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言い換えのための練習

 「~とはどういうことか」という設問は現代文では最も基本的な形式だ。これは傍線部の意味を別の言葉で置き換えて説明せよという要求である。答え方にもいくつかの段階があり、最も基本的なものは傍線部以外の本文の中から、言い換えにふさわしい部分を切り取ってきて形を整えて答えるというもので、一種の抜き出しに近い。この方法が使えないときがある。抽象度が高くて抜き出しでは何を言っているのか分からない場合や、逆に具体例しかない場合も抜き出しでは対応しにくい。そういう時は本文で使われていない語句や表現を使う必要が出てくる。字数が制限されている時もそういう必要が出てくる。

 つまり、言い換えのレベルが幾層かあり、その深層に達するものを解く力が必要なのだろう。そのためには語彙力、文法力、表現力などのあらゆる文章力が求められる。その準備として中学生あたりから、意識して言葉の置き換え練習を始めるべきだろう。今の世代の若者は検索すれば答えが見つかるかのような幻想を持っている。その意味では問と回答が一対一になると考えられており、みずから答えを作り出す作業が飛ばされていることが多い。そこで、まずは自分の力で何とか言い換える練習を積ませることが必要だろう。

 一歩目は要約という作業だ。文章の中で意見と具体例とを分け、意見の部分をつなぎ合わせて文章を短くするという基本から始める。字数を制限せず、自由に書かせるところから、徐々に字数を絞っていく。短くなると文中の言葉のパッチワークではうまくいかなくなる。そこで、同じ意味で別の言葉に置き換えさせる練習が次に続く。そして最終的には100字以下にまとめ、さらには1行の短文にまでする。こうした練習を続けていくうちに置き換え能力が鍛えられてくるだろう。

 要約する力は日常的な生活でも必要だ。最近は人工知能も要約の機能がある。このWordPressにも本文要約機能がある。かなりのレベルで要約をしてくれる。ちなみにここまでの要約をさせると以下のようになっている。

現代文における「言い換え」の重要性が強調されている。基本的な言い換え手法の紹介に加え、抽象的な表現の理解や語彙力の向上が求められる。特に言葉の置き換え練習は中学生から始めるべきで、要約能力も日常生活に役立つ。

 二番目の文は少々あやしいが、大筋は一応できている。ただ、おそらく要約の生成の方法は人間のややり方とは異なるのだろう。我々は意見と用例を分けて考えるが、人工知能は意味に踏み込まず形式的な面から不要なところを丸めているようだ。この人工知能にできない能力こそ国語力の本質であろう。これからの国語能力はここに注目する必要がある。

自分のことばで語る

 自分のことばで語る力はこれからますます必要になる。もっともことばほ本来他者との交換によって成立するから自分のことばというものは厳密にいえば存在しない。他人と意思疎通可能な中でいかに自分なりの工夫ができるかということになる。

 こういうことをいうと必ずもはや人工知能が文章を書く時代だからという人がいる。よく考えてほしい。文章を書くためには他者の書いた文章を理解できることが必要であり、他人の話を理解する力が不可欠だ。機械任せにすれば文章は書けなくなるし読めなくなる。その負のスパイラルが繰り返されれば、私たちの精神生活は貧困に陥る。

 だから、いかに下手であっても自分で説明することは必要なのだ。そのためにはたくさん話し、書く経験を増やさなくてはならない。しかもそれは阿吽の呼吸では伝わらない相手に対してである。

 教育の現場にいる身として直ぐにできることは生徒のアウトプットを増やすことだ。その型を教え、さらにその上で自由に語らせる。性急に正解を求めず、生徒個人内での完結性、生徒同士の意思疎通を重視する。そんなところだろうか。ことばは思考の基本的な材料だ。教育をおろそかにしないことがこの国、世界のためになると信じている。

生徒は手書き、教員は…

 先日も書いたが生徒の国語力を上げるには究極的には手書きの文章作成をいかにさせるか。そして、それを継続的に実施し、指導するための評価を行うかにあると考える。デジタル機器の教育への導入で間違っているのは、特に国語教育においては「書く」ことを疎かにしたことにあると考える。

