文明を滅ぼすなどという元首は

 トランプ大統領のイランの基盤インフラへの攻撃はとりあえず回避されたようだ。彼の発言はいわゆるハッタリであり、信用するに足りないが米国大統領の発言となれば冗談にはならない。そのために命を奪われている人が多数いることを思えばすでに戦争犯罪を犯しているという解釈も成立する。

 文明を破壊するという発言は過去にも例があるらしい。ただそれを発言した人の顔ぶれを見ると、多くはポピュリズムの権化であるか、一種のアナーキストばかりである。それを現代のアメリカの大統領が国会ではなく、牽制されることのないソーシャルメディアに連投してしまうことが大問題だ。これまでの振る舞いにTACOという命名がなされるほど、信用性は低い。単なる金持ちの戯言ならぎりぎり我慢できるが、そこに権力が加わっている。

 アメリカでもトランプ氏の支持率は下がっているが、それでも強力な支持者がいる。その中には大統領の政策によって生活のレベルが低下している人も含まれているようだ。その詳細は分からないが、民主主義国家の機能が果たされることを祈らずを得ない。ころころ変わる日本の首相も問題が多いが、一度選ばれたらなかなか更迭できないアメリカの制度も深刻だ。アメリカファーストのはずが、国際的信頼度の低下という深刻な問題を引き起こしている。

 日本の政府はかの老人とうまく付き合わなくてはならない。機嫌を取りつつ、できないことはできないといい続けなくてはならない。現場の政治家や外交官は大変だろう。ただいまの状況は誰も敵にしないことが何よりも大切だ。それができるリーダーを私たちは求めている。

ハナミズキが咲きだした

 桜も散り急ぐ時期になりつつある。早くもツツジの早咲きの花が咲き始め、通勤途中の街路樹のハナミズキも開花し始めている。アメリカヤマボウシはソメイヨシノと交換された日米友好関係の印である。

 ハナミズキを見るとどうしても今のアメリカ合衆国の迷走が気になって仕方ない。超大国の誇りはどうなったのだろう。再び偉大なアメリカにするという大統領のスローガン自体がすでに凋落していることを自認している。せめて、品格を保ちリードしていけばいいのだが、どうも小狡いディールで世界を振り回す国になってしまった。

 ハナミズキが初夏を彩る花であるように、アメリカにも世界平和と秩序の中心になっていてほしかった。どうも覇権は移ろいつつある。混乱の時代にならないように、国際社会ほ叡智を絞らなくてはならない。

すぐ辞める新入社員

 すぐに辞める新入社員が増えているという。入れてしまえば支配下におけるという過去の通念は今の世代には通用しない。

 新入社員がすぐに退社してしまうというニュースに接した。私の世代では無理をでも企業の風土に順応し、できるだけ長く雇用してもらうことが何よりも優先された。終身雇用がほぼ標準であった世代にとって、入社直後は忍耐の時期であったのだ。

 ところが、最近は理不尽な新人待遇は論外だが、入社前の雇用条件が守られない場合は退職するという選択肢を取る人もいる。退職に関する事務手続きを代行する業者もいるからハードルも低い。

 企業側としては人材確保は経営の生命線であり、代替の人材をリクルートするための労力と経費を考えるならば、流出は防がなくてはならない。職場の魅力、労働の価値をアピールしなくてはならないのである。「お前の変わりはいくらでもいる」と豪語できる企業は意外に少ない。

 ならば、経営者は労働環境の改善に努めるべきだ。そのための資本投入は欠かせない。さらに金では解決できない社員への精神的な働きかけももとめられる。日本の企業はこの方面では優れていたはずだ。効率性ばかり追求したあまり、情の要素がやせ細ってしまっているように思える。

 辞めていく新入社員を止めることはおそらくできない。彼らは外部の現状をすぐに知り得る。自分の毎日が世界の常識だとなど思うことはないのである。不当な扱いには、すぐに法的な手続きをとって対抗する用意ができている。

 私が今の時代に新人だつとしたら、やはり少し違った職業意識を持ったかもしれない。

ノートの取り方

 学生時代、指導教授の講義をなるべくそのまま筆記しようとした。速記法は知らなかったので、自己流でさまざまな工夫をしてとりあえずノートになぐり書きして、後で清書した。録音することもあったが、そこから書き直す時間は学生時代だからこそできたのだろう。

 いまは大きく考え方を変えている。講義のメモは講師の話通りには取らない。そこから得たことを、自分に役立つようにアレンジして取る。だから、しばしば批判的になり、講師はこう言ったが何かおかしい、といったように書いてしまう。私のノートからは講演の再現はできない。むしろ感動と批判の記録といった感じだ。

 人工知能に講演を録音すると文字起こしのみならず要点のまとめや要約などをしてくれるらしい。人間の発言をパターン認識すれば可能なことである。私たちの思考は大抵同じような流れを持っているから、それを類型化すれば要約のようなものは機械的にできることになる。

 だからこそ、これからのノートは人工知能にはできない、いわば自己本位の方法で行うべきなのだろう。講演を批判的に聴講し、役立ちそうなことを予測して記録を取る。その意味では偏見に満ちたノートテイキングが必要なのだと考えいる。

見たままの絵は難しく

 自分が見たままの姿を描けるのはやはり才能だろう。私が何かを絵に描こうとすると、既存のイメージをもとに描いてしまう。例えば山は三角形のバリエーションで、月は丸かその満ち欠けの姿、花は正面から見たような花弁の配置である。

 絵の初心者に手っ取り早く描画法を教える動画を見ると、大半は対象を図式化、パターン化して描くことを勧めている。見たものをそのまま描くのではなく、それらしく見せるための技を伝えているのだ。

