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自給自足型エネルギーの時代になるのか

 大国の掲げる「正義」のために多くの国がエネルギー問題に直面している。資源国からのエネルギー輸送の末にようやく文明が成立するという図式は限界にきているのかもしれない。化石燃料を頼りに発展してきた人類史は次の段階を迎えなくてはならない。

 太陽光や風力といった非化石燃料のエネルギーはいまのところ効率が悪く、エネルギー問題の主役にはならない。ただそれは現在のインフラがエネルギー生産会社と、それを消費する企業や個人といった図式になっていることに大きな理由がある。もし自分が使うだけのエネルギーを自分で生産し、それを必要なだけ消費するのならば、おそらく違った世界があるはずだ。もちろん自給には限界があるのでその不足分をエネルギー生産会社から購入することになる。単価はかなり上がるはずだが、その分、自分の使うエネルギーの管理が徹底されるはずだ。

 一つの海峡が封鎖されただけで世界経済が大打撃を受けるのは、よく考えてみれば極めて不自然なことだ。資源国と資源のない国との格差もよく考えてみればおかしな事実である。これまでなら、このような物言いは無意味とされてきたが、たとえば太陽光発電、とりわけペロブスカイト太陽電池ような技術を使えば、大きなゲームチェンジャーになりうる。資源国が独占していたエネルギー問題の大元を、別次元で考えることができるのだ。加えて風力や潮汐力発電も可能性としてはある。

 現時点ではそんなに単純な問題ではないようだ。新しい世界基準を作る覚悟がなければ新しい制度は生まれない。理想的な世界はこうですと言っても、そのことを同感する人がどれほどいるのか。それが分からない限り論は進まない。ただ、これほど理不尽な現実に直面したいま、新しい基準への模索は当然なされるはずだ。

 太陽光というおそらく多くの方国や地域の人々にとって分け隔てなく与えられているエネルギーについて私たちは何をすればいいのだろう。地域によっては同じ効率では降り注がない太陽エネルギーを分け与える心が求められるはずだ。私たちは国家主義を維持する限り、困窮する隣国を救うことはできない。

ナフサをめぐる取り組み

 中東情勢に安定化が見られないいま、日本ではナフサの供給不足による不安が徐々に始まっている。原因は供給の円滑性が滞り、必要な所に行き渡っていないことにあるらしい。政府の説明は在庫は十分にあるから心配するなの一点張りだ。しかし、この手法は長くは続くまい。

 原料が届かなければやがて品薄になる。そうなってから売れば利益率は高い。商人がそう考えるのは至極当然である。これを統制するのが政府の役目なのだが果たして機能しているのだろうか。

 消費者レベルでのプラスチック使用を節約しても現今の問題の解決には容易には繋がらない。ただ、危機意識を多くの人が共有することにより、流通の目詰まりをもたらす関係者への圧力を与えることにはなるのかもしれない。何よりも指導的立場にある部署が積極的に動くべきなのだ。医療機関での資材不足は人命に関わる。

 いたずらに危機を煽るのは論外だが、中東の戦局に終わりが見えないいま、ある程度の現実的状況説明と取りうる対処の執行報告を政府がするべきであると考える。

フイルム型の受光パネル

 日本の科学者が考案したというペロブスカイト太陽電池はまだ乗り越えなくてはならない問題はあるもののとても魅力的な技術である。メガソーラーのような、一歩間違えれば環境破壊に繋がる発電設備が、山間部ではなく町中に設置できるとあれば魅力は計り知れない。従来の発電設備は火力も水力も原子力も都市部に送る電気を地方が様々負担するという図式があった。これが覆るだけでも大きな進歩だ。

 フイルム型の受光パネルをビルなどの建造物に設置すれば、森や干潟を破壊する必要はなくなる。自動車や鉄道の表面に置けば少しはエネルギーの節約に繋がるかも知れない。例えば鉄道の駅と線路の敷地に発電装置が設置できればかなりエネルギー問題は変わった展開になるかもしれない。

 いまのところはそれほど容易い問題ではないようだ。この電池に含まれる鉛は健康被害があることが長年の経験で知られており、不用意な利用はできない。代替素材も検討されているが決定的なものはないという。また耐久性についても疑問視されており、鉛問題も含めて廃棄やリサイクルの問題も解決しなくてはならないだろう。

 ホルムズ海峡封鎖でエネルギー問題を痛感するいま、代替エネルギーの一部として太陽光発電は利用しなくてはならない。恐らくこれからのエネルギーはいままで以上にハイブリッドで、高次元にそれを管理するシステムが求められるだろう。フフィルム型太陽電池だけではなく、新たな技術革新を期待したい。

 それと同時にエネルギー消費の少ない機械の開発、それよりも省エネ生活習慣の一般化が急務なのかも知れない。価値観の大変革があらねばならない。ここまで述べてきたことのすべてが少しずつ進展していくことを願わずにはいられない。

トータルでクリーンなエネルギー

 エネルギーに関する新技術の話は大きな期待を抱かせる。ただ、そのうち本当に実用化されるのはわずかで、さらにそれが実効的であることはさらに少ない。最近の話題はフィルム型太陽電池であるペロブスカイト太陽電池が話題である。開発に日本人や日本企業が関わっていることも期待される要因だ。さらに今日の新聞によると、原子炉の隣に水素製造施設を作り、ヘリウムガスを使って熱循環させることで発電とともに大量の水素の生成も行う計画があるとのことだ。安全性、特に災害時の速やかな停止ができるかどうかが現在検証されているという。東日本大震災の教訓を生かせるかである。

