三月尽

 3月も終わり。毎年この日を迎えると自分の不甲斐なさと、それでも何とか乗り越えてきた適応力を苦しまぎれに自賛するのである。生徒のときはこれから先のことでドギマギしたが、いまはここまでの失態にハラハラする。歳をとっても悩みというのものはなくならないものである。

新年度

 週単位の仕事をしている業者にとっては今日が新年度の始めということらしい。気温が高めで桜はほぼ満開、春というのにふさわしい日だった。

 中東の困った戦争のため、石油危機の予兆が日々色濃くなり、株式が混乱している。ただでさえ変化の激しいこの時期に要らぬ騒ぎは早く終えてほしい。

 NHKラジオが第2放送をやめてしまったのは残念だ。語学番組などはFMなどで引き継ぐようだが私のような世代にとってはかなり残念だ。インターネットでいつでも放送が再生できる時代にあっては存在意義が薄れたとも言える。AMが二波あったことによる非常時の安心感が少しなくなったのも問題だ。

 年度が変わることで何かを捨て新しいことを始めなくてはならない。社会もこの私も。

桜満開

 旅先の神社の境内の桜がほぼ満開だった。気温が上がり、一気に花開いた。このあとは落花を惜しむことになる。この境内では楠の落葉が花びらに交じり、不思議な光景であった。

耐久戦?

 アメリカとイスラエルの始めたイランへの武力介入のため世界経済は大混乱が発生している。イランは徹底抗戦を訴えており、戦争は長引きそうだ。当事国の対立は深刻だが、それ以上に世界経済は大きな影響を受けている。

 石油から精製されるガソリンや軽油を不可欠のものとする流通業者らはすでに深刻な痛手を受けている。中には業務を停止せざるを得ないところまで追い込まれているという。石油から作られるのはプラスチックも含まれ、その中には医療の現場で欠かせないものもあるらしい。そうなると人命に関わる一大事なのである。

 当事者の主張も報じられているが、もうこれは彼らの問題だけではない。世界中の多くの人を苦しめることになっているのである。耐久戦の様相だが、世界中の人々を質に取るのは止めてほしい。

 

アクアライン

 初めてアクアラインを通過した。東京湾を横断する海底トンネルと海上架橋の複合だ。よくもこのようなことができたと思う。内房への時間短縮は素晴らしいものだった。どのくらいの耐用年数があるのか。非常時はどうするのかなどいろいろ気になった。

説経節の理不尽な美意識

 俊徳丸などの説経節の収められている文庫本を読んだ。学生時代、強制的に読まされたときには何とも支離滅裂な刺激的な展開だけを追求した作品かと思っていた。この齢になって読み返すと何とも哀れ深い芸能であったと気づいた次第である。

 説経節の主人公達は理不尽な逆境におかれ、それがストーリーの中で必ずしも好転しない。むしろ残忍な結末に報われない事実を突きつけられるのである。中には死後神格化されたことをもって悲劇を回収するものもある。現代人には理解しがたいのは、人生の中で精算がなされなければ意味がないと考えるからであろう。

 説経節がジャンルとして残ったのは、当時の価値観にかなっていたからだろう。能楽や歌舞伎に展開したのは基本的な精神が共通するからであり、それこそが現代人には分かりにくいものなのだ。非常に刺激的な展開、換言すれば非論理的な話の推移は現代の価値観による判断だ。説経節をライブで聴いた時代の聴き手にとっては、同時代の多数派の考えに基づく自然なものだったのだろう。

 理不尽にして大胆な、それでいてかなり図式的な考え方は当時の人々の思想を考える材料になる。私はいまは素晴らしく過去の価値観は間違っていたとか、未発達だったとかいう判断を避けたいと思う。当時の価値観と現在の価値観どちらが優れているのかなど軽々に言えない。古典研究者の概念設定として、芸能には自分にはできないカッコ付きの理想が語られているのだ。

自転車にブレーキランプを

 単なる思いつきに過ぎないのだが、自転車にもブレーキランプをつけたほうがいいのではないか。車道を走ることが条件付きで義務付けられたいま、来月からは罰則も適用されると言うのだから後方に停止を知らせるランプはあってもいい。前方灯のように常時点灯する必要もないので、さほどの電力消費もないし、太陽電池などを活用すればセルを回すときに起こる負担もないはずだ。

 狭い道路脇を走る自転車には危険が多い。そのリスクを少しでも減らす工夫は必要だと考える。停車を手信号でやるためには片手運転となり、危険性を増やす。ブレーキランプは市販されていて、充電式やモーター連動型、ブレーキレバー起動型から加速度センサーで自動点灯するものなどいろいろある。これらをもっと普及させた方がいい。現状では数千円程度だが、命の安全に役立つものであれば出費としては大きくない。普及すれば価格は下がるはずだ。

