副操縦士

 マイクロソフトは生成AIを組み合せてIT業界のゲームチェンジャーになろうとしている。WordやExcel、PowerPointなどのソフトウェアに生成AIを組み合わせることで画期的な事務系ソフトウェアを作ろうとしている。しかもその名はCopilotという。

運転手は君だ? 車掌は僕だ?

 副操縦士を意味する言葉を商品名に置いたのは、あくまでも主体は人間であり、AIはその補助役だと言いたいのだろう。ただし機長の座は安泰ではない。副操縦士が優秀すぎるのだ。

 Excelで自動作業をしようとすれば、これまではマクロとかコンピュータ言語の知識が不可欠だった。それが将来的には日本語で指示するだけでプログラミングしてくれることになりそうだ。もうこうなるとソフトウェア自体がブラックボックスだ。箱に入れるだけで見事に求めるものを出してくれる。ただ箱の中身で何が行われているのかは知らない。

 そういう時代がすでに始まっている。便利だが説明できないものに囲まれる環境に覆われつつある。シンギュラリティは近い。

 私たちは機長席を死守すべきなのだろうか。安全で無事故率が限りなく100に近いなら、副操縦士の昇進を祝うべきなのか。

 私としては少なくとも自家用セスナにおいては機長であり続けたいと考えている。その結果墜落死しても構わない。いつまでも飛び続けますがどこに行くのかは教えませんというよりましな気がする。おかしいだろうか。

高温多湿

 今日も高温多湿の五月晴れとなりそうだ。朝からかなり気温が高く、夜も寝苦しかった。暑いと体力の消耗も大きい。かすかな疲労感を覚えている。

 昨年もそうだったがここ数年、6月の気温が高い。梅雨の戻りを挟んで真夏が2回あるようなものである。長期予想では気温は平年より高くなる傾向にあるという。

 天候に対する抵抗力を落とさないように適度な負荷をかけつつも無理をしないようにしていこう。そして給水は大切だ。過去に犯した失敗を思い出して繰り返さないようにしたい。

写真のような記憶

 写真のように見たものを詳細まで覚えていられる人がいる。先日、山下清の展覧会に行ってきたが、彼は放浪時にはスケッチをほとんどせず、帰宅後に見たものを思い出して描いたのだという。しかし、その細部まで詳しく覚えて実景が忠実に表現できていたらしい。

 こういう才能をある人はカメラアイと呼ぶそうだ。ただ、本当に現実と同じかといえばやはりそれは違う。どんなに忠実な記憶にみえてもそれは覚えた本人の解釈が加わっているものだ。山下清の場合、彼が見たいものは大きく描いているが、おそらく見たくないものは意識下で削除している。それが芸術というものなのだろう。

 私たちがなぜ彼らのように映像を記憶できないのか。それは脳の仕組みと関係があるようだ。私たちは常に移り変わる状況に対応するように進化してきたため、ある定点の映像をそのまま保存することに価値を見出さない。だから、新しい情報が入るとその前のことを忘れてしまう。また空間を構図として記憶することもあえて避けているのかもしれない。自分の関心のある対象物だけに意識を集中し、そのほかのものを背景としてぼかすことで意識が散漫になることを防いでいるのだろう。

 だから、カメラアイでないことはそれなりに意味があることと考えたい。また、何らかの事情で空間記憶力を身につけている人はやはり天才として尊重すべきだと考える。

絵画の見せるもの

 美術館の展示を観るといつも思うのは人が何かを描くという行動の意味である。なぜ絵を描くのか。そして本物ではない絵を観て何らかの感動をするのはなぜかということだ。

 絵を観るとまず単純に何が描かれているのかを確かめ、その色彩や構図、対象物の形などを観る。それが既知のものなら自分の知識や経験と比較してその差を考える。未知のものも類型から推測することを始めていく。

 その後、なぜこの絵を描いたのか、どうしてこのような絵にしたのかを考え始める。解説を読んで大づかみに把握して、その後は勝手に考える。結局分からないことが多い。

 絵を描くには相当の労力がいるはずなので、なぜその対象を描くのかは画家の思い入れがあるはずだ。それは何が。何が絵筆をとらせたのかを考えることが

 そしてその対象を画家がどのように捉えたのか。それをどう表現したのかに思いをめぐらす。写真ではない絵は何をどのように描くのかは画家の価値観や人生観が反映されているはずだ。

 その絵に盛り込まれたものを私たちは観に行くのだろう。いかに本物に近く描かれているのかではなく、本物をどのように捉えたのかを知りたいのだ。芸術にはこの筋が欠かせない。

音読、手書き

 情報が何でも手に入る時代になり、私たちの世代はさまざまな矛盾に直面している。子供たちに何かを質問するとかなりよく知っている。中には少し専門的な用語も出てくるので相当な博識なのかと思ってしまう。さすがに現代の子どもは違うと感心する。しかし、この思いは簡単に覆されることが多い。

 同じ子どもに同じ分野の別の質問をすると答えられないということがある。それもどちらかといえばだれもが知っている初級レベルの内容と思われることにおいてもその傾向がある。また、先に感心した専門的な話題を別の要素と組み合わせて尋ねると何のことを言っているのか分からないといった反応になる。ここに違和感を覚えてしまうのだ。

 おそらく今の子どもは情報を点として覚え、その数を多めに持っている。だが、その点はほかの点と結びつけられることは少なく、孤立した知識になっているのだ。これはコンピュータで検索した結果をクリップしている状態と同じだ。物知りだが物は知らないという逆説が見られる。

