人物像の魅力

 吉川英治の三国志を読み直している。中国の古典文学の定番であり、事実というよりは歴史の型に沿った創作と言える。他の中国史にも言えるがその魅力は多彩な人物伝にある。この手法は東アジア全体に影響を与え、我が国の歴史物語や軍記物語、後世の奇人伝と称される諸作品への影響も大きい。

 敢えてその特徴をいうなら、登場する人物の造形が濃く大胆で、しかも去るときはあっさりしている。ものすごい個性の持ち主として登場しながら、場面が変わるとあっけなく退場し、その後に関わることが保証されない。多くはその場だけの役割を演じ、消えてゆく。

 この手法には慣れているはずなのに、例えば中国制作の時代劇を観ると痛快感の後に、何か不自然なものが残る。こんなに人物描写を軽く扱っていいのか。先ほどまで景色の最前景にいたのに、急にいなくなるのはおかしくはないか、などと。

 私は世界をマクロな視点で捉えることが苦手だ。自身の立場や、自分に近い他者に自己の感情を投影して、世界を見ようとする。極めて主観的自己都合的な世界観である。そういう私にとっては漢文なり中国古典文学、及びその手法を現代化した諸作品はどこか違和感がある。その違和感を含めて味わうというのが私の玩味の方法なのである。

 現代の多量ながら希薄な人間関係の環境にあって、個が立つ中国史伝のあり方はそれ故に受けるのかもしれない。

未だに完成せず

「あ、自分ってもう立派に大人だな」と実感した瞬間はいつ?

 大人をどう定義するのかで回答は変わるが、自己基準によれば、大人という基準には自分は達していないと考えている。漢文でいう「うし」もしくは「たいじん」と読まれる大人は徳の高い尊敬される人物のことである。この方面に関してはいまだ全く目標にたどり着けない。自覚の問題ではなく、他者の自分への評価を俯瞰すれば明らかである。

 一方で小事を飲み込んで目的に絞り込むという技ができることは別義の大人の域に達しているのかもしれない。要するに妥協することに甘んじられるということで、褒められることではない。でも、そういう受けとめができることが社会を円滑にしていることは確かなのであり、その意味では幾分かの成長の跡は自認するのである。

 最も大人を感じるのは、経験という鏡を持ち得たことにある。毎日の経験を常に過去の先例と照合して、その差分から事態を把握するのは年の功以外の何ものでもあるまい。それは必ずしもよいことばかりではないが、日常の困難さを和らげていることは確かなのだ。

 大人になることはネット検索だけでは達成できない。いろいろな経験の中で成功や失敗を味わいながら、知らないうちにそうなっている。

終戦記念日

 戦争について知る日本人はどんどん少なくなっている。今年で終戦81年である。ということは戦争の直接的な記憶がある人は80歳代の後半ということになる。昨年の時点で85歳以上の人口は約692万人という統計がある。しかし、いわゆる健康な人口となるとさらに減少する。要介護認定率は40~45%程度らしく、その反対の55~60%は介護認定を受けていないことになる。認定を受けていないから健康とは言えないが、これらの数字から比較的健康で自立できている人は85歳以上では380~415万人であり、全人口の3.0~3.3パーセントということになる。荒い統計であるが数字を示せばそういうことだ。つまり、戦争を体験し、語れる人自体がわずかになっていることになる。

 日本の戦後の平和教育に関しては一定の効果があったと言える。憲法9条の条文により、いわゆる国軍を持たず、徴兵制を放棄したことも大きかった。しかし、戦争の真の痛みを概念的にしか理解できない世代にとって、戦争は実利や自分の自由度のみが評価基準になっている。本当の意味での反戦の主張はかなり難しい。さらにロシアやアメリカがそれぞれの自国利益のために戦争という手段を使ってはばからず、中国もまた軍備拡張に余念がない。国連の常任理事国が平和維持ではなく、自国利益のために腐心する状況にあって、ならば日本もという主張がはばからなくなっている。

 概念化した戦争は、実感から乖離して人を傷つけること、その後の苦しみなどを後景に押しやってしまう。だから、核兵器を持つ方が国防上は安上がりだなどといった発言がなされ、本人に失言の意識すらない。またそれにうなづいてしまう人が多数いる。

 終戦記念日は平和の意味を問い直す日でなくてはならない。かつてはこの時期になるとそういう新聞記事やテレビ番組がたくさんあったが、最近はそれも少ない気がする。人類の歴史において戦いが繰り返されてきたのはこういうことなのだろう。その愚をまた繰り返してしまうのだろうか。

喜劇の難しさ

 誰かを笑わせることは実は難しい。悲劇よりも喜劇の方が難しいとはよく言われることだ。そんなことはないと思う人は多い。コメディアンとか漫才師とか、そういう人はメディアに横溢しているし、身の回りにも笑いをとるのがうまい人がいる。そういう反論はあるはずだ。

 でも、彼らの笑いの大半は前例をなぞったものであり、過去の笑いの模倣なのである。だから、新たな笑いの場を作ろうとすると途端に難題となる。笑いをとるのがうまい人はその型を心得ているということになる。

 私たちが笑えるのはいろいろな条件が揃ったときであり、それがなければ笑いに至らない。例えば落語や漫才を見るときには、観客はすでに笑いに来ている。そのスイッチを適切に押してくれれば演芸としては優秀であり、それを追究しているのがプロなのだ。

