地産地消の再構築を

 福島第一原発の処理水の海洋放出をめぐって中国が日本の水産物の全面禁輸に乗り出したことがニュースになっている。日本側としては放出した処理水の放射性物質が極めて希薄なものであり、健康への懸念がないということを繰り返し説明するしかあるまい。こうした高度な科学的知見に関しては一般人にとってはブラックボックスになっている。海外の人にはもちろんだが、まず日本人に事実説明を行うべきだろう。

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 中国の対日環境については政府の意向が大きくかかわっている。おそらく核汚染が世界的な大問題であるということを繰り返し報じているに違いない。為政者がそのようなことをするのは国内の政策が行き詰っているとき、国民の関心を他にそらすための常套手段である。一般人としては言われたことを信じるほかはない。科学的な情報に関するリテラシーがなければいわれるがままである。それは程度の差こそあれ日本も変わらない。中国の場合はとにかく格差が激しいため、世界的な科学者もいれば何も知らない庶民も多い。それが日本の何倍もいる。情報統制がどれほどなされているのかは分からないが、とにかく説明を試みるほかあるまい。

海産物の中国への輸出が消滅することは大きな痛手になるが、実は日本にとっては大きなチャンスでもある。この際、日本国内で消費できる販路を確立し地産地消を実現しておく必要がある。日本人がまず海産物を消費できるようにすれば、世界的にも食の安全を保障できるし、何よりも食料や肥料などの生産サイクルを堅固なものにできるのである。今回の国際問題はその契機として活用するべきだろう。

引き出すために

 私の仕事の本質は人に何かをする気持ちにさせることである。TeacherではなくFacilitatorである。もちろんゴール設定をした上での展開なのでビジネスでいうそれとは違う。

 引き出すために何をするのか。きっかけ作りに関してもっと研究をしたい。経験上、あまり意図的なものは乗ってこない。むしろ無意識の内にやってみせたことがキューになることの方が多い。ならばプロとしてはあたかも偶然かのように学習者のやる気を引き出すしかあるまい。

 その一つはやはり率先垂範の考えだろう。やってみろという前にやってみせる。その苦労も達成感もそのまま見せることが、自分もやってみたい、自分ならもっと上手くできるということに繋がる。

 失敗が責めないことも大事だ。何かを始めるときにはどうしても失敗はつきものだ。失敗しなくては新しいことを始めることなどできない。だから失敗したことをむしろ称えるべきなのだ。そこからつぎの段階が開ける。

 適度な助言も大切だ。何から始めればいいか迷っている人には、まず歩いてみようと提案してみる。選択に迷った人には間違えたら引き返せることをいう。くじけそうな人にはこれまでの努力と夢の力の強さを思い出してもらう。それぞれの局面にあったことばをかけたい。

 他人のチカラを引き出すことは一筋縄では立ち行かない。それが面白いところでもある。

残暑と言えばいいのか

 二十四節気では処暑の段階に入っているが猛烈な暑さは継続している。今週も猛暑日になる可能性があるとの週間予報が出ている。伝統的な季節感は崩壊しつつある。残暑というのはもしかしたら、この先の暑さに名付け直した方がよさそうな気すらする。

 日本の南海上に次々に発生する台風も心配だ。

自宅以外でのデジタル文書作成

 この夏はあまりにも暑かったので、近くの図書館やカフェに「避暑」で行くことが多かった。紙の本をじっくり読むことが中心だが、やはりデジタルでメモをとったり文書を書いたりすることも必要になる。その際にはスマートフォンでは私としては物足りない。フッリク入力ではうまく入力できない。キーボードがないと入力までにアイデアが消えてしまう。

 そこで、最近ではBluetooth接続するキーボードを持ち歩いている。これは以前にも紹介したことがある。電池で動き、その寿命が長いので電源で困ることはない。

これをスマートフォンにつなげばとりあえず、入力のストレスはなくなる。キーを叩く際に音がほとんど出ないので図書館でも使えるのがよい。WindowsでもiOSでもandroidでも使えるのもいい。スマホのほうは100均で売っているスタンドにおいてディスプレイのようにして使っている。私の場合これが基本の使い方だ。