 石油・石炭を燃焼してエネルギーを得ることが地球規模の環境問題を引き起こしているという科学的知見から、いわゆるカーボンニュートラルを目指す必要性がある。太陽電池はその対策として生まれてきたが、現行の発電パネルは設置のために山林を削ったり、破棄の時に結果的に大量の二酸化炭素を排出することになることが問題になっている。ペロブスカイトはそれがかなり解消されるらしい。水素製造施設付き原発は、従来型よりも安全性は高いらしい。これからのエネルギー開発はトータルで環境問題を考える必要がある。様々な利益をもたらす可能性があるこの研究は、今後の主流になり得る領域だろう。

 科学技術ですべてを解決するという幻想は、私たちの世代にとっては広く共有されている。近代において科学がもたらした功罪を思い返す必要がある。でも、クリーンエネルギーへの幻想は甘美にして幻惑的な魅力がある。実現を期待している。

イルミネーション

 各地でイルミネーションのサービスが行われている。コロナ禍の期間は自粛ぎみであったものが今年は解禁されたのでその分華やかになったのだろうか。

 エネルギー問題という観点から考えると、イルミネーションはほどほどにした方がいいとも思う。つけっぱなしは止めた方がいいのかもしれない。

気候変動対策で日本が低評価

 アラブ首長国連邦のドバイで開催中の国連世界気候変動枠組条約締約国会議で相変らず日本の評価が低い。この時期に合わせてNGOが発表する化石賞で2位に「表彰」されるなど、国際評価は厳しい。

 日本が低評価になる理由の一つとして化石燃料に水素やアンモニアを混焼する技術がごまかしと評価されていることがある。グリーンウォッシュというらしい。この技術を海外に輸出していることも評価を下げている。今のトレンドは化石燃料をいかに使わないようにするのかであり、使い方の工夫をするというのでは評価されないようだ。

 ただ、日本にとって再生可能エネルギーへの転換は容易ではない。原子力発電に関して慎重にならざるを得ない国土にあって、何ができるのかを考えなくてはならない。

陽光の恩恵

 太陽光発電の腕時計の充電の度数を表す表示が少しずつ減少している。日照時間が減っているのに加えて、コートの袖などで時計が隠れることが多いためだろう。

 師走も上旬が終わろうとしている。一年の中でも夜の長さが長い時期だ。出勤時には月と明けの明星が冴えていた。ソーラー発電にとっては不利な季節だが、せめて歩くときは時計の盤面を少しでも当てるようにしよう。

 陽光の恩恵を実感することは少くなっているが、私はこんな場面で太陽のありがたさを思うのである。

使わない技術と節約する技術

 電気自動車が環境問題を解決するという幻想に世界が気がつきつつある。排気ガスを出さないことは大切だが、電池を造ったり廃棄するためにかかるエネルギーを勘案するとマイナスになるとの予測もある。

 重要なのは例えば車で言うならば乗らないで済む社会を作ることにある。日常生活の中での移動に公共交通機関を活用する方策を発明するべきなのだ。また、それでも車に乗らなくてはならない場合は、なるべくエネルギーを使わない仕組みが必要だ。最低限のエネルギー消費にできるようにインフラを変えていく必要がある。

 これまでは個々人が移動手段を自己判断で獲得してきた。するとどうしても無駄が発生する。同じところに行くのに別の車に乗り、不慣れな運転のために道に迷ったり事故を起こしたりする。これが積み重なると大きな消失となるのだ。

 同じところに行くのなら公共機関に託してもいい。高度な行き先設定は人工知能に任せよう。最低のエネルギーで最高の経験ができるはずだ。もし、運転それ自体が好きならば、そういう楽しみのためのコースを別に作ればいい。

 電気自動車を乱造するよりも、車に乗らなくていい、乗ってもエネルギーをなるべく使わないシステムを考える方を優先すべきだと考える。

自動運転車

 現在の日本が必要としているのは自動運転車であることに間違いはない。高齢者の引き起こす悲惨な事故は運動機能の低下がもたらしている。運転は無理になる年齢が来てしまうのは残念ながら不可避である。

 ならば車に自動運転してもらうしかない。その技術はすでに実用化されつつある。日本は規制が厳密なので公道での自動運転は実現化しにくい。しかし、そうは言っていられなくなっている。各国が自動運転車両の開発に力を入れており、このままでは日本の技術が遅れをとり、外国が規定したモノサシに従わざるを得なくなる。

 自動運転車が山村を走るようになったとき、地方の風景は少し変わるかもしれない。運転者はいないがとても安全なバスが街まで連れて行ってくれる。買い物も病院も思うがままだとなれば、どうして都会に住む必要があるだろうか?

 やはり日本が求めているのは自動運転車だということになる。

原発処理水問題

 韓国で福島第一原発の事故で発生した処理水の海洋放出について反対運動が起きている。塩の買い占めが起きるなど社会問題になっている。

 ただし、この問題で気をつけなくてはならないのは、有害物質と言われるトリチウムの推定排出量は現状でも世界各地で福島以上であり、そのなかには中国や韓国の原子力発電所での排出も含まれているという事実が報じられていることである。また大気中に拡散されたものが雨などの気象現象によって海洋に溶け込むことがあるとも言う。

 安全性を追及するならば、世界中の原子力発電事業に対して行わなければならないようだ。原子力はできれば避けたい選択だが、化石燃料のもたらす害悪の方が大きいとされている以上、捨てることはできない。今のところは主力になり得ない再生可能エネルギーの開発を期待するしかないのだろうか。

 韓国のような科学誤認はどこでも起こりうる。また、結果として福島の汚染水は処理水だと証明されたとしても、世界の原発の問題は解決できない。事故を起こさなくても原発は環境を変え続けている、しかし現状ではそれに頼らざるを得ないという事実を知らなくてはならないのだろう。