できることできないこと

 自分ができることができない人に出会うと哀れだと考えてしまうことがある。こんなこともできないのだ。きっとなにか訳があるのだろうなどと。

 しかしこれは他人事ではなく、自分もまたできないことが他人に露見したときに同じことを思われている可能性がある。このくらいのことができないのかと蔑まされるか、哀れみの対象になるかは実に相対的なものだ。

 優位の基準も時代により地域により立場により異なる。方程式が解けないことや、読解力がないことは現今の価値観からすれば劣位に置かれて然るべきだろう。ただ、どうしたら植物を安定して育てられるか。効果的な魚釣りの方法を理解しているのかという別の基準を持ち出されたら、まったく違う結果になる。

 人にはできることとできないことがあり、それらを補いあってこそ集団の力が発生する。なのに、ある一つの物差しを絶対化して、それ以外を無意味化するのは実生活と乖離しているというしかない。私たちは一人では生きられない生物であることを思い出すべきなのだろう。

できることできないこと” への1件のフィードバック

  1. 少し前(私が若かった頃)までは能力の有無という前に家(家業)を継ぐというのが普通だったように想います。それで農業や漁業などが細々とでも続いてきたように思います。今は個々の能力を生かそうと言うのでしょうか、田舎から都会へ若者の流出が止まりません。親も何もしんどい思いをしてまで家業を継がなくても⋯と子供の意思を尊重する結果、田舎では無惨とも言えるほどの過疎化が進行しつつあります。これからの生活を考えると親世代(私達の世代)もそうせざるを得ないのが実情です。このままで行くと、日本社会はどうなっていくのだろうと心配でなりません。社会は人の助け合いで成り立つものだとは分かりすぎるほど分かっているのですが⋯。もう先の短い私がそんなことを心配する必要はないのかも知れませんが⋯。(^_^;)
    昔、田舎は食料に限らず労働力の供給源でもあったのですよね。その労働力が集中している都会(東京など)でも子供が少なくなって来ていることを考えると、国はいったい日本をどんな国に持っていこうとしているのか、ビジョンがさっぱり分かりません。😢 
    ちょっとピントがずれているかも知れませんが、ごめんなさいです。🙇

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