思考を乗っ取られないように

 生成型AIのもたらす弊害がしばしば話題に上がっている。簡単な指示だけで文章やプログラミングができてしまうAIは道具として使うのならば便利だ。ただ、人工知能として使うならば、つまり人間の思考の代替として使うならば危険を伴う。

 最近の大学生はパソコンが使えないという。もちろん、全てではなくそういう人が目立つということなのだが、頻繁に耳にすることから、少数派という訳でもなさそうだ。パソコンが使えないのはスマホがあるからだ。私の世代にとってはスマートフォンはパソコンがないときの代用品に過ぎないが、若い世代にとっては何でも一応できるスマホがあるのに何でわざわざパソコンを使う必要があるのかと思うのだろう。使えないのではなくそもそも持っていない人も増えている。技能不足の問題ではない。

自分で考えよう

 AIがその問題をより深刻にしそうだ。すでに複雑なオフィスソフトを習得するよりはAIにどう話しかけるかの方が大切だと思われつつある。日本語の予測変換のように、本人の考えそうなことを予測してしまうシステムは直にできあがる。

 かつてコンピュータが普及し始めた頃、大学の教員から最近の学生は文書や手紙の書き方を知らない。書き方を習ったことがないのかと叱責されていた。その叱られていた世代がパソコンを使えない学生に苦言を呈している。もしかしたら五十歩百歩なのかもしれない。ただ考えなくてはならないのは、思考のアシスタントをするサービスは、人間が自分で考える機会を巧妙に奪い取るということなのだ。

 思考を乗っ取られないように自戒するとともに、若い世代の思考力を高めなくてはと思う。まだ教員であるうちはこんな偉そうなことを言ってもいいだろう。

努力の概念

 芸術やスポーツに長けている人は影で大変な努力をしているという。ただ、少し複雑なことに本人には努力している自覚がさほど強くない。練習することを含めて楽しめてしまっているのだ。

 楽しいと思うことをやることは効率がよい。嫌なことを無理矢理やる1時間と、本当に好きなことをやる1分では単に時間の長さで優劣を測れないのだ。

 人に学ばせることを目的にするのならば、このことを考えるべきなのだ。いかに学ぶことが楽しいと思わせるかが教員の要諦とでもいうべきものなのだ。何を楽しいと思うかは人それぞれであるが、好きになるきっかけは与えるべきだ。それを実現できるのが本当の教育の目的であろう。

冷房サウナ

 暑い毎日を過ごしていると段々身体感覚がおかしくなる。自宅の冷房はあまり効かないのでそれほどではないが、近隣の商業施設の空調は効きすぎていて、出入りする毎に気温差に驚かされる。まるでサウナのようだなどと考えてしまう。冷暖が逆なのだが。

大衆を相手にするならば

 韓国の女性タレントが日本で性的ハラスメントを受けたとの報道が出ている。この方の存在は全く認知していなかったし、今でもよく分からない。ただ、同胞が不愉快な思いをさせたことを申し訳なく思う。痴漢行為をした輩は速やかに罰を受けるべきだ。

 日本人は、というより男という者は理性的には行動できない。男は抑圧的に日常生活を送っているものの決して理に従っているわけではない。だから、安易に男を信じてはいけない。あなたの国と同じなのだ。ファンは大切だが距離は置いた方がいい。

 一言余計なことをいうなら、日本人は手の届きそうで届かない存在をアイドルと感じる。あなたの間合いは近すぎるのだ。日本で成功するなら、近づきすぎない方がいい。握手するのに大枚を要求するのは理不尽のようで意味がある。

 昭和時代のアイドルは基本的には一人であり、事務所の意向に服従していた。キャラクターの設定からプライベートのあり方まですべて他人任せで自主性は感じられなかった。それがいいとは全く思わない。自主性のないのはよろしくない。ただ、一人のものの見方に固執しない社会を市場と捉える方法はできていたとも言える。

 大衆を相手に商売をするためにはそれなりの方法論がある。自分の価値を保つためには距離をコントロールすべきだ。それさえできれば日本で成功することはたやすくなるだろう。

 

境川散歩

 残暑というにはあまりに暑い日々だ。しかし、さすがに身体が適応してきたせいなのか午後に散歩に出かけた。かつてはジョギングしていた境川べりの歩道を少し歩いた。

境川

この川は両岸とも護岸が施されており、一部を除いて水辺に近づくことができない。だからかえって魚や鳥にとっては安全地帯になっている。小鷺や鴨の類、そして羽根の美しい翡翠もみることができた。水は澄み、夏の暑さを瞬時忘却し得たのである。