 例えば学生に喜劇をやらせてもうまく笑えないことがある。彼らには笑いの原理が分かっていないことがあるからだ。セリフや所作が上手くても笑えないことがある。観客に笑いの道に導く手順を怠ればどんなに上手く演じても笑えないのだ。

 おそらくいくつかの要素の一つに、役者なり演じ手への親和性がある。自分を笑わせてくれるという信頼感がなければ、笑いの感情を発動できない。だから、評価されているコメディアンは登場しただけで笑いのスイッチを押すことができている。これは一般人には難しい。

 笑わせることを追求するのはその意味で永遠の挑戦かもしれない。どうすれば人の笑いが取れるのか。既存の文言に頼らない笑いをどのように創出するのか。面白いテーマである。

今日もまた天気は不安定

 昨日の豪雨は私の町でも一時恐怖を感じるほどだったが、千葉では死者も出てしまったらしい。一時に大量の雨がふると排水が間に合わない。また地下施設やアンダーパスと呼ばれる高さの低い場所は雨水が集まりやすく、避難ができないまま閉じ込められる危険性がある。日本のインフラは決して脆弱というわけではない。ただ、基準を超える天災に関しては対応できないのは事実なのである。

 今日も午前中から空が曇り、いかにも大気が不安定な気配が濃厚だ。午後にはまた集中豪雨が降る地域が出るかもしれないとのこと。雨の継続時間は1時間以内というから無理はしないことが肝心だ。夏休みもあと数日だが、事故だけは起きないでほしいと思う。

豪雨

 今日は豪雨の中を運転した。一時は雨で前方が見えにくくなり、危険を感じるほどだった。滅多につけないフォグランプを点灯してゆっくり走行していると、見る見る間に車道に水溜まりだした。

 歩行者に水ハネを起こさないようにさらに低速に。こういうときは雪国で悪路を走った経験が少し活かせた気がする。甘く見るとスリップするのは雪でも雨でも変わらない。

 まさに滝のような雨がしばらく続いたあと、急に小止みになり普通の雨空になった。今晩はこのような天気が続くようだ。自動車の運転は夜にはしない予定だが、歩行者としても無理をしないようにしたい。

田舎のバス

 実家に行くときは駅から遠いのでバスを使うことが多い。一時間に一本で午後5時台で終わってしまうので実は歩くこともある。大体30分くらいの道のりを歩くのはよくあることだ。

 先日、ものすごい形相でバス停に駆け込んでくる人がいた。ここのバスはスマホで車の位置が分かるので、思わずもう少しで来ます。間に合いましたねと声をかけてしまった。するとその青年(というには少し年長にも見えたが)、実はいつものバス停ですでに通過してしまったので、先回りして来たんですとの答え。このバスは住宅地を蛇行するように走るので、やろうと思えば近道して追いつくことも可能なのだ。際どい賭けにはなるのだが。

 彼と私がバスに乗った時には他に乗客が一人だけ、その一人もすぐに降りた。その後も御年寄が何人か乗車した。いわゆるコミュニティバスで料金は100円だ。こういう交通機関があるから助かっている人は多い。今後、高齢化がさらに進めば重要性は増し、不可欠のものになるのだろう。経営は困難かもしれないが是非維持していただきたい。

嵐の前

 台風が接近している中、さらに台風に近づかかなくてはならない用があり夕刻から夜にかけて移動した。運よく、本格的な暴風が始まる前に目的地に着いたため、大きな害はなかった。

 台風が接近するというと非常に緊張する。それに何か蓄えておかなくてはならないという心理が働きちょっとずつ物を買いこんでしまう。もともと財布のひもは固めである私も、台風の前にはつい余計なものまで購入してしまうことがある。

 昨日はそれほどの被害はなかったが、これからもこういう妙な高揚感が自分を動かすのだと思うと自嘲しなくて華ならないとも思う。

東からくる台風

 台風15号はこれまでの常識を覆す東から接近する台風だ。いまのところ台風自体の規模は大きくなく、最大風速も台風としては控えめのようだ。ただ、東から西に進むという過去にあまり例のない進路であるのでこれまであまり被害がなかった地域で災害が発生する可能性がある。

 過去に反転してもう一度接近した台風があったが、このところそういう不規則進路が多い気がする。気候変動のせいなのか分からないが、少しでも害がないことを祈るばかりだ。

やる気を演じる

 やる気は自然に湧いてくるもので、それがないのは怠惰であるからと考えてきた。おそらく7割方正解だ。でも、最近、このやる気というのも自然のものではないと思い出している。やる気は演出し、そして演じきらなくては実現できない。

 私の場合何かを行う衝動は極めて感情的である。どんなに後付けの理由を拵えても、結局情動に任せて行動をしてきた。それをこれまで上手く操れたのは偶然ながら幸運であった。

 いまはその湧き上がるものを事前に抑制する機能が発達し過ぎていろいろなことに制動がかかる。だからいま何かを行うときは敢えてそのブレーキを外し、意識的に前に進めなくてはならない。ここ数年でそうした自分の変化に気づき、やる気は演じきらなくてはならないと考えるようになった。

 おそらくこれからはやる気とそれに伴う行動をせいぜい演じなくてはならないと考えている。大根役者でもいいのでそういう役を幕が降りるまで演じきりたいと思っている。