 WordやExcelといった文書を本格的に使いたいときは少し前に買ったsurfaceというタブレットを使う。これはプレゼン用に使うことを目的として低スペックのものを買ってしまったため、ソフトの起動の遅さなど10年位前のコンピュータの性能を思い出させるものだが、一度立ち上がればそこそこ使える。Windowsで動いているので基本的にはパソコンと同じ操作感覚だ。

 専用のキーボード付きカバーを追加で購入すればほとんどモバイルパソコンと変わりはない。上に紹介したものは教員が授業で使うのならこれで十分という情報のもとで入手したものだが、スペックが低いため、いざというときにうまくいかないことが多い。少なくとももう一つ上くらいのグレードがいいと思う。私はこれで十分だが。

 そして、本当に何とかしたいという場合は自宅の小型ラップトップを持ち出すことになる。1.5Kgほどあり、さらにアダプターなども入れるとそこそこ重たい。夏場はカバンをリュックサック状にして持っているので気にならないが、宿泊を伴う出張ではPCの出番となる。

 上に示したのは私が使っているのと同じくらいの性能だ。パソコンはもっと軽くて性能がいいものもあるが、予算との相談になる。私の場合はもう今あるものを使い倒すしかない。性能は低いが用途をしぼればほとんど問題は生じない。

 最近はどこでも無料のWi-Fiサービスを提供しているから、原則的にはそれを使う。気休めにVPNを通すがどのくらい意味があるのかわからない。Wi-Fiが使えないときはスマートフォンからのテザリングを使っている。少し前まではこれが大半だった。最近は公衆Wi-Fiが使えないときだけの緊急避難的な方法になった。

 東京や神奈川で生活している私にとってはこれでほとんどのことができる。あくまでもインプットをするための外出だが、アウトプットする手段も整ってきているということだ。数時間、ハンバーガーショップの席を独占していても迷惑にならない状況であれば居続けてしまう。マクドナルドの場合はコーヒーをクーポンを使って買えば150円弱だ。スターバックスやタリーズはコーヒーだけでも堂々としていられるのがよい。サンマルクカフェは電源の取れない席が多いがそれ以外は居心地がよく気にっている。もっともこれらは支店によって環境が大きく変わるだろう。

 こういったことはすでにご存じの方にとっては当たり前だろうが、知らない人には知っていればいろいろな利便性も生じることだろう。私は試行錯誤していまに至っている。このブログが本当はない書斎をデジタル上に作るという思いで作ったものだが、その仮想の書斎は自宅でなくてもいいことになる。

比喩の力で自分を救う

 行き詰った状況の時に突破口になるのが比喩の力である。現状を何かに例えると少しだけ気持ちが整理される。そのときにどのような心理が働いているのだろう。

 ここでは直喩を例に挙げる。「のような」「みたいな」などを使う比喩の方法である。今は大変な状況だがそれは「ジャンプするまえにかがむようなものだ」とか、「夜明けの前の暗闇みたいなものである」といった比喩である。これは自分の中にある悩みとか弱みを一般化することで深刻さを緩和する効果があるのかもしれない。

 ただたとえるものを間違ってしまうと逆効果になる。暗澹たるもの、終末的なものに例えてしまうと現実はそれ以上に深刻化する。自らを励ますためにはそれなりの語彙力が必要だ。明るい色合いの言葉をたくさん持っていることが自分を救う。

プロンプトも書けなくなったら

 ChatGPTなどの生成型AIではプロンプトをどのように書くかが重要な問題である。いわゆるプログラミング言語とは異なる通常の言語で指示を出すことが求められている。コンピューター言語を覚えるよりはるかにハードルが低くなったはずだが、そこには大きな落とし穴がある。

 生成型AIは今のところ言葉の意味を理解してはいない。もっとも可能性の高い言語のつながりを高速で検索し組み合わせているだけであり、書かれていないことや暗黙の了解といったたぐいのものは察することができない。プロンプトを書く場合は、コンピューターが何を検索して何を合成すべきなのかがわかるように指示しなくてはならない。これはこれで結構な国語力が必要だ。ちょっと大げさな邪推をしてみる。このまま文書などの作成をAIに任せていたら、将来の人間はまともな文章を自分で作成することができなくなるのではないだろうか。そしてAIにさえも指示が出せなくなるのではないか。

