カテゴリー: エッセイ

実感すること

 知の身体性をテーマにした文章に多く出会う。知識と言われるものが経験に基づく実感に裏打ちされていないことが増えているという指摘だ。

 インターネットで超高速で検索をし、近年は人工知能が付帯的な情報まで収集して、それらを分析し組み合わせて提示してくる。確かに非常に便利で効率的に感じられるが、その過程において自分の得られる経験は限定的である。わずかな指示を出して食事に行き、帰ったらレポートが出来上がっている、ということが当たり前になっている。

 経験を伴わない知識は危うい。その意味をよく理解しないまま摂取して、さらにそれを積み上げていく。かなり空虚な知の体系が形成されている。

 やはり、実感をすることが必要だろう。若い世代には一見無駄と思われることでも、屈辱的な失敗でもすべてが大切な経験であると訴えたいのである。

人工地震説が絶えない理由

 地震を人工的に起こすことは現代の科学ではほぼ不可能だ。微弱な地震を核爆発などを使って発生できても、いわゆる震災を起こす地震を人為的に起こすことはできない。地震のエネルギーは桁違いに大きく、人類がこれまでに開発した最大の核爆弾を使用しても震災レベルの地震を起こすことはできないという。

 それなのに地震陰謀説が出るのはなぜだろう。予測不可能な地震の発生を誰かのせいにしなければやりきれない切実な思いの為せるわざなのだろうか。その背景には不如意な日常に対する不安もしくは不満があるといえそうだ。自分を取り巻く好ましくない現実は、きっと何者かの陰謀で仕組まれたものであると言いたいのである。

 科学的な言説はこの場面ではほぼ無視される。あるいは理解していても分からないものとして判断停止されてしまう。人工地震が人々を襲うという幻想がまことしやかに語られるのは、社会不安の変形と言うことなのであろう。

宇宙を考えることの意味

 先日、プラネタリウムに行ってきた。宇宙の始まりに関する話があり、少なからず感動した。何に感動したのかはなかなか言葉にはならないが、すべての原理を原初に戻すと世界は、というより宇宙は極めて数学のようなものになるということだ。

 でも、ちょっと待て。そう考えるのは現代の人間の能力の到達点に過ぎないのではないか。無からビッグバンの末に宇宙が発生する。理論的には正しいとしても、その理論が今生きている人間によって形成されている以上、その思考の枠組みの中で考えられたのだ。別のフレームができれば違う結論に達するのではないか。

 宇宙のことを考えるといつもこの疑問に駆られ、謎のループにはまり暫く抜け出せない。若い頃は深みにはまって動けなくなるほどだった。いまはほどよく醒めていて以前ほどではないにしろ、やはりなぜなぜの渦巻きに取り囲まれてしまう。私にとっては宇宙のことを考えるのはこうした妄想に入るスイッチのようなものだ。

天災に適応した民族

 東北の地震が心配だが、今日は大きな余震はなかったようだ。天災と言えば黄砂が飛来しており、かなりもやか出でいるところもあるという。私は実感することはなかった。

 日本に住む者にとって様々な天災は不可避であり、受け入れざるを得ない現実である。どんなに飾ってもこの事実を変えることはできない。日本人は天災とともに刻んできた歴史を忘れることはできない。その中で生きることに適応してしまっている。

 地震などの不規則、予想不可能な災厄を示されたとき、私たちは無力感を覚えるとともに、その事実を受け入れる覚悟を習得する。習慣化するといった方がよさそうだ。恐れながらも諦めない。これがこの国に住む者の深層にある。

 今回の地震に大きな余震がないことを祈る。それ以上何もできないが、遠隔地の出来事と考えずにいることが大事だ。

人文知の必要な時代に

 人工知能の発展は高速である。私のような世代でも気が付けばかなりお世話になっている。私のスマホの最初の画面にはジェミニのウィジェットがあり、個別アプリをたちあげるより、それを使うことの方がはるかに多くなっている。もちろん返ってきた回答を全面的に信じてはいない。どんなに完璧な回答でも、いやそうであればあるほど疑わしく思ってしまうのはやはり、まだ私自身が時代の進化についていけていないからでもあろう。

