気のせい

 今日は何度言えない不快感に襲われた。気圧の変化によるものと勝手に考えている。今日の気圧変動はさほど急激なものではなかったが、それでも平均的な変化量よりは多かったらしい。これまでも同じような症状を感じたことがあり、大抵は軽い頭痛で一過性のものであった。

 気がつけばもう月末に近く、梅雨の季節も近い。気圧のみならず、さまざまな気象要素が日々急変する時期に入っている。頭痛や不快感が気のせいならばいい。気圧が原因ならば防ぎようはなく、症状が出た際に冷静に対処することが第一に求められることだ。

 まずは身体を慣らすこと。そして焦らずに乗り切れることだ。

敢えて諦める

恐怖や自信のなさと、あなたはどう向き合ってる?

 本当の恐怖の前では何もできないかもしれないと予測している。この問いに答えるときの恐怖は傷を負っても何とかやり過ごせる可能性があるものに対してだ。その場合、私は敢えて諦めるという戦略をとる。

 失敗したり、屈辱を味わったりすることは耐え難く苦しい。しかし、できないことはできないし、それに関わってばかりはいられない。若い頃は何でも一通りできることが理想であり、それが果たせないときには強い敗北感に苛まれた。できる人たちへのコンプレックス、ジェラシーに似た感情などに覆われることもしばしばあった。いまはできなくてもいつかはできるようになるはずだ。いまできないのは努力が足りないのだと考え、余計に落ち込んだ。

 ただ、よく考えてみればできないことの方が多いはずで、日常生活ではそれを感じる機会が少ないだけのことだ。それができなければ生き残れないという極限状態にでもならなければ、大抵は自分の持ち駒で何とかなるものだ。その質的な問題は措くことにすれば。

 自分ができないことの項目があらわになるととても残念で悲しくなることもある。でも、できないことはできないという割り切りも大事だと最近は考えることが多い。自分ができることの方を追求しよう。それで自他のためになればなおいい。何もしないで終わるよりは、ささやかな前進ができればいい。そんなふうに考えるようになっている。恐らく若い頃の自分に聞かせたら、それは言い訳に過ぎないのではないかと失笑されるだろうが。

アメリカファーストではなく

 多くの人が気づき始めているようだ。トランプ氏のいうアメリカファーストは、実はマイファーストであり、そもそもアメリカの利益は副次的なものだった。彼はアメリカをグレートにしようなどとは思っていない。グレートになれば自分の利益が増えるという自己中心的な考えによっていたのだと。

 勝てばいいという発想は、商業世界ではぎりぎり成立しても、実際の社会では上手くいかない。結果的に勝者の側に立っていたとしても、それが全面的な勝利とは言えない。むしろとりかえしのつかない悪例になるかもしれない。

 国のために働くということは実はそう簡単ではない。何処かに己の利益追求の気配が感じられてしまうものだ。それが見破られるとことは上手く運ばない。

最近の文章の書き方

 少し考えれば文章が降りてくるといったことは数年前まではあった。完成度を問わなければ、それこそが私の目指していたことであり、ブログを書き続けてきたのは、このスキルを維持することが主目的なのだった。

 ところがここ数年はどんなに考えても一向に話が浮かばない。いたずらに時間が過ぎ、やがては眠くなってしまう体たらくである。恐らくこれは脳の体力、それを脳力というならばそれが低下していることを示すものと思われる。脳が生み出す不安や憎しみも含めて低減されるので、平穏に近いものになるが、楽しいことも喜びも浮かび上がらない。だから文章も書けない。

 最近気づいたのだが、ゼロから一には進めないが、どんなことでも書いてみるとそれに繋がる何かは書ける。無駄な前置きになるかもしれないがとにかく書き始めると、次の段落が思い浮かぶことが多いということだ。恐らく私の頭は文脈を作ってその上を流れる力はまだ残しているのかもしれない。

 そういえば最近の文章は首尾一貫という観点では傷が多い。考えながら文章を書き、ろくに推敲せずに時間切れでアップしているのでそんなふうになりがちなのだ。

 それでも続けていこうと考えている。文章を書くことによって、思考力を何とか保つこと。世の中のさまざまな雑念に対して正気を保つことの手段として駄文を積み重ねていこうと考えている。

歌徳説話

 日本の古典文学の中で和歌は特別の意味を持っている。和歌を歌うことにより事態が急激に変わることが多い。諸事情があっても和歌が詠まれることによって解決するという話がたくさんある。これを歌徳説話ということがある。歌には力があり、それが周囲の状況を一変させる。対象は人間だけではなく神仏や地霊といった超自然的存在にも及ぶ。それだけ特別なものという意識があったのだろう。

 和歌は短詩形文学であるために限られた情報しか盛り込めない。制約下に作者は言葉を選び、読者も隙間だらけの情報の間を埋めながら表現世界を再現するしかない。そこには厳密な論理性は期待できず、作り手も読み手もあらゆる段階で情緒的な読みが求められることになる。

 現代は何でも理詰めであることが求められ、曖昧なものは価値が低くみなされることが多い。歌が事態を解決するというのはファンタジーの域の考え方になる。情より理であり、文学は不完全な情報と分類されてしまう。そこで、歌の持つ力も忘れられつつある。