 別のものに例えてみる。車が普及する前、特権階級を除いて多くの人は自分の足で歩いて旅をした。時間はかかったが、自分の身体だけで目的地まで移動しえたことは現代人との大きな違いだ。そのため昔の人は持久力に優れていたともいえる。自動車に乗るようになった私たちは持久力を失った。原因はそれだけではないが、便利な道具ができると失う能力もある。これが足腰の筋肉ではなく、頭脳の話になると話は複雑になる。

 脳が様々な指令を出している人間にとって、言語の能力はその指令を効率よく伝えられるかどうかにかかわる。生成型AIはそのことを実に簡潔に顕在化させたといえるのだ。ならばこれからの教育の目的はAIにもわかる日本語を使えるスキルを教えるということになるかもしない。もしこれができなくなったなら、人間はAIという道具の持ち方が分からなくなるということだ。もし、そのような事態になったなら、それがシンギュラリティにあたるのかもしれない。コンピュータに追い越されるというより、人間の方が衰えていく。そういうシナリオが浮かんでしまうのだ。

 プロンプトの書き方をChatGPTに尋ねる人もいる。杞憂とは言っていられない状況がすでにある。

 

脱力してから

いつも張りつめているとできなくなることもある。実力者以上の結果を出そうとするとき、そこには無理が必ずある。無理してでも現状打破しなくてはならないこともあるが、いまはその時てはない。

脱力してから力を出した方が結果的に上手くいくこともあるものだ。急の前の緩は大切だ。8月の終わりは憂鬱になりがちだ。四月病ならぬ九月病も必ずある。それを乗り越えるには敢えて頑張らない選択も必要かと考える。

これは諦めることとは違う。時宜を考えるのだ。

監視するだけではなく

 久しぶりにTwitterにアクセスしてみた。もっともいまはXというそうでそっけないロゴになった。最近のニュースではいわゆるブロック機能をなくすという発表があったようだ。したことも(たぶん)されたこともないので私には縁がないが、誹謗中傷から身を守る手段の一つのようでそれをなくすことには疑問を感じる。

 そのXの通知をみると、不道徳とか暴力的だというコメントとともに、該当する行為をしている動画が添付されていた。なんの加工もされておらず、個人の特定ができそうだ。確かに悪質なものもあり、許しがたく感じられるものもある。ただそれを不特定多数の人に拡散していいのだろうか。あるいは投稿者の思い込みの可能性や、悪意のある加工の果てではないのかなどと考えてしまう。告発する側は匿名であるのも不公平だ。

 ソーシャルメディアが監視のために使われている。あのパノプティコンの例えを想起されるのだ。個々の正義は保たれるように見えて実は社会をどんどん息苦しくしている。公衆道徳を高める方法は告発だけではないはずだ。

今日は旧暦の七夕

 今日は旧暦の七夕である。歴史上、旧暦で七夕の儀礼が行われてきたほうがはるかに長い。今朝は雨だが、夜に牽牛と織女の星は見られるだろうか。

 七夕というと今では新暦の7月7日に行われるか、月遅れの8月7日のどちらかである。7月7日では梅雨の只中であるので、分かりやすいひと月遅れの8月7日の行事が生まれのだろう。しかし、実際の太陽太陰暦は年によって対応関係が変化し、今年の場合は8月下旬になった。

 七夕の星と言われるヴェガとアルタイルを含む夏の大三角形は今のほうが遥かに見やすい。東京ではよほど条件が揃わないと難しいが、天の川もこれらの星を頼りにして見つけることができる。

 七夕は他の節句と同じように元は中国の行事に遠因を持つ。それを日本の宮廷が行事化したものがさらに民間行事へと変化したものと考えられる。日本の場合は古事記や万葉集などに見られる棚機津女(たなばたつめ)との関係もあるとする説もある。もとは神を迎える巫女が関与する行事だった可能性もあるというのだ。さらに、禊の要素も含まれ、天の川を禊の川と考える地域もあるようだ。笹の葉を飾り、時期が終わればそれを捨てるという行いももともとはこれに由来するという。どの行事にもいえることだが、歴史ともに意味や位置づけが重層化していくのだ。

 短冊に願いを書く習慣は江戸時代から始まったと言われ、本来、詩歌や裁縫といった芸能や技能の上達を祈るものであったようだ。最近は学業の向上だけではなく、恋愛成就や平和祈願、果ては推しに会えますようになど牽牛織女の専門外の願い事まで書かれる。このスターフェスティバルとなった七夕はこれからも変化していくのだろう。今日はその本来の日であることを記しておく。