カテゴリー: エッセイ

クールビズの自己規制

 いわゆるクールビスに移行してノータイとなった。しかし、私はどうもこのスタイルが落ち着かない。恐らく長年着タイを強制されてきたくびきがそのような反応をさせているのだろう。

 私はそこでかつてな線引きを試みる。ボタンダウンの半袖シャツならネクタイがなくても構わない。それ以外ならタイは必要だと。これはどこのマナーでもない。自分の妥協点だ。こんなふうに決めてしまうと途端に不自由になる。今日は久しぶりに半袖で出勤したのだが、襟は普通仕様であり、ネクタイをしてこなかったことを悔やみ出したのである。

 明日はボタンダウンで出勤することだけは決めている。でも果たしてこれに意味があるのだろうか、なぜボタンダウン型ならば許されるのか。その理由が合理的に説明できない。ネクタイの呪縛に取りつかれた私の葛藤は暫く続く。

調理という個性

 最近は料理をする機会が少ない。それでもわずかな機会を捉えて料理とは何かを考えることがある。今回はその雑感である。

 調理は一種の方程式であり、代入すればある程度の解は求められる。塩コショウの量の間違いは食べるときに気になるだけのことである。なんなら、修正も可能だ。

 方程式を乱しているだけなのに、なぜか料理の出来はその都度変わる。我々の味覚というものが繊細なのか、類型的なのかは分からないが、調理の努力に関わらず、味覚の大きな変革点がある。

 調理という日常的な作業は、この点を見事に克服できている。大きな冒険をしないが確実にネイティブの心を捉える料理を提供し続ける。これがプロの技であろう。

 かくいう私は通を装いながら、実はよく分かっておらず、類型的な価値判断に頼っていることがよくある。料理に正解はないが、作る人の価値観は確かにある。

自給自足型エネルギーの時代になるのか

 大国の掲げる「正義」のために多くの国がエネルギー問題に直面している。資源国からのエネルギー輸送の末にようやく文明が成立するという図式は限界にきているのかもしれない。化石燃料を頼りに発展してきた人類史は次の段階を迎えなくてはならない。

 太陽光や風力といった非化石燃料のエネルギーはいまのところ効率が悪く、エネルギー問題の主役にはならない。ただそれは現在のインフラがエネルギー生産会社と、それを消費する企業や個人といった図式になっていることに大きな理由がある。もし自分が使うだけのエネルギーを自分で生産し、それを必要なだけ消費するのならば、おそらく違った世界があるはずだ。もちろん自給には限界があるのでその不足分をエネルギー生産会社から購入することになる。単価はかなり上がるはずだが、その分、自分の使うエネルギーの管理が徹底されるはずだ。

 一つの海峡が封鎖されただけで世界経済が大打撃を受けるのは、よく考えてみれば極めて不自然なことだ。資源国と資源のない国との格差もよく考えてみればおかしな事実である。これまでなら、このような物言いは無意味とされてきたが、たとえば太陽光発電、とりわけペロブスカイト太陽電池ような技術を使えば、大きなゲームチェンジャーになりうる。資源国が独占していたエネルギー問題の大元を、別次元で考えることができるのだ。加えて風力や潮汐力発電も可能性としてはある。

 現時点ではそんなに単純な問題ではないようだ。新しい世界基準を作る覚悟がなければ新しい制度は生まれない。理想的な世界はこうですと言っても、そのことを同感する人がどれほどいるのか。それが分からない限り論は進まない。ただ、これほど理不尽な現実に直面したいま、新しい基準への模索は当然なされるはずだ。

 太陽光というおそらく多くの方国や地域の人々にとって分け隔てなく与えられているエネルギーについて私たちは何をすればいいのだろう。地域によっては同じ効率では降り注がない太陽エネルギーを分け与える心が求められるはずだ。私たちは国家主義を維持する限り、困窮する隣国を救うことはできない。

