呂敷を広げ、勝手なことを抱負として述べることにしている。

 今年はこれまでにやってこなかったことを始めたい。その多くは地味で詰まらないことかもしれない。それでもいい。何もしないよりずっといい。恐らく始めた分だけ、いやそれ以上に失敗があるはずだ。その屈辱や挫折も含めて人生に彩りを加えてみよう。

 その一端はブログにも書いてみよう。恥をかき、かいたものを書く。そんな1年にできたらいい。

存在していることを確認するために

ブログを書くのはなぜですか ?

 内容の質は低いが毎日文章を書いているという事実だけは自らも誇りとしている。参加賞狙いの毎日である。

日記を書くのがなぜ続かないかと思ったら、それは読んでくれる人の存在の有無であろう。私のブログはアクセス数がかなり少ないのだが、それでも頻繁に読んでくださる人もいる。流行りのこととか、有名人の話とか、特別な情報などはないこのブログにお付き合いいただける方がいらっしゃるだけでもありがたい話だ。

これからも思ったことを思いついたままに書いていくから、繰り返しも、矛盾も、誤謬もあるだろう。ただ、文章を書くことによって自分の存在を自分自身が確かめるという営みとしてこれからも続けていきたい。

妄想不足

 学生の頃、小説のようなものを書いた。いま考えても愚かな内容だ。日常にあるきっかけで変化が起きる。それまで出来なかったことが急にできるようになり、それゆえに世界観が激変するという内容だ。

 ただ、自分だけ変わっても結局何もできない。その無力さに気づくと持っていた能力が失われてしまい、虚しさに苛まれるといった筋である。当時よく読んだ小説の二番煎じだ。味付けを当時の生活に引きつけて書いたので、それなりにいいとは思ったが、もう原稿はどこかに行ってしまった。

 同じような内容を今書こうとしたら無駄な注釈をたくさん入れてより理屈っぽいものしかできないだろう。最近、感じるのは妄想ができないことだ。創作にとって大事な一歩目が踏み出せない。

 だから、このブログのような短いエッセイしか書けていない。それでも書けるだけまだましと自分を励ましている。突飛推しもないことを書くのはしばしば創作の代替行為である。嘘は書いていないつもりだが、事実でもない。妄想したいができない自分の苦しみの跡なのだ。

とにかく書くこと

 自分の考えをなんでも書き出すといいという意見に時々出会う。私にとってのこのブログなどはその目的で続けている。質より量というか、継続である。自分で言うのもむなしいが、ほとんどがどうでもいい記事である。ただ、私の場合は毎日何とか続いているので、過去にこのようなことを考えていたんだということを思い出すよすがにはなる。

 これは悪いことではないらしい。私たちの思考は言葉によってなされるが、それがまとまった文章になって初めて思考というものが形成されるようだ。あれこれ思っていても形にしなくては定着しない。だから、無理やりにでも言葉にすることには価値があるというのだ。思いつくまではもやもやとして何も始まらないが、ノートにメモしたり、キーボードをたたき始めると意外にも次から次へと言葉がつながることがある。これは言葉のもっている文法というか自然の流れというものが、思考を育てる手助けをしてくれるからなのかもしれない。

AIが生成したイメージ

 作家とか文筆業の人の中に多作の人がいるが、この最初の思い切りができる人なのだと思う。あいまいでゴールが見えていないのに、書き始めると自然に次の道が見えてくる。それが達人の技なのだろう。とにかく行ってみるのが冒険家だという話をどこかで聞いたが、文章家もそれに近いものがあるのだろう。もちろん、いろいろと調べたり、経験を積んだりすることが必要なことは言うまでもない。それがなければ語る内容が薄くなるはずだ。でも、経験豊富であれば文章が書けるというものでもない。やはり最初の一歩を踏み出す勇気があるかどうかなのだと思う。

 とにかく書くことが大切なのだが、日々を忙しく過ごすうちに日常の路線から少しでもはみ出ることにためらいを感じてしまう。それが新しい考えをすることを拒み、日常の繰り返しに甘んじることにつながっているのだろう。これは加齢もある。年齢を重ねることは経験を豊かにするが、同時に失敗を恐れる臆病さも獲得してしまうのだ。なんでも思いついたことを書くノートは常にカバンの中にあるが、最近何も書けないことが多い。もう一度考え方を改めて、最初の一歩をたくさん踏み出したい。このブログもそのための一つだ。