 私たちの身の回りにはもはやスマホやキーボードがなければ文章が書けないという人が少なからずいる。紙に書くという行為が億劫だからという理由以前に、考えたことを順序だてて文字にしていくことが難しくなっているのだ。デジタルであればテンプレートがあるし、語彙レベルでは予測変換もする。また人工知能を使えば文章すら組み立ててくれる。マイクロソフトは「下書き」を手伝うという設定にしているらしいが、実際にはほぼ完成形の文書とみてそのまま使う人も増えているのではないか。そうなるとますます文章が書けなくなっていく。

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 ならばどうしてもデジタル入力をせざるを得なくなる大学生になる前に、初等中等教育では徹底的に手書き文章を作成する訓練を積むべきである。これが冒頭に述べたことである。インターネットで資料を検索したり、図表を作成したりすることは機械任せにしなければならないこともあるだろう。しかし、文書作成能力に関しては譲ってはならない人間の能力である。

 そこで問題になるのが、教員側のこの教育に対する対応である。生徒から大量に提出される紙の答案にいちいちコメントを書き入れ、改善点を指摘していくのにはかなりの労力が要る。例えばそれを学期に一度やるとか、月一度は実施するといった程度でも負担感は大きい。そこで外注するという方法が出てくる。でもこれでは返却までに時間がかかることや、家庭にさらなる出費を要求することになり問題点が大きい。

 解決案として考えているのは教員側の方はデジタル化で対応するということだ。答案をスキャンし、その上にデジタルで書き込む。コメントはある程度使いまわしも許容し、観点を決めて評価する。そして、それ以外は見ないことにする。例えば、今回は主述の一致をみると決めたら、それ以外の内容的な面は多少目をつぶって採点する。逆に、表現面の工夫については問わずに着眼点だけを採点するといったようにメリハリをつけるというやり方だ。もちろん表現と内容は相関するので結局両方を評価することになるだろう。

 また例えば400字以上の作文の添削を継続的に行うのは無理だとすれば、200字以下の文章を書かせる課題を続けることも手である。目的は文章で答えることを習慣化させることなのだから、添削の正確さは実は二の次なのである。大切なのは練習を続ければ文章作成がうまくなっていくことを実感させることで、単なる点数化ではない。

 生徒にはあくまで手書きで書かせ、教員はデジタルの利便性を使う。この方法を実現するためにはスキャナーや、タッチペンで入力できるシステムなどが必要だが、生徒の国語力向上を考えればやるべき投資ではないだろうか。生徒が端末を持っているならば、教員の添削結果をデジタルで返却するのでもいい。できれば紙に出力した方がいいが。

 ちなみに私も手書きの文章能力の衰えを実感するものとして、ブログを書く前にノートに書きたいことを殴り書きすることがある。この記事もその末に書いたものだが、原型とは全く違う内容になっている。でも、自分の脳と手だけで書くことを先行することには意味があると確信する。

要約する人工知能

 最近のアップデートでウェブメール送受信のアプリに内容要約の機能がついた。そのことに気づいたので、試しに使ってみると、そこそこ使える。会話体のくだけた文体でも、要点をまとめていた。人工知能にとって要約することはある程度は可能らしい。

 でもそれは、明確な目的意識をもって多くの人が考えそうな結論の文の場合であって、感情の揺れや細かな情緒が含まれると誤読してしまうようだ。当たり前だが機械は文面通りに解釈する。批判精神やアイロニーなどが隠喩などを通して書かれるとそれを逆方向にまとめてしまう。

 そこで国語の教員的には、曖昧な表現を避け、明確な文章を作成しましょうということになる。現代の場面に合わせるなら、AIに誤読されるような文章はいけない。簡潔にして明解、誰にでも理解できる文をかくのですと。

 密かにもう一人の自分が立ち上がる。誰にでも分かる文章なんて価値があるのか。その人しか書けない味わいこそが大切だ。それが書けなくなったらいよいよ人間なんて要らなくなるぞと叫んでいる。ただし声のない叫びだ。

 文章には色々な目的がある。用件や意見を伝える文章はその第一だ。でも、それだけではない。不定形で捉えどころのない感情を何とか言葉にして表すのも文章だと思う。それを忘れると文章は作業のためのプログラム言語に近づくのではないだろうか。容易に機械で要約できない文章にも価値があるといいたいのである。

注の話

 現代文の問題を解く際に、本文を読む前に注を読めというのは受験生にとっては常識のはずだ。もし知らなかったら今からそうすべきである。

 注は何のためにあるかといえば、それを理解できなければ設問に答えることができないだろうと、出題者が考えた上で付けている。だから、逆に言えば注は解答へのヒントなのだ。