梅雨入りは平年並み

 関東地方は今日梅雨入りした模様だと気象庁の発表があった。梅雨入りとしては平年並みだったようだ。今日は午後から雨が降り続き、梅雨入りにふさわしい一日となった。

 雨の恩恵はいろいろあるが、それよりも害を考えてしまうのが常である。湿度の高い天候は体調不良を招きやすい。これまで軽い頭痛やよく分からない不快感を時折感じてきたのはこの天候を先取りしていたのかもしれない。この前の台風は結果的に梅雨前線を連れてきてしまったようだ。

 とりあえず混線している頭の中をなんとか整理したいのだが、蓄積した疲労がそれを妨げる。内心は焦っても行動に移せない。梅雨空は高揚しすぎた情動を抑制する機会であると考えることにする。

英語が話せない訳

 私は英語が話せない。残念なことであるがネイティブスピーカーの話していることの半分は分からない。中学時代から勉強しているというのにこれは事実だ。

 ただ英語で書かれている文章はだいたい分かる。英語のブログも読ませていただいている。読むことはできるが話せない。これは日本人の英語力の特徴だろう。この関係は漢文に似ている。古代中国語は分からないのに論語も史記も結構読んでいる。ただし訓読という手法によってであるが。

 今回は言い訳をするために書いている。こんなに英語を勉強したのに話せないのはなぜか。学習法がよくないのか。努力が足りないのか。あるいは根性の問題なのか。

 おそらくそのすべてであるかもしれない。でも根本的な理由は他にある。英語ができなくても何とかなるという事実だ。日本は適度な人口があり、消費者の文化も資本経済に向いていたために内需だけで産業は成立できてきた。これがいまひとつ英語学習に専念できない理由なのだろう。

 英語が堪能な国の多くは英語力の有無が収入や地位に大きく関与する。英語は学習の対象ではなく生存のための手段の一つなのである。英語を学ぶ真剣度は自ずから変わる。もし日本で英語ができれば給料が倍になり、できなければ今の職も確保できないとなれば、英語学習は飛躍的な進歩を遂げるに相違ない。

 要するにどれだけ英語が必要なのか。それは教養の領域なのか、生存の条件なのかを考えることが学習成果の分かれ目になるということだ。これからの人生の助けにどれだけなるのか。その実感が日本人には欠けている。これは幸福なことであった。だが今後を考えると状況は変わったと言わざるを得ない。

 私たちが外国語を学習するときにはそれができないことの不利益を実感できるようにしなくてはならない。教養の一つとして覚えるというのは少なくとも私のような不真面目な者には上手くいかない。

ヒルガオ

 駅の鉄柵に絡みついているヒルガオが花を咲かせているのに気づいた。花期の長い植物であるがその勢いを感じるのはこれからの季節だ。どうやらこの列島には古くから生息していたようで、雑草の分類にするのは忍びない。

 万葉集に見えるカホバナは、いまのユウガオであるという説が有力である。カホには美しいという意味があり、その花の評価は高かったのである。現在のヒルガオと同じだとすれば、その花様に当時の人々も酔っていたことが判明する。そう言われてみれば小花は魅力を増す。

 アサガオはこの植物の下位分類にあてはまる。弱いながらも強かに生き残るのは結実よりも地下茎で冬越しする戦略を選んだからだという。放っておくと一面に広がる強靱さはカホバナの印象とは異なる。厄介だが憎めない植物の一つだ。

 

台風は去ったが

 関東地方に久しぶりに接近した台風は、風よりも雨の被害をもたらした。一時的には河川の氾濫に関する注意報が出るなど、緊迫した瞬間があった。

 台風が去ると晴天が続くという常識は、もう少し後のシーズンの話らしい。今回の台風は、梅雨の前に駆け抜けたので、この後の天候はやはり梅雨空である。台風の後は晴天続きというのはもう少し後の話だ。