 例えばゴッホの作品を見たとき、技法のよるものとは言い切れない。彼にとってはやはりあのように見えていたのではないかと思わせるのだ。その精神状態が異常なものであったしてもそのように見えたことを絵画に変換できたのはやはり天才なのだろう。山下清についても同じように考えられる。

 見たままの映像が描けないのは、私たちの感覚には物事を記号化して、小異を目立たなくする認識の仕方が身についているからだと思う。そのおかげで日常の複雑さから免れ、正気を保てているのかもしれない。

 私にはその才はないが、せめて才能がある人の作品を見出していきたい。

春の雨

 今日は朝から雨が降り、午後からは本降りになった。春雨というにはやや強すぎて濡れていこうとは思えない程度だった。このところ天候の変化が激しく、一日のなかでも気温差が激しい。昼は汗ばむほどだが、夜になると冷たい風で凍えている。春の雨は柔らかで穏やかというのが通年だが、今日はそのイメージから外れたものだった

月旅行の夢

 月面に再び人間を送り込むアルテミス計画が進行中という。幼少期にアポロ11号の月面着陸のニュースに心躍った。今考えると低スペックなコンピュータをつかってよくも月への往復を達成できたと思う。緻密な計算と過酷な環境に耐えることが必要な宇宙旅行はアニメでみるほど単純ではない。

 子どもの頃は近い将来、人類は月面に基地を造り、居住区もできて多くの人が移住するようになるという話をよく聞いた。その描かれた未来はまだ達成されていない。でも、こんなにも地球が住みにくくなると月移住もやむを得ないと思う人も出てくるのだろう。

 かぐや姫もウサギもいなそうな地球の衛星に私たちは多くの夢とロマンを託してきた。これからもそれは変わらない。ただ、その漠然たる理想郷が科学の成果で侵略されていくことは間違いない。私の人生が終わるまでに月旅行は実現しないだろうが、その先はどうだろう。

平成レトロ?

令和となって8年経つと平成も懐古されるべき過去になってゆくようだ。私のような世代にとっては平成年間は通り過ぎた通過点であり、懐古すべき対象とするには最近のことに感じてしまう。

 戦争も戦後の発展もあった昭和時代に比べると、戦争こそなかったものの阪神・淡路大震災や東日本大震災のような大規模な自然災害に見舞われ、経済的な大停滞時代だったのが平成の特徴と言える。努力すれば必ず報われると信じてきた昭和の信念は、報われることのない場面をいくつも積み重ねた。天災や人災にさらされ決して平穏ではない時代だったと言える。

 最近、平成レトロという言葉を聞くことがある。あまりに近い懐古だと思うが、それほど世の中の変化は激しく、また現状への不満があるのだろう。

所属意識

 幼い頃に何度も転居したためなのか、私には土地に関する所属意識が薄い。所属意識という概念を持つ故郷と言える場所がなく、それを切望しているのに一向に現れないのである。

 そんな私にとって、最初の職場は地方都市ながら自らの所属意識を持てそうな場所であった。いろいろ足りないことはあったが、その不足分に自らの存在意義を感じることができたのである。できればそこにいつまでも暮らしていたかった。

 それが職場の事実で中断され、再び流浪の身になる。東京での生活はかなり長くなったが、いまだに客人として生きているという感覚のままだ。先輩たちのいう「骨を埋める覚悟」が持てていない。これは多分に情緒的なもので、気の所為と言われれば反論は時間がかかる。

 ある場所に対して執着しろとか献身的に振る舞えというのは間違っていると思う。愛国心とか、郷土愛といったものは内発的なもので他者から強要されるべきではない。ただ、その内発的意識が生まれないのはやはりそれなりの問題がある。私たちは愛国心なり、郷土愛といったものと、コスモポリタンとの調和を常に意識する必要がある。現在はそれが自己愛に傾き過ぎているので分断が進行している。でも、世界を等閑視するのはやはり問題がある。

 自分の生活圏を大切にしながら、その生活圏を成立させている周辺世界への目配せも忘れないのがこれからの世界を生き抜く術となる。私はこれからも「旅の人」たる生活を続けるだろう。臨終間近にあるいはこう思うかも知れない。いたるとろろに青山ありしと。今のところはそのような境地には至らないけれども。

自転車運転手の受難

 今日から自転車に対する交通規制が変わった。身近な乗り物である自転車が車両として扱われるようになり、罰則規定も強化された。

 この規定は交通安全を促進するには帰依するだろうが、かなり理想的、もっと言えば非現実的なものであることが残念だ。自転車の走行が想定されている車道脇は路面状態が必ずしもいいとは言えない。水捌けを良くするため斜面になっていることもあり、マンホールなどが設置されていることもある。

 さらには路肩駐車がある場合はそれを回避するために中央に近づかなくてはならず、自動車やバイクとの接触や衝突の危険性が増す。自転車以外の運転者にも自転車への配慮が義務づけられ、罰則規定もあるようだがその周知はなされていない。

 恐らく警察はこの罰則を運用面で制御するつもりでいるのだろう。ただ、例外や除外事項が増えると規則の存在意義が失われる。訴訟にでもなれば、非常に厄介な事例になりそうだ。

 そもそもこの法律を成立させるためには、自転車専用レーンを整備することから始めるべきだった。私の住む街の近辺では車道の両端を塗装して、自転車道のように見せかけたものがあるが、その場所に自動車やバイクが入ってもお咎めはない。駐車も可能とあれば、自転車道とは言えない。速度も重量も走行の安定性も異なる自転車を車道で走らせることはまったく理にかなっていない。

 エネルギー問題、環境問題などを考慮すれば自転車の利用は促進されるべきなのに、そのためのインフラが間に合っていない。今回の法改正はこの事実を浮き彫りにしてしまった。