 そのような視点で問題を見直して欲しい。何でこのような注釈が必要なのか。大体それは設問の主旨と絡んでいる。論文や文学書の注は、本文に盛り込めない脇の知識であったり、自説以外の考え方の紹介であったりする。だから、大抵の場合、注を読まずに読み進められるし、読むとなかなか本文の読解が捗らない。だが、現代文の問題の場合は逆で、注を読まなくては本文が読めなかったり、作問者の意図を取れないことがある。

 一冊の本を読破するのと現代文の一問を解答するのは、読解力が必要とされる点では共通するが、実際の作法には大きな違いがある。大して読書量がないのに国語の問題はできるという人はこの点が分かっているか、問題読解に偏った才能を持っているのかもしれない。

読解力を身につける方法

 文部科学省が今年4月に実施した2024年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果を公表した。中学校の国語の平均正答率が過去最低の成績になったという。数値にどれほどの意味があるのかは疑問がある。テストの正答率とか偏差値を教育関係者は使いたがるが、数学的な意味は果たしてあるのだろうか。テストの内容も母集団も違うものを比べても参考程度にしかならないと思っている。数学に詳しい方にはご教示いただきたい。

 最低かどうかは分からないが、読解力の低下は経験的に気になることがあることは確かだ。その原因が読書量の低下や、デジタルデバイスの長すぎる使用時間、短時間で答えを求めすぎるテストの増加などにより、子どもたちがしっかりと読み取ることをしなくなったことにあるのではないか。これも科学的な根拠があるわけではないが、可能性が高い仮説であるとは考える。

 読解力を身につけるためにはどうすればいいのか。一般的に読書をすればいいといわれるが、そもそも読解力のない人は読書をしない。日頃走ることがない人に速く走るためにはとにかく走れというのと同じような気がする。まず柔軟体操をし、ジョギングをして徐々に体を作っていく。そういうランニングと同じように読解力を身につけるためにはどうすればいいのか。

 私はまず読む前に語彙力を増やすことが必要だと考える。いわゆる書き言葉(文章言葉)で用いられる言葉は、意識的に読まなくては身につかない。新聞のコラムや、軽めの文化的な記事などを読むことで文章言葉を身につけることをしていくのがいいと考える。短い文章で行うべきだ。

 次に、それらの記事の内容を文章言葉で簡単にまとめる練習をしていく。要約というとハードルが高いが、そこまでまとめなくてもいいのでどんな内容なのかを書くといい。これによって文章の大意を掴む方法を身につけていくといい。メモ帳などに数行でまとめると達成感も生まれる。

 次は、これは誰でもできるとは限らないが、読んだ内容を他人に話すことにあると考える。読んだ内容を他人に伝えることで内容の整理ができる。他の人の話を聞けば自分が気付かなかった内容を知ることもできる。読解力は最終的には他人の考えを読み取ることにあるのだから、一人で完結する学習法よりは複数で行った方がいい。これは学校教育が最も効果的に行える段階だ。

 次は、自分で読んだ内容を記録していくことだろう。書評までいかなくてもいい。簡単な読書感想文で構わない。それをとにかくためていくのがいい。インターネットの読書記録サイトも有益だ。私の場合はブクログという読書記録サイトを使用しているが、こういうサービスを利用して読書をする励みにすることは大切だろう。

 入試の現代文のテストは読書量がなくても高得点を取る人がいる。いわゆるテストの答え方にはコツがあり、博学な知識は必ずしも必要ではない。出題形式も型があるので、それらを覚えていけばある程度通用する。このようなテストで点を取ることを読解力と考えるのならば、入試参考書を繰り返し学ぶ方がいいだろう。私としてはあまりお勧めしないが。

 読解力の低下は個人の読書経験の減少という問題が大きいが、そもそも読書にさほどの価値を見出さなくなった現今の風潮も大きく影響を与えていると考えられる。検索によって断片的な知識を得られればよいとか、生成AIが導く答えで満足しているとますます読解力を得る機会は減っていかざるを得ないだろう。残念ながら世の中の動きは人の読解力を奪う方に流れている。だからせめて初等中等教育では読解力の基礎を固めることに注力していくべきだと考えるのだ。