 しかし、韻文のもつ力を私たちは手放してもいいのだろうか。なんでも説明可能かのように錯覚して、実は伝えられていない様々な情報を無視しているのは間違いではないだろうか。本当は和歌でしか伝えられないこと、文学作品でないと表現できないものがあることを私たちは忘れているのではないか。歌徳説話を読むたびに起きる違和感は私もまさに歌の力を理解できなくなっていることを意味していると思う。

ナフサをめぐる取り組み

 中東情勢に安定化が見られないいま、日本ではナフサの供給不足による不安が徐々に始まっている。原因は供給の円滑性が滞り、必要な所に行き渡っていないことにあるらしい。政府の説明は在庫は十分にあるから心配するなの一点張りだ。しかし、この手法は長くは続くまい。

 原料が届かなければやがて品薄になる。そうなってから売れば利益率は高い。商人がそう考えるのは至極当然である。これを統制するのが政府の役目なのだが果たして機能しているのだろうか。

 消費者レベルでのプラスチック使用を節約しても現今の問題の解決には容易には繋がらない。ただ、危機意識を多くの人が共有することにより、流通の目詰まりをもたらす関係者への圧力を与えることにはなるのかもしれない。何よりも指導的立場にある部署が積極的に動くべきなのだ。医療機関での資材不足は人命に関わる。

 いたずらに危機を煽るのは論外だが、中東の戦局に終わりが見えないいま、ある程度の現実的状況説明と取りうる対処の執行報告を政府がするべきであると考える。

雑草の風景

 今日は気温が下がり雨が間断的に降り続いたが、ここ数日の暑さは近くの風景をすっかり変えてしまったようだ。草むらの丈が一気に延びている。こんなに植物があったのだろうかと驚くのである。

 いわゆる雑草と呼ばれる植物は条件が揃えば一気に成長し、生息域を広げる。少ないチャンスを確実にものにしていく逞しさがある。この点を甘く見ていると、結果的に圧倒されることになるのである。

 少しだけ低温の日があり、今度は一気に暑い日が来ることはほぼ間違いない。少し喉に痛みを感じているのは体温調節がうまくできていないからだろう。雑草に見習いもっと強かに生きていかなくてはならないと思うのである。

まだ水曜日

 曜日の感覚を失って一日先だと考えていた。まだ水曜日かと思ったのである。あまりにも毎日が単調だとこんな錯覚も起こしてしまう。

 このまだ水曜日には、次の休みまで日があることを嘆くことが根本にある。休みまでは頑張らなくてはならない。食いしばらなくてはならない。そんな思いだ。ただ、その後に別の考えも浮かぶ。締め切りが一日延びてやるべき余裕ができた。焦る必要はないと。

 時間の感覚は多分に主観的で、それが行動を変えることがある。本当はただ続いているだけなのだが、なんととらえるかで長くとも短くもなる。私にとっては授業時間はまったく足りないが、生徒諸君には耐え難く長いはずだ。

 だから曜日の感覚がずれてしまったのは、何をもとに時間の流れを計るのか、その基準が途中で変わってしまったことが原因なのかもしれない。一日損した、もしくは得した今日を大切に過ごすことにする。

サヨナラだけが人生だ

 歳をとったからなのか、何もしないでいるとすぐ眠くなる。若い頃もよく寝たがそれとは少し質が違う。抗えない睡魔というのは同じだが、最近のは身体的限界を実感させる後味の悪い寝落ちがある。

 恐らくこれは本当の眠りの予兆なのだろう。ただ、今の私としてはせいぜいこの自然の摂理に反抗してみようと思う。少々無理をしてもいい。自分の生きたいように生きる。それがいまの願いである。

 ただ、自分の生き方を追求するあまり人に迷惑をかけたくない。さんざん粘るが、去るときはあっけなく行く。それが理想だ。最近はこんな話をすることが架空の話とは思えなくなっている。今はなんとかなっていても明日は分からない。考え方も少しずつだが、生命の有限性に基づいたものになっている。

 いつどのようにサヨナラを言うか。そういうストーリーをいくつも考えている。もっともそんな計画はどれも無意味なのは分かっている。サヨナラだけが人生だとは思わないが。このフレーズを叫びたくなるときがある。やや

こぼれ種

 通勤途中のアスファルトの隙間に、キンギョソウが咲いている。園芸店で売っているものよりは幾分小ぶりだが、同じ形で色も鮮やかだ。その隣にはマーガレットに似た花も咲いている。これらは植えられたものではなく、どこかの花壇から種が飛んで来たか、何者かに運ばれてこの地に芽生えたのであろう。園芸品種の中にもたくましいものは多い。

 同じ場所に昨年まではベニバナユウゲショウというツキミソウの仲間が生えていた。今年はそれに打ち勝ったということになる。植物の世界も厳しい生存競争がある。

 パンジーの仲間も過酷な環境に耐えられるようだ。耐寒性も、浅い土壌も厭わない。スミレの強さを受け継いでいることが分かる。

 近くの公園で幅をきかせていた野草が、草刈機や除草剤で消えてしまった。すると空いたスペースに植物のレースが再開するのだ。人間が手を入れるまでは進化で獲得してきた生存のスキルが陣取り合戦に活用される。そんなふうに思って散歩をするとかなりエキサイティングな風景にたどり着ける。