歌徳説話

 日本の古典文学の中で和歌は特別の意味を持っている。和歌を歌うことにより事態が急激に変わることが多い。諸事情があっても和歌が詠まれることによって解決するという話がたくさんある。これを歌徳説話ということがある。歌には力があり、それが周囲の状況を一変させる。対象は人間だけではなく神仏や地霊といった超自然的存在にも及ぶ。それだけ特別なものという意識があったのだろう。

 和歌は短詩形文学であるために限られた情報しか盛り込めない。制約下に作者は言葉を選び、読者も隙間だらけの情報の間を埋めながら表現世界を再現するしかない。そこには厳密な論理性は期待できず、作り手も読み手もあらゆる段階で情緒的な読みが求められることになる。

 現代は何でも理詰めであることが求められ、曖昧なものは価値が低くみなされることが多い。歌が事態を解決するというのはファンタジーの域の考え方になる。情より理であり、文学は不完全な情報と分類されてしまう。そこで、歌の持つ力も忘れられつつある。

 しかし、韻文のもつ力を私たちは手放してもいいのだろうか。なんでも説明可能かように錯覚して、実は伝えられていない様々な情報を無視しているのは間違いではないだろうか。本当は和歌でしか伝えられないこと、文学作品でないと表現できないものがあることを私たちは忘れているのではないか。歌徳説話を読むたびに起きる違和感は私もまさに歌の力を理解できなくなっていることを意味していると思う。

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