自分の言葉で表現しろという前に

 最近よく耳にするのが理解するためには自分の言葉で表現することというのがある。用語や公式を断片的に覚えるのではなく、自分の言葉として捉え直せるかが肝要だということだ。この点については同感である。

 ならば、言語表現力を高めなくてはならない。自分の言葉が貧弱では表現できる範囲が限られる。基本的な言語操作能力を向上する必要がある。そのために家庭での会話を疎かにすべきではない。伝えるべきことは言葉で伝えることを日頃からやるべきなのだ。

 ただ家族には言葉でなくても伝わることが多い。いちいち言葉にするとかえって関係が悪化することさえある。次に注意すべきなのが学校の教員たちなのだろう。教えることが一方通行にならないよう学習者の反応を引き出し、その内容や表現の仕方に注目していく必要がある。場合によっては何と答えたかより、どう答えたかの方を評価すべきなのだ。

 自分の言葉で言いなさいという前に、表現の仕方についてもっと教えるべきだろう。それが初等、中等教育の教員の役目であることは間違いない。

ノートの取り方模索中

 ノートの取り方をいろいろ考えている。私自身のノートもそうだが、生徒諸君に提案することを前提にしている。様々なノート術の本や動画サイトを見て、実現かつ持続できそうな方法を考えているのだ。凝ったレイアウトは始めはいいが、その都度線を引くのは続かない気がする。

 ある人の意見と重なるところもあるが、今考えているのは以下の方法だ。

  • ノートは必ず見開きで使い左ページの左端4〜5センチは何も書かない。
  • 習慣化するまでは線を引いて仕切ってもいい。
  • 左ページの残りの部分を授業や講演のときのメモ欄にする。
  • 右ページはメモを取った情報を短文にまとめ直すために使う。
  • さらに書き足したいことがあればここに追加する。

 これは話を聞きっぱなしにせず、自分の言葉で置き換えることを日常化するための手段である。

 現代文のノートを思い出していただきたい。教師が黒板に書いたことをただ写すだけで、後で読み返してもなんのことか分からない。授業では分かったつもりになっても時間が経つと何だか曖昧になっている。それは教師がまとめた言説を表面的に写しただけで本当は理解できていないからだ。

 理解するためには自分の言葉で説明できる必要がある。その過程をノートで可視化しようという訳である。

 さらにこの方法は他人に自分のまとめ(言い換え)が正しいのか検証する段階がいる。ノートの右ページを相互評価し、過不足を点検する機会を設けたい。これを習慣化させることができれば国語力の向上につながるはずだ。

まとめる力

 恐らく教えなくてはならない国語の力に要約力がある。情報化社会では溢れるほどの資料が一瞬で集まるがそれがどんな意味を持つものなのかを見抜くのが要約力だ。いろいろ言っているが要するに何が言いたいのかを見抜くのが大事なのだ。

 そんなのは生成AIでもできると言う人もいるだろう。でも、機械ができるのは統計的に高い確率の言葉のつなぎ合わせに過ぎない。目的に沿って意味を見出すことは人間の能力によらなくてはならない。

 学校教育でそれを教えられているのだろうか。末端の知識に拘り過ぎていないか。あるいは図式的な読解術を金科玉条としていないか。形を教えるだけで出来上がるものを見届けていないのではないか。そういう反省からやり直したい。

漢字の学習

 漢字を覚えるための方法はなんだろうか。最近のこどもの傾向として漢字が書けなくなっていることは大方の賛同を得られるはずだ。私はこの主因をデジタル機器の普及にあると考えている。スマホを使い出したあたりから、私たちは漢字の能力を落としていった。

 複雑な字形の漢字は常に書き続けないと忘れてしまう。漢字の部首とか、成立過程だとかを知っていれば誤りは減る。でも結局は書いた回数が漢字力を支えるのだ。これは手を動かすしかない。

 子どもが喜んで漢字の練習をするのは小学生までだろう。ならば中学生以上はどうするべきだろうか。漢字を書かせる習慣を無理にでも作るしかない。それを設けるのが国語の教師の役割の一つとなる。

 漢字の添削をすることも実は大切だ。「畏」「託」など書き間違えやすい文字は他人に指摘されるまで気づかないものだ。「完璧」がパーフェクトウォールになっていたら、直していかなくてはならない。地道な作業だがやるべきだろう。