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疑問と反語

 反語という文法は疑問の中の一部であり、実際に使われる場面ではまったく同じ形を取ることも多い。何者かに答えを問うことを前提にしているのが疑問であり、それが自分自身の場合は反語であり、それ以外は疑問ということになる。

 反語は自問自答であり、あらかじめ否定的な回答を発問者が用意している。ならば、問う自分と答える自分が別々に存在しており、それらを使い分けていることになる。よく考えれば高度な思考形式だ。その不自然さ故か、反語には強調表現としての役割がある。

 現代語にもさまざまな反語表現があり、多くの人が使いこなしている。感情の深層を表現するときにもよく使われる。人に聞かせることを前提としていなかったのにも関わらず、実際には第三者に強い影響を与えるものになっている。

 自分に対する問いかけという行動を獲得できたのは人間の進化の大きな成果だ。しかるに、自分の考えを尊重せず他人のことばかりを気にし、常に多数派であろうとする現代人の傾向はやはり危険性をはらんでいる。反語表現どころか疑問も持たなくなったときに、人の運命は岐路を迎えるのだろう。

漢文訓読体が日本語を変えた

 漢文の研究者が書いた新書を読んだ。何となくそうではないかと考えていたことが学問的に説明されており、大いに役に立った。

 日本語の書き言葉は平安時代の半ばに一度完成する。和文と呼ばれる文体は学校の古典の時間に教えられる古典文法のもとになるものである。しかし、時代とともに和文では書き表せないものが増え、そこに漢文訓読体が影響する。外国語を読むための人工的な文体が、書き言葉のパーツとして使われだすのである。

 先日、戦国時代や江戸時代の武士階級が残した書簡を展覧会で読む機会があった。いわゆる候文で書かれた文章は、漢文訓読そのもののような部分を多分に含み、実用的な文章においてはそれが標準であったことが分かる。

 外国語を読むための言葉が自分の意思を表記する手段となったのは、それほど書き言葉の壁は厚かったのだろう。話した通りに書けばいいと思うのは実は間違っている。現代語でもたとえば「じ」と「ぢ」は書き分けるが、発音の違いはないし、大阪は「おおさか」なのに王様は「おうさま」と書く。助詞の「を」などはよく考えてみれば不思議である。いまでも話し言葉と書き言葉には厳然とした差があり、混同すると学識を疑われる。

 いま書いているこの常体の文章も私が普段人に話すときの言葉とはかなり異なる。かといって、話している通りに書くことには抵抗がある。ブログの世界では少数派の文体で書き続けているのは、私にとってこうでないと正確に書けないからである。気取りとかいう次元のはるか前の問題として。

 だから、漢文訓読体を手本にしていまの日本語の書き言葉の基礎が固められ、それが明治の言文一致運動などを経ていまの日本語の書き言葉になっているというのが事実なのだ。漢文の学習は外国の古典を読むことにとどまらず、日本語がどのように形成されてきたのかを知り、その成果を通して表現力を高めることなのだろう。

と思っているのですが

 ここ十数年で増えてきた言語表現に、「〜と思っています」というのがある。語法的にはおかしくはないのだが、意見を述べるところでなぜ自分の思いを言うのかと考え出すと違和感が募っていく。どうしてこのような言い方が頻出するようになったのだろうか。

 変な言い方をすれば私の言うことは真実かどうかは分からないが、あくまで私の思いはこういうことなんだと言っていることになる。ちょっと前に「それはあなたの感想でしょ」という切り口上があったが、まさに私の感想であって意見ではありませんと予防線を張っているようなものなのだ。

 日本語には昔から婉曲表現を好む伝統がある。断定よりも考えの提示に止め、判断は相手に任せようとする。だから「思う」という動詞には、thinkよりもfeelの意味合いが強いとされる。私はそのように感じているのですが、というのが「思っています」の中身であるようだ。

 朧化表現は必ずしも悪いとは言えない。何でも主張すれば良いという文化には必ず問題点が現れる。ただ、あまりにも思っています、思っているのでと繰り返されると、あなたの本心はどこにあるのですかと問いただしたくなってしまうのである。