まずは考えてみること

 今日は書くことがなかなか思いつかない。こういう時は天気の話を書くのだが、それも最近多すぎる気がしている。書くことが思いつかなくなった原因の一つが深く物事を考えなくなったことである。これまでの経験に照らし合わせて、書く必要性を感じなくなってしまっているのだ。これは大きな思い違いであることは分かっている。

 自分の体が日々変化し、細胞レベルではどんどん入れ替わっているというのに、昔考えたことがいまでも当てはまるとは思えない。やはり変わっているのだ。だから、同じようなことを繰り返して書いてもそれには意味がある。それを忘れてはならないのだろう。

 なんでも効率的に無駄なく、冗長性を排除するという考えに染まると自由な発想ができなくなる。すでに自分より有能な人が考えて結論を出していることを自分が考えても意味がないなどと考え出すと、結局何も考えないことになってしまう。これは私だけではなく、現代人にある意味共通している現実のように思う。さらに相手がコンピューターになると無力感が甚大なものとなる。

 稚拙でも準備不足でも自分で考え、そこにあるもので解決を試みることが何よりも大切なのだろう。

ブログを書く人工知能

 このブログのアイコンは先日始まったWordPressのアイコン生成AIサービスを利用して作ったものだ。瑠璃色、別荘などとプロンプトを並べたらできた。タイトルを決めてくれたり、要約を書いてくれたりもする。これらも使ったことがある。何なら本文も書いてしまう。整然とラベリングとナンバリングを施した文章を立ちどころに書く。これだけは採用していない。その椅子を取られたらもう私の居場所がなくなる気がするからだ。

 人工知能は音声入力にも反応するようになるらしい。反応速度も人間並みになり、多言語の同時通訳も実現が近づいてきた。昔、中国の映画で役者が自国語で演じ、あとから中国語を当てて作ったのを見たが、それが実現することになる。日本語と中国語で会話しながらイヤホンでは同時通訳された声が聞こえているというふうに。

 言葉の世界に人工知能が踏み込んでくるほど、人間はその能力の高さに圧倒されそうになる。そして著しい無力感が伴う。これから英語を勉強する意味なんかあるのだろうかなどと考えてしまうのだ。

 よく考えればAIのしているのは瞬時の記号の置き換えと確率的に高い組み合わせの合成であり、個々の意味を理解している訳ではない。言葉にはその場に応じて使い分けなくてはならないものがある。機械にはそこまでは判断できない。言葉は音声や意味を表すだけではないようだ。

 ならばやはり私たちは母語の知識や運用力を挙げなくてはならないし、外国語の学習も不可欠だ。人工知能に何でもお任せという訳にはいかない。

 このブログは今のところ私がスマホで入力して書いている。毎日ネタがなくて苦労している。いっそ今日のブログを書いてと人工知能に命令したくなるが、この苦しみだけはやはり譲りたくはないと思い返すのである。

最初の一歩

 毎日文章を書いていると、何を書いていいのか分からない日がある。そんなときは天気の話題でごまかしているのだが、実は書くことが決まると次々に書けるものである。換言すれば最初の一歩さえ踏み出せればなんとかなるということだ。

 ただし言うは易く行うは難し。その最初の一歩をどこに置けばいいのかで迷うのだ。おそらくその一歩を踏み出す前は、それがある程度継続して自分なりの目的地にたどり着くことを考えている。だから目的地のことばかり考えると行き詰まる。最短距離で苦労することなく進んでいこうと無意識で考えるからだ。でも新しいことを考えたり、始めたりするときはその後の展開は予測不可能である。予測できるものであればそれは新しいものではなく、既に経験したものであろう。だからこそ、最初の踏み出しには困惑と不安がつきまとう。

 そういう意味では最初の一歩はむしろなんでもいいのかもしれない。とにかく始めることによって、考える糸口が生まれる。糸口が分かれば紆余曲折はあっても思考が重ねられる。目的地が仮に北にあったとしても、最初の一歩が南を向いても構わない。最短距離ではないが、道中で得られることは多いはずだ。

 私のブログは大抵がとても短い時間で書くので、論理の破綻や無駄が多いかもしれない。それでもいいと思っている。結果的に何も考えなかったことよりも、下手な思考をした方がいい。