だいじょばない

 「だいじょばない」は大丈夫ではないの意味で使われている俗語だ。不調を表す言葉を敢えて文法破りで表現することで戯けた雰囲気を出す。大丈夫ではないと言い切るより多少気が楽だ。こうした感情の朧化表現はいくらでもある。

 この場合の「ない」は打消の助動詞であり、未然形に接続する。「走る」に「ない」をつけると「走らない」になるように、「だいじょうぶ」という名詞を動詞にしてそれを未然形に活用して、「だいじょうば」とし「ない」をつけたあとで「う」を脱落させて言いやすくしたのだろう。

 ならば「だいじょぶ」はバ行五段活用の動詞であり、連用形は「だいじょび」となるから、「だいじょびます」となり、仮定形を使って「だいじょべば」とか命令形の「だいじょべ」、意志の「う」を後置して「だいじょぼう」とかがこの後登場する可能性がある。

 そもそもNo problem の意味で「大丈夫」が使われ始めたときからこの語の変貌は始まっていたのかもしれない。

 因みに「だいじょべ」という命令形はどんな場面で使われるのだろう。そら恐ろしくも感じる。

夏至

 今日は夏至だ。昼の長さが年間で最長の日という。梅雨時なのでその実感は少ないし、本当に暑くなるのはこれからだ。夏至の印象は冬至に比べると薄い。

 夜が短いということは活動できる時間が長いと言うはずだが、あまりこれも実感がない。日照よりも時計の方を優先している都市生活者は特にそうだ。明るい早朝はやはり寝ている。

 サマータイムを導入したほうがいろいろなことが効率的だという意見もある。涼しい早朝に仕事や勉強を済ませてしまう方がいいからだ。ただ、社会全体がそれを行うのはやはり大変なようだ。一人サマータイムを始めるしかあるまい。早寝早起きをするというだけのことだ。

 そういえば最近はかなり早くから鳥が鳴き出しときに騒がしくもある。時計という不自然な計時器具に縛られているのは人間だけなのだ。

他人にとっての自分

 自分のことを理解してくれる人がいると信じていたのに裏切られるということはいくらでもある。歳を重ねるほどそれが当たり前となり、受け入れることもできるようになっていくが、かつてはそれは無理だった。

 自分が特別な存在であり、かけがえのないものであることは誰にとっても同様だ。いまではそんなふうに考えることはできる。あるいはそういう考え方をとることで心理的な難局を乗り越えられる。でも、かつてはどうだったろうか。自分だけが不当に扱われているとか、いつもの不運だとか考えていたことを覚えている。

 自分は他人にとっては他人であり、その他人から見た自分がどのように見えているのかは分からない。自身が考えている自画像と一致していないことも多い。それが乖離していると不幸だと感じやすくなるのかもしれない。

 やらなくてはならないことがいくつかある。まずは自画像の描き直しだ。というより、勝手に描いた輪郭線を引き直し過去にこだわらないことだろう。また、その絵がどう見られようと気にし過ぎないことだ。それぞれの作品には素晴らしい味わいがあり、疵もある。それは他人も同じだ。

 人間が集団で生きていく以上、他者との関わりは避けられない。自分の存在と他者との関係をどのように調和させるのか。若い人にはこのことを伝えていきたい。

典型的な日本人

 国民性を語る場面は多い。日本人らしいとか、日本人の特性とかいう。スポーツの大会などで観客席やロッカールームを掃除して帰ると日本人らしいといい、周りを気にしていつまでもマスクを外せないもの日本人らしいという。あっているようであり、間違っているようでもある。

 典型的な日本人などいるのだろうか。日本人の代表を一人選ぶとしたらそれは誰だろう。恐らく誰も選べない。日本人の中の日本人などと言える人はいない。これは日本だけではなくどこの国や地域でも同じことだ。

 それなのに日本人論は書店では売れ筋であり、それがいつも絶えることがない。日本人とはどういう民族なのかは日本人が常に気にしていることなのだろう。

 そもそも、日本人とは考えることの裏側には他の民族との比較の考え方がある。自分と異質のものを見つけてそれを基準にして比べようとする。ある国の人はこうだが、日本人はこうだという形の論調になる。内田樹氏の言葉でいうならば常にきょろきょろしているのだろう。

 これは短所でもあるが長所でもある。常に相対的に自分の位置を確かめようとすれば、だいそれた失敗はすることが避けられる可能性が高い。その代わり、自分たちの個性を肯定的に捉えられず、発展を阻害することもあるだろう。ひところよく言われたガラパゴス化なることばがネガティブに捉えられたために、世界標準ではないものの多くの独自進化が止められてしまった。そのまま開発を続けていればもしかしたら、世界標準になったかもしれないものもあったはずだ。

 典型的な日本人がいないのと同じように、典型的な男も女もいない。典型的な人間もいない。合成して作られる平均顔のような本当はいない存在を実在すると信じ込みやすい現状に危惧を覚える。まとめていいものとそうでないものがある。

ねむの木

 合歓木が咲いていた。ドライブの途中で信号で停止したとき、そこから見える住宅の庭木として確かに合歓木があった。

 ただ、その名前がどうしても思い出せなかった。初めに思いついたのがマンサクだった。しかしこれは春に咲く花で、今の季節には合わない。夏先のトキワマンサクなるものを検索したが全く違う。

 検索という方法は便利だが思考を邪魔することもある。春、ピンク、筋のような花びら、庭木などいろいろなキーワードを試してみた。志賀直哉の短編小説に出てきたのを覚えていたので、それを検索しようと思ったが却ってわからなくなってしまった。