 プログラム言語ではなく、自然な日本語である程度のプログラミングまでできてしまうのが現在の人工知能だが、専門家によるとこの先はもう人間が余計な口出しをしなくてもAIが自己修正をしながらバージョンアップしていくようになる(なっている)らしい。すると、もう人間の出番はない。AIに適切な指示を与える創造的な能力を持っている人物ならばよいが、ほとんどの人間は作られたプログラムをブラックボックスから出てきたものとして使うことになるようだ。

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 私の従事している教職もかつてはAIに侵害されない職とされていた。しかし、今そう考える人はほとんどいない。教えるということに関しては個々の習熟度に合わせて限りなくカスタマイズする人工知能のやり方に勝てそうもない。今は一斉教育によって、できる生徒とできない生徒が発生している。これは事実だ。ただ人工知能が達成できるのは、教材の提供法や評価の方法においてのことであり、生徒にやる気を起こさせたり、叱咤激励する方面においてはまだ機械にはできないところがあると考えられる。

 今は世間的に存在感を持っているデスクワークを中心とする人々の仕事は次第にAIに代替されていくとして、その先に残るのは機械ではできない人間臭いことを行うものになる。感覚にかかわる繊細な作業や、数値化しにくいサービス関係の仕事などは当面生き残るのだろう。教職でいえば、教えることそのものよりも学びに向かう雰囲気を創生し、維持管理できる人材が必要になっていくのだ。そのために何が必要だろうか。それは人の考え方や行動傾向、心情の理解、他者の価値観の推測などが欠かせない。これらは人文学的な課題ではなかったか。いま、低位にみられているこうした分野の研究がやはり必要になっていくといえる。

 AIを作り出した人は当面AIにその場を奪われていく、そしてこの状況を俯瞰できる人が次の段階に進めるのではないか。手前味噌だが、芸術や文学を学ぶ時代に移行しつつあると考えている。

平均身長より少し低い

 日本人の平均身長はと言われると結構統計的には難しいらしい。いわゆる成長期終了から中年までの年齢層だと171cmくらいになるそうだ。この数値が出るということは175cmを超える人がかなりの割合でいるということだろう。

 私はその平均身長にわずかに足りないほどの背丈なのだが、通勤電車での実感ではもっと下のような感覚がある。もっとも少し前の世代ならとっくに引退していてもいい年齢なのだから当たり前とも言える。

 学生の頃、大学に通うために乗った横浜に向かう電車では混雑しても自分の身長で群衆に埋没することはめったになかった。私より先輩の方々が少し低身長でいらしたためだろう。見下ろすとまではいかなくても、窮屈な思いをすることはなかった。それが最近はどちらかといえば囲まれて埋没する側になっている。一体、自分は何者なのか。それをあからさまにしないように装いながら、結局なにもしないまま加齢の偏見にたえるようにしている。

 日本人の場合は特にそうだが、身長を人物判断の基準にするべきではない。バブル経済時代に男の甲斐性として高収入、高学歴に加えて高身長が数えられた。少なくとも第3項はすでに無意味とされているはずだ。

外国人労働者制限は妥当か

 外国人労働者の数を制限する政策が進行中だ。先の選挙では外国人労働者が日本の経済の停滞と衰退をもたらすと喧伝され、経済不振の原因を負わされた、それでは彼らが本当に日本人の職業機会を奪っていたのか。この点については個々の状況を勘案しなくてはならない。