 自転車の事故は実はかなり多い。歩道を高速で走るのは論外だが、車道を走る際にさまざまななトラブルに遭いそうだ。対策の一つとしてブレーキランプの装着を提案したい。

小説を教えることの意味

 現在の高校の学習要領では近代以降の文学作品を学ぶ時間がかつてと比較して少なくなっている。高校1年生が以前学んでいた国語総合は、教科書の大半が現代文編と古典編に分かれており、現代文の中に文学的な文章も収められていた。ところが、現在の現代の国語は評論文ばかりが収められており、小説や随筆、詩歌は言語文化という古文漢文が中心の教科書に収められている。

 現場としては古典の方が時間がかかり、成績もすぐに伸びる傾向にあるから、古典の時間を削って小説を読もうという方針は取りにくい。だから、羅生門とか山月記といった定番に触れることなく卒業してしまう生徒が増えているのである。とても残念なことだ。

 小説など読むより論理的な思考を高める方がいいというのがカリキュラム設定者の考えだろう。ただ、この方面に関しては急速に発展している人工知能ができることだ。それを操るためにはより高度なロジカルシンキングが必要なのは事実だ。でも、だからといって一意に定義できない文学的文章を切り捨てるのは危険である。書かれていることを額面通りにしか受け取れない人に未来はあるのだろうか。新しい世界を創造する力はあるのだろうか。

 小説のテーマは多くの場合明示されず、何を読み取るのかは読者の環境や経験に影響を受ける。ならばまったく自由な読みが可能かといえばそれは違う。あくまで作者が設計した世界の中で、登場人物たちの行動を把握しなくてはならない。高校の国語で問えるのはここまでであるが、そもそもそういった世界観の把握自体が小説を読み慣れていなければできないのだ。

 現場の教員はこの危うさに気づいている。行間を読む能力はやはり大切でこれが欠落すると人格形成上大きな損害が起きる。多くの国語の教員がそう考えているのを反映したのか、教科書会社は現代の国語の中に資料扱いという言い訳をつけて小説などを組み込む改定を行っている。東大が小説の問題を出し始めたのも何かのメッセージではないかと考えてしまう。

 文学を教えることの意味は人工知能がリードする世界にあってますます増していると言いたい。

抜けている何か

 日々の生活の中で、つい見失ってしまうことがある。とても大事なことなのにあっさりと忘れてしまう。違和感を覚えながらもそのまま過ごして、あるときふと異常を感じるのである。一度気づいたら気になって仕方なくなる。

 何かが足りないと思うとき、つい冷静な判断力が失われることがある。余計なことをしたり、逆に必要な措置を取らなかったりする。精神的にいう抜けている状態はさまざまな失敗の温床となる。

 ただ、すべてが良くないわけではない。日常に追いつめられている人にとっては何かを抜かすことは大切な生きる知恵なのだろう。私は抜けている何かを敢えて求めないことも大事だと考えている。

人工知能が生成する美人と平均顔の関係

 AIが生成する画像にはどこか共通点があるように感じる。男女問わず、どこかで見たことがありそうでどこにもいないず容貌である。日本人の顔のデータを並べてその平均をとったいわゆる平均顔というのがある。不思議なことに平凡にはならず、むしろかなり魅力的な顔立ちになる。

 このことを、論理的には忸怩たるものがあるが、AIに質問してみると、平均顔は個々の個性が消されるだけではなく、欠点のように感じられるものも消去してしまうので、結果的に理想形に近づくのだそうだ。つまり、我々には実は素晴らしい一面を本来持っていて、それが組み合わされるより理想的な形になるということなのだ(ということで合っているのだろうか)。

I’m not AI.

 さらに人工知能は美人、美男子の生成を指示されると、その平均顔に少し盛るものがあるのだという…例えば目を少しだけ大きくするというのは常道だとか。だから、AIの生成する日本人の美人はどこかで見たことがあるように見えて、どこにもいない存在になるのだという。うべなるかな。

 最近はいわゆる超美人、美男を見るとAIのようだという褒め言葉があるそうだ。AIに見間違えたというのは実はおかしな表現だと思う。人々の理想を具現化したのがAIで、そこに映し出されたのは現実ではない。それを現実と比較すること自体が間違っているのである。

 現実の積み重ねから生まれる平均顔と、それをもとにしながら最後はスパイスを加えてしまう人工知能とそれを享受する私たちのあり方に、哀れを感じてしまうのは私だけだろうか。