表情筋

 正しい名称は知らないが表情を形成する筋肉はとても複雑な動きをしているに違いない。わずかな表情の違いを私たちは読み取る。だからそれに応じて微妙な形を作り出しているのだ。

 人工知能で作画したアニメーションはかなり自然に近い動作を生成できる。ただ顔の表情となると何か違和感が生じる。説明が難しいがそうはならないという動きになる。手作業のアニメでもこの問題は完全には解決できない。我々はアニメーションにおける表情の型に慣れてきているので不気味さを感じないだけなのだろう。

 歳をとると表情が乏しくなるらしい。他人を見てもまた自分自身のこととしてもどうやらこれは当たっているようだ。表情筋にもそれなりの体力がいる。顔のトレーニングもやはり必要なのだろう。

哲学の重み

 翻訳アプリの精度が上がってきたので非英語の外国ブログを読むことが増えている。最近はスペイン語とアラビア語のブログを読んだ。さすがに機械翻訳の限界と思われる不自然な訳もあり、完全には理解できないが、それでも概要は想像することができる水準までにはなっている。

 それらのブログを読んでいて思うのは哲学の知識がかなりふんだんに使われているということだ。西洋や中東の人々はどうも哲学的な話をするのが好きらしい。自分たちの考え方の尺度、もしくは基準として先哲の考えを引用しながら論を展開することが多いように思える。

 日本の思想家の多くは西洋哲学を熟知しながらも、どこかで日本なり東洋なりの思想背景を感じさせる何かがある。それは自然を包み込むような包容力のようなものかもしれない。西洋の場合は異論に関しては絶対に許さないという感覚がある。こうした違いがブログのレベルでもうかがえるのは面白い。

 私の記事はそこまで深く考えられていないのは恥ずかしい限りだ。せめて日本らしいものの考え方を分かりやすく示せればと考えている。

合格した皆さんへ

 大学に合格した皆さんに申し上げたい。その合格は決して自分の能力だけで勝ち取ったものではない。学習が出来る環境を用意してくれた家族や周囲の人々に感謝すべきなのだ。

 嫌な言い方をすれば貴方よりずっと有能で有望なひとは必ずいるはずだ。彼らの中には学習しようにもそのような環境に恵まれなかったひとが少なからずいる。もし彼らが条件を勝ち取っていたら、貴方よりもっと素晴らしい何かを成し遂げる人が登場したかもしれないのだ。そのことを忘れないでほしい。

 貴方がたの中には将来的エリートとしての人生を歩む人もいるかもしれない。大学でさらに学び何かをすればの話だが。エリートになった時に考えて欲しい。限られた人しかエリートに慣れない国家と、才能ある人がチャンスを生かせる国家のどちらがいいだろうか。自分さえ幸せならばそれで構わないと考える特権階級ばかりいる状態と、自らも切磋琢磨しなければ後生をおそれることになる社会のどちらが健全なのか。

 自分だけよければいいと考えるエリートがやがて社会を壊す。そんな予感がする。すでに多くの兆候がある。決して間違ってはならない。大学に合格した人ならば分かるだろう。多くの栄華を極めた王族や国家、企業の衰退の原因を。

みんなマスクをしています

 今日は翻訳ソフトを使って読んでいる方にも誤解なく伝えるために易しい日本語で書くことにした。

 日本の政府の方針で昨日からは多くの場所でマスクをつけなくてよくなった。これまではほとんどの場所でマスクをつける義務があった。これを怠ると、その施設の従業員から注意をされることもあった。それがなくなったのだ。

 2020年ごろ、日本ではコロナウイルスに感染する人は他国と比較すると極めて少なかった。それが、2022年ごろからは感染者数が増えていった。日本人はマスクをつけ続けていた。ワクチン接種する人の割合は国際比較すれば恐らく高かっただろう。しかし、感染者は増え続けてしまった。だから多くの国民はマスクをつけ続けた。理由はよく分からないが、つけている方が安心と言われていた。その結果、ちょっとした問題も起きた。マスクをしていない人への行き過ぎた叱責だ。

 日本人がマスクをつけ続けたのにはいくつかの要因がある。その一つが厳しい自主規制である。法的に刑罰の対象になることはないが、マスクを着けていないという理由で注意されるという場所はかなり多かった。それは国民性の影響もある。

 日本人は周囲との調和を重んじる。だから、自分だけ他人とは違うことをすることは避けようとする。自己の主義を貫くことはしばしばわがままとされるのだ。だから、マスクは明らかに要らない場所でも外すことはない。昨日近くを歩いた公園でマスクを着けていないのは幼い子どもだけだった。

 もちろんこの時期にマスクをする理由はコロナウイルスだけではない。大量に植林されたスギやヒノキの花粉が飛散してアレルギー反応をもたらす。学者によっては日本人の大半がこの手のアレルギーを起こしやすい遺伝子を持っているらしい。だから、マスクを外すのはこのピークが終わる来月ごろからという人が多いはずだ。私もその一人だ。

 日本に訪れる方やニュースなどで日本の街角の映像が放映されるのを見た方はいまだマスクの集団が大半であることを不思議に思うかもしれない。だが、このような事情があるからであり、危険な訳ではない。念のため不織布マスクを一つ鞄に入れておくといい。何かと役に立つだろう。

チェコに球場を

ワールドベースボールクラシックは1次ラウンドが終わった。韓国の敗退は残念だが、いい選手が多いことは分かった。いずれ日本でもプレーしてほしい。一番注目したのはチェコ共和国の活躍である。プロ相手にあそこまで戦えるとは末恐ろしい。