水管橋

 変わった光景としてこれまで何度も紹介してきた水管橋がある。道志川と相模湖の水を東京に送る設備だ。川の上を他の川の水が渡る不思議な風景である。

 グランベリーパークに吸収された鶴間公園に着くと文字通りの蝉時雨だ。桜並木の下のベンチでこの記事を書くことにした。木陰はやはり涼しい。

鶴間公園

 まもなく夏休みも終わりだ。何もしない時間を大切にしよう。

警報のあり方

 マウイ島の山火事の被害の甚大さが連日報道されている。そして問題視されているのがサイレンが鳴らなかったのではないかという疑問である。昨日の報道ではサイレンを鳴らすと津波と思って人々が山の方向に避難してしまうと懸念されたからという当局の釈明があったということだ。事実かどうかは分からない。

 非常時のネットが使い物にならないことは先の東日本大震災で経験した。一部のソーシャルメディアは生き残ったが電話やメールは機能しなかった。だから原始的だがサイレンは大事だ。音声で火事だと放送しても分からないこともある。パニック状況では聞き取りにくくなる。

 解決策としては津波と山火事の警報音か鳴らし方のリズムを変えることが考えられる。そして、それぞれが何を意味するのかを繰り返し定期的に広告することだ。これは日本でも早急にやらなくてはならない。

 被害を少なくするためには初動が大事だ。そのためにはハイテク以外の方法論も確立させておく必要がある。

エノコログサ

 小さな子どもがエノコログサを何本も摘んで束にして持っていた。猫じゃらしにするのだという。そんなにたくさんの猫を相手にできるのだろうか。微笑ましい姿ではあった。

エノコログサ

 植物名はエノコログサであり、実は犬の方なのだ。犬ころからの変化という。猫じゃらしとして確かに使えそうだが、先祖は犬の方を連想した。

 この植物は粟の近縁であり、その気になれば食べることもできるらしい。食料危機のために調理法を知っておいた方がいいのかもしれない。そのときは犬猫にはかまっていられないだろう。

再び酷暑

 台風の被害は甚大のようだ。私の居住地域は進路から外れたために害を逃れた。今回は運が良かったというのに過ぎない。

 台風が次の季節を連れてくると思ったが残念ながら連れて来たのはもとの酷暑の陽射しである。湿度も高く不快感が高い毎日が戻ってきた。あまりの温度差のせいかコンビニの窓が曇っていることがある。異常な結露は酷暑のもたらすものだ。冬とは反対である。

 休業期間も間もなく終わりだ。今年は読書をしているが、もう少し続けたい。寝不足のせいか、暫く読むと脳がアイドリングを始めるのが残念だ。成果は読書ブログの方にまとめることにする。

送り火は再生の儀式なのかもしれない

 かなり前に京都で五山送り火を見た。前日に銀閣寺の裏手の山を登ると、送り火のための準備が進んでいたことを思い出す。16日の夜、ビルの屋上から見たいくつかの送り火は厳かで印象に残った。

 送り火はこの世に訪れた祖霊を冥界に送り返すためにともされるらしい。大文字のような大規模なものではなくても、かつては軒先で焚火する光景を見かけた。

 学生時代、先祖祭りの行事をいくつか見たが、その多くに祭りの終了を印象づける所作があった。片付けることも含めて祭祀になっているのだ。祖霊には期間が終われば確実にお帰りいただかなくてはならない。送り火もそのためのものなのだろう。

 祖霊を返し、再び褻の時間に戻ることは新たな日常の再開を意味する。祖霊祭りは、実はこの世に残された者たちの再生のための手段なのかもしれない。

足るを知る者は富む

 景気の話であまりいいことはない。正確にはうまくいく人と、いかない人に分かれつつある。問題は後者の方が多そうだということだ。

 個人的には多少つつましく生きる方がいい。今の生活は何でも手に入りそうな気配は見せるが実際には手が届かないということが多い。だから無理して買い求めて貧しくなっていく。これは現代社会が仕掛けた巧妙な罠なのだろう。

 子供の頃を思い出してみると、必ずしも満たされていなかったのにも関わらず、何かがなしとげられたときの喜びはとても大きかった。そして何かが足りないときは自分で代替品を作った。それもブリコラージュで大体は済んだ。見た目は悪くても本人にとっては素晴らしい宝物になっていた。

 へたに安価な既製品が手に入るようになってその努力をしなくなったのは残念な展開だ。ただ、一度金を出せば買えることを知った者は、すべての幸福の素を財力に求めようとしてしまう。そして、いま経済の不調が多くの人々を貧しくし、貧しいのにかつての財力第一主義から抜け出せない。

 

足るを知る者は富む

 貧すれば鈍する現状から脱するにはどうすればいいのだろう。古人は貧の中に楽を見出すことを勧めている。物質ではなく、精神的な楽しみを見出そうとするのである。足るを知る者は富むとはよく言ったものだ。これからの生き方は足るを知ることを目指すことにしたい。