 そこでいま何が足りないのかと考えれば、情報を点ではなく線で、そして面でとらえることの大切さなのだろう。それには読書することや講演を聞くことで一つ知識や情報の背景にあるものを知ることが肝要と言える。読書もそのままにすると、点としての知識吸収になりやすいので、音読の形で自然な人間の認知の手順を再現した方がいいと考えられる。そして、考えたことを手書きでまとめる。音声化と言語化というごく当たり前の活動が人間の脳には欠かせない。これを飛ばすと偽物知りが生まれることになるのではないか。

ジェンダーギャップ

 性差による待遇格差が数値化されると我が国は下位に沈む。男社会が続いているということだ。私個人の環境では上司は女ばかりなのでそのような感はない。ただ国会議員の顔ぶれなどをみれば男が優位なのは間違いない。

 女の上司を持つことに私は何の抵抗もない。感情的で一貫性がないということを感じることはあるが、これは男にも当てはまる。部下としては安心して仕事ができればそれでいい。

 女の管理書が少ないことにはいくつかの要因がある。育児などの家事負担が女性に偏っていることはその一つだ。しかし、これも変わりつつある。男が育児休暇を出すことも稀ではなくなっている。

 ならばなぜ女性のリーダーが少ないのか。もちろん伝統的な男社会の因襲は大きい。それ以上に人材不足が原因と言える。リーダーとすべき女性が少ないのである。

 男女均衡のために資質のない人物をトップに据えるのはリスクが大きいすぎる。だから、いまは性別など関係なく相応しい上司を選ぶべきなのだ。結果として男の数が多くてもそれは不健全ではない。逆にほとんど女になってもまた然り。今の日本に性別を選ぶ余裕はない。なるべき人になっていただく。それでいい。

原発処理水問題

 韓国で福島第一原発の事故で発生した処理水の海洋放出について反対運動が起きている。塩の買い占めが起きるなど社会問題になっている。

 ただし、この問題で気をつけなくてはならないのは、有害物質と言われるトリチウムの推定排出量は現状でも世界各地で福島以上であり、そのなかには中国や韓国の原子力発電所での排出も含まれているという事実が報じられていることである。また大気中に拡散されたものが雨などの気象現象によって海洋に溶け込むことがあるとも言う。

 安全性を追及するならば、世界中の原子力発電事業に対して行わなければならないようだ。原子力はできれば避けたい選択だが、化石燃料のもたらす害悪の方が大きいとされている以上、捨てることはできない。今のところは主力になり得ない再生可能エネルギーの開発を期待するしかないのだろうか。

 韓国のような科学誤認はどこでも起こりうる。また、結果として福島の汚染水は処理水だと証明されたとしても、世界の原発の問題は解決できない。事故を起こさなくても原発は環境を変え続けている、しかし現状ではそれに頼らざるを得ないという事実を知らなくてはならないのだろう。

 

梅雨曇

 このところ梅雨らしい天候が続いている、傘をさすかどうするか判断に迷うほどの雨が続き、時々本降りになる。本来年間でもっとも高く登る太陽が雲に隠されて見えない。梅雨曇は紫陽花などのこの季節の花を際立たせるにはよい。ただ、周囲に体調を崩している人も多く、何事も適度にあってほしいと思う。

脳の仕組みを活かす

 よく目にするのが脳科学による学習の方法の見直しという論調である。この方面には全くの門外漢なので言われたことをそうかも知れないと信じるしかない。その意味で科学と言いながら私のレベルではオカルトと変わらない。

 最近気に入っているのが独り言による自己暗示である。ネガティブな発言が続くと心が不調になり、結果としていいパフォーマンスができない。これを防ぐためにわざとポジティブな発言をするルーティンを作れというのだ。何かで読んだが、「だけど」の白魔法はいいらしい。弱音を吐いてしまったとき、すぐに「だけど」をつけて内容を逆転する。例えば「とても疲れた」と言ってしまったら、すぐに「だけど、いい経験ができた」などと内容を好転させる言葉をつけるといいのだという。実際にはいいことがなくてもこれを言うことで脳が騙されて良い行動ができるようになるというのだ。

 苦しいときこそ笑顔でいたほうがいいとはよく聞く話だが、これを一歩すすめて言葉で自分を騙すというやり方だ。いいとことを聞いたと思う反面、私たちは何とも危うい地盤の上に立っているのだと再認識している。何事も気持ち次第というが、論理とともに感情が思考や行動をいかに影響を与えるものであるかを痛感する。

 ブログ記事もときにこの手法を取っていることがある。本当はそれほど大したことでもないのに大仰に書きたてるのは自分を励まそうとしているもがきであると寛大な目でご覧いただきたい。

ムクドリ

 ムクドリは留鳥でいつでも見ることができるが先日、公園で群棲しているのを見て改めて存在を確認した。嘴と足だけがオレンジ色でその他は地味な色をしているので分かりやすい。

 この鳥は数羽でいるときは愛らしいのだが、どういう訳か群れやすく、ときには数万の群れになるという。鳴き声はあまり良くないので、それが群れるとうるさくて仕方ない。むくつけし鳥の略称がムクドリになったという語源説もあながち否定はできない。都会の場合、駅近くの街路樹が集会場になることが多く、騒音に糞害で嫌われ者になっている。

 いまは繁殖期らしいが秋になると親子揃って仲間たちと行動を共にする。それはこの鳥たちの生き抜くために獲得したやり方なのだろう。近くの駅ではこの対策として猛禽類のような形の模型を電柱の上に取り付け、カラスの鳴き声を音声で流したり、明るめの照明を街路樹に当てるなどしている。あまり効果は出ていないようだ。

 ムクドリにしてみれば人間の方こそ群れて一日中騒がしい。他種の棲家を奪って我が物顔でいると考えているに違いない。