チェコは野球をする環境には恵まれていないようだ。規格通りの球場がない。ならばこれを縁に球場を造る手伝いを買って出るのはどうだろう。何も始めから日本のプロ野球の球場ほどの設備はいるまい。大きさの規格が国際試合かできる規模にすればいい。資金援助が難しいならば、技術上のノウハウを提供するのはどうだろう。欧州ならば一国に1球場あれば国際試合ができるはずだ。

 設備さえ整えばすぐに強敵になるはずだ。そんな可能性を感じる試合だった。

つくし

 アスファルトに囲まれた中でわずかに残る露面に今年も土筆が育っているのを発見した。すでに伸びきって立派な形になっていた。

 この場所はもう何年も前から3月になると土筆が立ち、しばらくすると雑草に覆われ、気がついたときには草刈りされている。使い道もない空間なので放置され続けてきたのだろう。

 実はこの場所はこの後、道路が建設される予定になっている。周辺の家屋のいくつかが取り壊され、予定地である旨の看板が立ちだした。おそらくこの土筆の小景も近い将来見られなくなるはずだ。

話の展開

 あまりに忙しい毎日に慣れすぎてしまっているのか、現代人はゆったりとした展開の話をつまらないと感じる人が増えているように思う。

 韓流や華流ドラマを見始めた頃には筋の飛躍や人物設定の荒さについていけなかった。しかし、これに慣れると今度は日本や欧州の一部の映画などに見られる心理描写を丹念に行うストーリーがまどろっこしいと感じることがある。要するに、とまとめたくなってしまう。これは芸術の鑑賞としては残念なことなのかもしれない。

 明快なストーリーは娯楽作品ならばいい。でも、作品を通して人間とは何かを考えるにはやはりそれなりの順序と手順がいる。それを無視すると世界はかなり単調なものとなる。

 話の展開をじっくりと楽しむには受け手側の解釈力も要求される。そういう作品は理解されない可能性もあるので作られなくなっていくのだろう。でもかつての漫画の世界のような明快さばかりで奥深さにかける作品ばかりがもてはやされる現象はあまりいいものとは思えない。

薄霞

薄霞

このところ気温が高い。春の霞の空にソメイヨシノも開花を促されている。見上げれば細かい雲があるのに気づく。おそらくたくさんの植物の花粉と西域から飛来した黄砂も混ざっているはずだ。明日からはマスクの規制も解除される。何事も移り変わり止まることはない。春はそれを感じる季節だ。

12年目

 東日本大震災から12年が経過した。12年も経つとかなり記憶が曖昧になっている。それは経年の習いでもあるし、災禍を忘れ去ろうとする本能も関係している。でも忘れてはならないことである。

 いわゆる被災地ではない場所に住んでいる私にとってもこの震災は大きなものだった。ちなみに私が住む市内でもこの災害による死者は出ている。しかし、建造物の倒壊は軽微であり、ライフラインも何とか保たれた。福島第1原発の事故による放射能漏洩の恐れが連日報道され、過敏な人は国外に去った。しかし、多くの市民はなにもできず、出資を控えた企業の影響で、公共広告機構ACの啓蒙的なビデオが繰り返し流れたことを覚えている。

 地震発生の日は職場から帰れず、翌日からは途中駅までしか鉄道が動かなくなった。それでもパニックも起きず、食料の供給も途絶えなかった。私は当時からブログを毎日書いていたが、そのころの書いた記事を時々読み返している。焦りや怒り、そして根拠は薄いが希望を持つべきだというメッセージを書き連ねていた。

 12年経ってその後に起きた他地域での地震や、景気の悪化、政権交代、そして近年のパンデミックなどで震災の印象はかなり薄くなってしまった。しかし、南海トラフ地震の可能性は依然として高く、壊滅的な被害がでるとの予測もある。いざというときに何をすべきなのかをもう一度考えたい。

 震災から12年。もしあの時、自分が被災していたらと思うと複雑だ。その日の被害者が12年後に何をしている可能性があったのか。それを思うとその人の可能性が失われたことに大きな悲しみを感じる。そしてその代わりに生きているおのれのことをもう一度考えなくてはならないとつくづく思うのである。

画像生成

 AIによる画像生成の技術は見るものを驚かす。最近はキーワードを入力するだけで絵画や写真のように見えるものをごく短時間で作り上げる。知らない人が見れば人が描いたものと見間違うほどだ。

 おそらく私たちの画像認識というものはある程度パターン化している。それをコンピューターは膨大な映像データベースから抜き出し、それに近いものを組み合わせてくるのだろう。組み合わせの仕方にもある程度の型があるから、それを使えば自然に見える絵になる。チャットするプログラムと基本的には同じなのだ。だから、ときには奇妙な絵になってしまうこともある。

 今のところは、絵画や動画生成を瞬時に行うことは難しいようだ。それが可能になれば、言語プログラムと作画プログラムを連動させ、ホログラムのような表現で投影すれば、リアルタイムで会話する疑似人間ができあがる。ロボットテクノロジーが追いつけば形而下の世界に現れることになるのだろう。

 言葉でも映像でも騙されやすい私たちがこうした事態にどのように対処すべきだろうか。そのためにも問題発見力とメタ認知の力を身に着けさせるべきだろう。これこそが教育のやるべきことなのだ。