 検索するのをやめてしばらく考えたらふと思い出した。ねむの木だ。合歓木と書く植物だった。思い出したらもうそれ以外には考えられなくなった。実物を見たのは久しぶりだったので忘れていた。夜は花が閉じるのでねむの木というらしい。でも、よく考えてみれば夜の木の姿を見たことがない。今度見てみたいと思った。ただ困ったことにどこで見たのかを思い出せない。

古典作品を読むことは現代を考えること

 古典を読んでいるといろいろ気づくことがある。セネカの「人生の短さについて」と列禦寇の「列子」を読む機会があった。どちらも社会情勢の混乱期にいかに生きるべきかについて語ったものである。学生のころ読まされたはずだが、ほとんど忘れていた。読み直してみるとこういうことだったのかと思い当たることが多い。

 古典、しかも1000年以上前の作品を読むときには、そこに述べられていることに臨場感はない。あくまでそのエッセンスを読み取ろうとする。一種の寓話として読んでいるともいえる。でも、私たちの想像力により、どんなに古い内容であっても現在の生活に生かすことは可能である。

 例えば「朝三暮四」のエピソードのように、語られることは単純であり誇張されている。荒い設定が逆になんにでも当てはまる懐の深さを生み出すのである。そして述べられている主張が今日にも当てはまることもあり、そうでないときもある。その対照によって結局は現代を考えていることになる。古典を読むことは現実社会を考えることに他ならない。

 過去のことを知ってどうするのだ、日進月歩の時代に振り返りはいらないなどという前に、まずは自分の立ち位置を考えるべきだ。もしそれができれば画期的な新しいことも生まれるはずだ。なにも新しいことを追いかけるだけが前に進む方法ではない。

ふんばりどころ

 加齢という現実に直面している。一番困っているのは老眼だ。このブログは通勤電車の中で立ってスマホで入力することが多い。変換する際、細かい字が読めず、誤変換してしまうことが増えている。濁点と半濁点、句点と読点の区別は特に難しい。

 老眼というのは結局、筋力の衰えなのだという。毛様体筋が弱くなるからレンズの調節ができなくなるというのだ。この筋肉は40代頃から自覚的に衰退を感じ始め50代で多くの人はかなり弱まってしまうらしい。残念だが全ての人に共通する。

 ただ、少しでも退化の速度を遅らせるためには、その筋肉を鍛えるしかないという。いろいろあるが、要するに近くを見るのになるべく自分の目を使うことが大事らしい。老眼鏡を使わない時間を増やさなくてはならないということだ。

 そこで、私はこのブログは眼鏡なしで書き続けることとする。だから、いままで通りミスタッチが続出するだろう。こっそりあとから書き換えるのもこれまで通りだ。

プログラミングは大事だが

プログラミングを子どもに教えたいという親は多いらしい。間違いではないがそればかりであると必ず失敗する。プログラミング用のコンピューターに通じる言語を覚えることは今後さほど重要ではなくなるかもしれないのだ。

人工知能の発達でプログラミングの基本は自然言語でかなりできるようになっている、すると大切なのはまともな言葉遣いができるということになる。伝わる日本語が使えているのかが問われることになる。

さらに誰にでもできるプログラミングは専門家の力は要らないことになる。人間の思考の癖を知り、それを先回りしてプログラミングに取り入れることが大事だ。ならば学ぶべきは人間の思考のパターンである。それには文学や歴史の学習が役立つ。

 理系の時代などという人はいるが実は理でも文でもない人間に興味をもつことが何よりも大切だ。親御さんにはこのことを言いたい。もっと本を読ませ、もっと遊ばせ、もっと他人や社会と関わらせた方がいい。昭和世代が必死に覚えたことは機械がやってくれる。ただ人生の経験の厚みは補えない。子供時代にそれをやらせるべきだ。

パソコン前のメモ

 パソコンの前に置くメモ帳というものが売っている。高さがなく、横長という寸法だ。確かに狭い空間に置くのに相応しい。真似してみようと考えた。

仕事柄、いわゆる裏紙、つまり余ったり失敗したりしたコピー用紙には事欠かない。環境問題などを口にしながら、この用紙を捨てることも多い。ならば、裏面を利用して最大利用しようと思う。ただB4やA4のままではかさばるし、結局邪魔ということになる。そこで例のパソコン前サイズに切ってクリップで留めるといいことに気づいた。

 ペーパーレスと言われ、電子メモアプリも使うがやはり手書きほど便利ではない。しばらくは短冊のような紙の束のお世話になる。

古典教育不要論者の気づかないこと

 古典教育に対する批判には伝統的なパターンがある。そんなことをやるならばもっと実用的なことをやったほうがいいという考えだ。これをかなりの学識者がいうから騙されてしまう。

 古典不要論者は自らの意見が古典の知識でできていることに気づかないか敢えて無視している。古典を学ばずに過ごせば実用的な人間になれるだろうか。プログラミングを教えろという人は、おそらくそのスキルを習得するのに苦労したのだろう。そして成功し、もっと早くからやっていればよかったと考えたのだ。投資などの金融スキルを子どものときから教えろという人もいる。さぞかし儲かっているのだろう。

 気をつけなくてはならないのは、プログラミングもファイナンシャルスキルも年々習得しやすくなっており、何も小中学校で教えなくても十分にものになるということだ。こういうやり方が決まっているものはコンピューターに代替されていく。

 人工知能の発展は答えのある問いの処理には人間は敵わないことを痛感せしめている。大事なのは非定型かつ意味のある情報をどれだけ持つかであろう。古典文学や歴史から学ぶことは多義性を持つ曖昧なものが多いがそれ故に大切な思考の材料となるものだ。それを学ぶのを止めようというのは自ら進んで機械の配下に降ろうと言っていることと変わらない。いい加減にこのことに気づくべきだ。