天才の絵画に感動できるということは

 細密画を見るときにいつも思うのは、その制作過程の膨大な時間である。今のように人工知能が過去の図案からそれらしいものを組み合わせて作り上げることは根本的に異なる。自分の感じた世界を少しずつ、かつ着実に形にしていく過程において、どのような呼吸がなされたのか。会話や心中思惟はいかなるものがあったのか。創作を妨げるものがあったとしたら、それをどう乗り越えたのかといったことを思い巡らす。

 細密画だけではない例えばゴッホでも、ピカソでも、山下清でも岡本太郎でもいい。独自な世界観をどのように維持できたのか。技巧ではなく、彼らの深層の表現だとしたなら、それを長年にわたって維持できたのはなぜかと考えてしまう。

 理解の妥協案として彼らは天才であり、常人ではないという考えがある。これは極めて納得しやすく、己の非才との比較をするときも自分を傷つけることがない方法だと思う。彼らは格別で自らの及ぶものではない。それ以上は考えるべきではないというものだ。

 でもよく考えてみると、幾分かの矛盾を見つけ出してしまう。別格の才人が創ったものの良さをどうして評価できているのだろうか、ということだ。ぐにゃぐにゃの糸杉や遠近法のおかしい風景画を見ても感動できてしまうのはなぜかと思うのだ。これはまるきり別次元の人物の作品ではないのではと再考するきっかけになる。

 自分とは交流しようもない別次元の存在だと考えるのは、ある意味芸術を放棄することなのかもしれない。いまはAIがいくらでもそれらしいものを作り上げる時代だ。その作品に始めは驚き感動するが、どうも違うという直感を持つ。作品を作り上げるまでの濃密な時間を想像できない人工知能の描く作品は、何かが異なると感じてしまうからなのかもしれない。

 作品の向こうにいる作者の生活とか人生とか哲学とか、そういう形にしにくいものたちを私は絵画や彫刻の裏に見てしまう。恐らく自分が想像するものとはかなりかけ離れたものなのだろうが、少なくとも時間や空間、人間関係などの厚みを持ったものとして芸術作品は存在しているのだろう。

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