 そもそも外国人労働者が必要とされているのは日本の産業の在り方の大きなひずみによる。安価な労働力によって商品の価格を下げることで、収益を確保するといった方法がなされる限り、自国の経済基準とは別のレベルにいる人物を求めざるを得ない。例えば外食産業は海外に比べて非常に安価に提供されているというが、その価格を維持するためにコストカットが行われているのである。これが常態化すると、報酬の少ない条件で自国民が就労する魅力が損なわれてしまう。いわゆる人手不足の原因となっている。

 ならば、価格を上げてでも労働者の報酬を確保すべきだということになる。しかし、外食は安いものがいいというこれまでに培われた考え方は容易には変わらない。結果として外国人に頼るしかなくなる。今回の外国人労働者の制限はそういった環境下にある資本の脆弱な業者にとっては致命的な痛手になるはずだ。

 このスパイラルを断ち切るためにはどうすればいいのか。まずは可処分所得を増やさなくては始まらない。日本の産業界が最も手を抜いてきたのがこれで、おそらく経済停滞の元凶の一つだ。まず金を回すことを経営陣が行わなくてはならない。資本主義においてはこれは個々の判断において行われるのだから、理想をいっても実際には行使されない。行政の指導、場合によっては規制が必要な場面もある。

 そして、消費する側の意識改革も必要だろう。安さが正義のような考え方をしている限り、この問題は止まらない。結果として質的低下を余儀なくされ、ますます産業の活力が失われる。良いものには対価を支払うという考えをしていくべきだろう。チップのようなものは不要だが、素晴らしい仕事には価格外の「礼金」のようなものを払うことが認められてもいい。その方面で収入を期待する企業は、サービスに磨きをかけることになるかもしれない。

 外国人労働者が日本の経済を破壊すると吹聴する人がいるが、現状では低賃金労働者の不足を下支えしている貴重な人材というのが事実だ。上記の条件が満たされていけば賃金が上がり、魅力的な職場に近づく。国籍による賃金格差をしなければ、従業員の国籍より、よりその企業にあった人材を選ぶ方が重視されるはずだ。

燕来る

 1週間前に実家の最寄り駅に燕が戻っているのを見た。営巣のための場所を決めているかのようだった。例年この駅には複数の燕の巣が架けられる。駅員に理解があることを燕は知っているのだろうか。

 私の住む街でも燕の姿を見かけるようになったが、凝ったデザインの駅舎には鳥の巣はない。人が多ければいいという訳でもなく、何か別の基準があるらしい。

 早口言葉のような燕の鳴き声を聞くとまた一つ季節が進んだことを実感する。

日焼け

 日中外で仕事をしてすっかり日に焼けてしまった。対策をしなかったため、見事に赤ら顔である。湿度が低かったので日陰は肌寒く、2つの季節が同じ場所にあった感じだ。しばらく好天が続く予報だ。

速読と精読

 速読するときに大切なのは文章の構造を俯瞰視することだろう。詳細まで見渡せない制約下では大体の構造を把握することが必要になる。どうなのかは分からなくとも、どのようなものかが分かれば、大間違いはしない。

 そのためには、論理の型を知っていることや、その目印となる接続語の性質を理解している必要がある。これらは普遍的な約束事であるから機械にも認識できる。人工知能の行う文章理解はこれを高速に作業した結果だろう。人間が人工知能に教えたことであるが、その手法は再び人間のものとしなくてはならない。

 精読はいわゆる行間を読む能力を要する。書いてはないがその背景にある事実、出来事、関係性、筆者や関係する人物の生活環境や感情といったものを加味していく。中には書かれていることとは別の意味が隠されていたり、暗喩の中に特別なメッセージがあることも考えられる。こうしたことを読み取るのはいわゆる速読では困難だ。批判的思考も動員して時間をかけ、場合によっては他者と読みを検討する必要もあるだろう。

 速読も精読もともに必要な方法だが、今は前者に注目がいき、AIの能力に敗北感を覚えている傾向にあると感じる。内心、文章はもう自分の力で読む必要などないとしている人も多いのではないか。精読の方法をしっかりと学ぶ機会はやはり必要である。