 これから本格的な梅雨となる。雨量の増加は台風以上の脅威になることもある。台風は去ったがそれ以上の警戒をしなければならない季節である。

台風接近中

 今度は台風が近づいている。天災の多い国なので特に驚くべきものではないがやはり、緊張感は否めない。時折感じる軽い頭痛はこのためなのかなどと考えるがおそらくこれは思い込みだろう。

 ここ数年台風の直接的な被害を私の住む地域では受けていない。だからこそ油断が生まれているように感じてしまうのである。交通機関が止まったり、来るべき物資が滞ったりしたとき、私たちは危機感を覚える。そういう差し迫った脅威がなければ危機は見過ごされ等閑視される。交通機関の方がリスク回避を考えており、被害が出る前に運休を告知することがしばしば見られるのが昨今の状況である。

 いつ嵐が来るか分からない。どの程度どんなふうに私たちの日常を壊すのか全く予測がつかない。究極の危機、限界状況にならなければ、私たちの意識はなかなか変わらない。すでにいくつもの天災を経験してきたものにすら、油断は蔓延している。さらにこの傾向が続けば、世の中微細な変化は無化されることになる。

 次第に強くなってゆく雨足にいろいろな記憶が呼び覚まされる。どうか何事も起きませぬよう。

ヨナ抜き音階

 2019年のラグビーワールドカップは記憶に残る大会だった。参加各国の国歌やアンセムを日本人も覚えて大声で唱和するという前代未聞のことを行ったからだ。ラグビーワールドカップでは南半球の国々や、太平洋の島嶼国家、さらにはグレートブリテンを形成するスコットランドやウェールズなども常連国であり、他の競技では国歌が歌われる機会は少ない。

 そういった小国でも日本で引け目を感じることがないように、カタカナレベルではあつても、原語の発音に近づけてスタジアムで唱和したのだ。日本の応援文化を世界に知らしめることになった。

 その時、ウェールズをキャンプ地として迎えた北九州市のおもてなしは特に有名になった。ウェールズのアンセムを練習会場でも試合でも大声で歌つて選手を勇気づけたのである。いま記録の映像をみても感動的な風景だ。このアンセムの曲はとても美しく、かつ親しみやすく、懐かしさまで感じるものであった。ウェールズの曲はかなり親和性が高い。

 その理由は音階的に日本の伝統音楽に近いヨナ抜き音階であることや、明治以降の音楽教育がいわゆるケルト系音楽を中心として展開したことと関係があるという。親しみやすい西洋音楽を優先して教えたということである。ウェールズ語はまったく馴染みのないものだったが、そのメロディはどこかで以前聴いたことがあるような気がした。

 音楽の繋がりという一面を発見した案件であった。このような見えない繋がりはいくつでもあるのだろう。それを意識できれば平和に繋がるのかもしれない。

紫陽花の季節

 6月に入る前から真夏のような暑さになったが、さすがに6月となると間もなく五月雨の予感がする。ただ今年の場合は台風の接近が先行しそうで、その後に雨の季節になるのだろう。この時期の花屋の店先は紫陽花の鉢植えが並ぶ。今年見るものは一層色鮮やかで、私の知っているものとは少しイメージが違う。

 有名な話だが、紫陽花の原種は日本のガクアジサイであり、それが西洋に渡って品種改良が重ねられ、セイヨウアジサイといういまのいわゆる紫陽花になったのだという。土壌の質によって花の色が変わる性質も結果的に結果的には珍重されることになったという。

 紫陽花にはいろいろな興味深い話が他にもある。実は花と思って見ていたのは萼であって、本当の花はかなり質素なものであることや、葉には昆虫類が嫌う微弱な毒素があり、虫蝕を逃れることができるそうである。花の色は地中のpHによるが、アルミニウムの量とも関係しているようだ。万葉集にはすでに現れているが2首にとどまり、それもあまりいい扱いではない。問題ある植物としての評価がこの花の不人気の理由であった。

 いま見る紫陽花はどれも豪華で美しいが、そのようになるまでの長い下積みがあったということになる。