TokyoかTookyooか

ローマ字表記法が見直される。日本語のローマ字表記には学校で教える訓令式と、英語の発音に近いヘボン式があるが、どちらも日本語の音を正確に置き換えることが難しい。

 訓令式は五十音図の概念で日本人が定めたものだが、タ行やザ行などは訓令式では外国人には読みにくい。アメリカ人のヘップバーン氏が考案したヘボン式は発音面は英語圏の人に読みやすいが、英語にはない長音の概念を表せない。小野も大野もOnoである。大谷さんがOhtaniと綴っているのは、後の工夫で加藤という野球選手のユニホームの背中にはKATOHとあったが、これは必ずしも海外からは読みにくいらしい。

 今回の改訂ではローマ字表記の基本をヘボン式としながらも、長音はマクロンをつけるか母音を繰り返すことが推奨される。KATŌかKATOOになる。個人的には記号付きでいい気がする。なおマクロン付きの文字はiPhoneの場合は該当する文字を長押しすると候補が現れ選ぶことができる。

英語圏で嫌われるnとbの連続は今回は考慮不要とのこと。また人名や地名など定着していたりこだわりがあるものは変えなくてもいいという。TokyoやOsakaはそのままでもいいということだ。

私の名前にも長音があるが、当面は従来の表記で、余裕のある時はマクロンをつけようと考えている。

思ってもみない

「思ってもない」という表現はその後に期待していなかった幸運が続くのが普通だ。ただ、これを不幸の形容に使う例にせつした。誤用といえばそれまでだが、そのくらい想定外のことが起きているということだろう。

外来語の扱い

 大学共通テスト国語の3問目はいわゆる新傾向問題であった。数年前の試行問題のときは随分批判されたが、今年はそれに比べると穏当であった。ただ、時間を10分延ばしても全体的に時間が不足しており、相変わらず熟考より、処理能力が求められている。

 新傾向問題はいわゆる国語表現の分野に関わる。ある人が外来語の使用状況を調査することにより、自分なりの意見を述べることにしたという想定で、図表の読み方や、文章構成についての考えを求めるものだった。問題そのものは受験勉強の専門家におまかせしよう。

 この中で中心的に扱われているインフォームドコンセントは、当初確かに分かりにくくなぜそのまま使われるのか分からなかった。医師による病状の説明、患者もしくはその関係者の理解、今後の処置についての合意という複数の行動が一つになった概念であるためにうまい訳語が見つからなかったのだろう。問題文中に示された納得診療というのも、正確には概念のすべてを表してはいない。

 日本語は外来語を取り入れやすい構造になっている。漢字やカタカナを使ってそのまま表音表記し、助詞の働きで文中になじませることが可能だからだ。動詞や形容詞などに変形することもできる。だぶる、さぼるなどにはすでに外来語の趣きはない。ググる、トラブるには語源の根っこが見えるが、それに慣れるのも時間の問題だ。さらに万能のサ変動詞をつければ何でも動詞化できる。ショッピングする、リードする、ネットするなど何でも可能だ。     

 日本語環境は外来語の導入に寛容であり、その和臭化も迅速におこなわれる。ただ導入期には混乱も多く、しかも導入する言語が飛躍的に増えている。すると通じない外来語ができる可能性が増える。ビジネス界ではアジャイル、コンプライアンス、スキームは常識かもしれないが、彼らがアンフォルメルやインスタレーションの意味を理解しているかは分からない。勝手に輸入された言葉が仲間内以外では通じなくなっている可能性がある。

 外来語の扱いは何でも受容する日本の重要な問題であり、これからも考えていかなくてはならない課題なのだ。

頼りない叔父さん

 大学共通テストの文学的文章の内容は、かなり痛烈な社会批判に読めてしまった。家族から非難され続けている叔父さんを子どもの視点で捉えるという内容だ。

 この叔父さんは定職につかず独学で芸術作品を作り続けている。どうもそれがあまりに独自過ぎるので家族からは無駄なことをしているとしか思えない。語り手の母はこの男の姉なのだが、面と向かって厳しい非難を続けており、男の母、つまり語り手の祖母は幾分同情の念をにじませながらも、男の行動を容認できない。

 幼い語り手にとって叔父さんという大人が全否定される姿を見るのはいたたまれないが、かと言ってその理解者にもなれない。生産性が低く、社会的通念に反するこの男の居場所は、自ら造った小屋の他にはなさそうだ。

 でも、この男はよく考えてみれば、非常にクリエイティブであり自分の人生を自己の才能で切り開こうとしている人物だ。今のところ社会的評価はないが、自己実現ができている。現代の日本にはこうした非組織的な人間の居場所はない。生き甲斐とか生活の感触より、どれだけ収入が得られるか。しかもそれを時間で割って生産性なるマジックワードで括ってしまう。そういう尺度が幅をきかせている今日にこの叔父さんは無用の人と分類されるのである。

 問題文として切り取られた部分だけで読み取るとこんなふうに読めてしまう。叔父さんは怠惰なのではなさそうだ。他の多くの人とはやり方が違うのだ。そういう人に寛容になれない現代社会の息苦しさを私たちは共有している。

日本語の文章の可能性

 日本語の文法構造上、文末の形が固定化しやすい。です、ますを使えばほとんどが「す」音で終わるし、過去が絡むと「た」音が並ぶことになる。それを単調と考えるのか、押韻のような美しさと考えるのかは感性の違いだ。

 私自身は何も考えていないつもりだったが、これまで書いてきた文章を見ると、文末の音の繰り返しを避けている。繰り返しがいけないわけではない。ただ、変化をつけると文が書きやすい気がするのだ。ほとんど気のせいである。

 日本語の文章は音韻的な単純さと引き換えに、表現方法、表記方法などが他言語と比較して可能性が高い。複雑なニュアンスも表しやすいのではないか。文章を書きながら、その可能性をもっと活用してもいいと考えている。

存続

 古典文法に存続の助動詞がある。「たり」や「り」がそれで〜ている、などと訳す。この「り」は元は「あり」であって、そういう状態で存在しているという意味を持っていたのが、状態の存続の意味として使われるようになったらしい。過去の助動詞の「けり」もこれに関係するようだ。

 存続という概念は実は結構高度な判断からなるのではないか。今あるものに時間的な幅を意識して把握するのは手続きがいるように思う。

回転寿司店の名前

 不景気な外食産業業界にあって回転寿司店は熾烈な競争をしているようだ。親の家がある地方の小都市にもこの業界大手のチェーン店の支店がある。それもかなり近接している。そこそこの集客はできているようだが、地元の個人のすし屋にとってはいい迷惑だ。もっとも求める客層は違うはずだが。
 さて、売り上げ規模から考えると1位はスシロー、2位はくら寿司、3位ははま寿司である。ちなみにこの町には4位のかっぱ寿司、5位の元気寿司の支店まである。おそらく多くの地方都市が似たような状況であり、寿司はやはり国民食であるであることが分かる。
 さて、店の前に大きな電光看板があるのを見て気づいたことがある。くら寿司はKURA SUSHIであり、はま寿司はHAMA-SUSHIなのだ。ほかも寿司の部分がSUSHIになっている。スシロー以外は日本人なら「ずし」と読むにも関わらずである。ちなみにはま寿司はもともとHAMAZUSHiと表記していたが、今の表記に改めている。
 容易に想像がつくように英語表記を読む対象となるのは外国人であろう。彼らにとって日本料理はsushiであってzushiではない。だから、実際の表音をあきらめて外国人にとって分かりやすくしたのだろう。調べてみると上掲の5位までの全てにSUSHIが入っていることになる。スシロー以外は「sushi」とは発音しないのにも関わらず。
 外食産業は潜在的な人手不足になっており、従業員に外国人を雇用することも多い。寿司店に外国人を雇用するのは抵抗がかつてはあっただろうが、いまはそんなことを言っている余裕はない。そのうち外国人の板前の作った回転寿司を外国人がこれぞ日本の味と称賛するときが来るのだろう。いやもう来ているのかもしれないが。私は何人が作ってくれても技能さえ素晴らしければいいとは思う。