足るを知る者は富む

 景気の話であまりいいことはない。正確にはうまくいく人と、いかない人に分かれつつある。問題は後者の方が多そうだということだ。

 個人的には多少つつましく生きる方がいい。今の生活は何でも手に入りそうな気配は見せるが実際には手が届かないということが多い。だから無理して買い求めて貧しくなっていく。これは現代社会が仕掛けた巧妙な罠なのだろう。

 子供の頃を思い出してみると、必ずしも満たされていなかったのにも関わらず、何かがなしとげられたときの喜びはとても大きかった。そして何かが足りないときは自分で代替品を作った。それもブリコラージュで大体は済んだ。見た目は悪くても本人にとっては素晴らしい宝物になっていた。

 へたに安価な既製品が手に入るようになってその努力をしなくなったのは残念な展開だ。ただ、一度金を出せば買えることを知った者は、すべての幸福の素を財力に求めようとしてしまう。そして、いま経済の不調が多くの人々を貧しくし、貧しいのにかつての財力第一主義から抜け出せない。

 

足るを知る者は富む

 貧すれば鈍する現状から脱するにはどうすればいいのだろう。古人は貧の中に楽を見出すことを勧めている。物質ではなく、精神的な楽しみを見出そうとするのである。足るを知る者は富むとはよく言ったものだ。これからの生き方は足るを知ることを目指すことにしたい。

熟考すること

 何かをするときにその意味を深く考えるということは大切だ。意味を考えずにやることはときに大きな失敗を招くばかりか、周囲に多大な損害を与える。それは分かっているが実際には考えずに行動することの方がはるかに多い。

 意味を考えていたら行動に移せない。出遅れれば制せられる。そこで受ける損失を恐れて考えずに行動してしまう。中には習慣化して行動を半ば自動化していることも多い。訳を考えずに行動することは仕事をこなすスキルともみなされている。

 でもやはり、時々立ち止まることが必要なのだ。無批判に他人の言われるがままに過ごせば、いつか悪意のあるものに操られるかもしれない。そのような前例は歴史の中でいくつもある。沈思熟考のときを設ける必要がある。

雨後立ち上がる

 台風の接近で間歇的な大雨が降り出すようだ。早朝に降った雨がすでに酷暑続きのアスファルトと戦っていた。

 雨に溶かされた様々な塵埃や有機物が臭いを立ち上がらせる。違う街に来たかのような感覚がする。悪臭と片付けられない。本来のこの街の体臭が戻っただけなのだろう。

今回も借りてきた画像です

 スマホにまもなく強い雨が降るとの通知が来た。さあ、この後どうしよう。色々悩んでいる暇はない。雲が覆う前にプラスチック容器の中に入ったあまり美味くないコーヒーを出す店に入ろう。

気圧の低下

 細かい頭痛が起きている。台風接近による気圧の低下が原因だろうか。あるいはそう考えることによる「気」のせいだろうか。

 今回の台風は認知されてから接近までに余裕がある。西日本では鉄道の計画運休も発表されている。これは防災上はよいことなのだろう。ただ、それが盆休に被ったことは残念としか言いようがない。

 最近、天候異変の前に体調に予兆を感じる。気象痛なるものが存在するらしいが、私がそれに該当するのかどうかは分からない。元来、心配症なので勝手に騒いでいるだけなのかもしれない。台風が接近するたびに自分の弱気を思う。

富士山の見え方

精進湖から見る富士山

 個人の富士山のイメージは絵に描くと分かる。山頂部に水平な部分があって、台形のような形と考えている人は多いだろう。しかし、実物はかなり違う。

 例えば山梨県側から見た富士山はより急峻で野性味を帯びている。山頂部も傾いており、溶岩を流した跡が残っている感がある。現にその形跡である青木ヶ原樹海が溶岩流の広域さを推量する証となっている。

 私たちが富士山に対して漠然としたイメージをもっているが、それは現実の富士山とは程遠い。人生という単位、もしくは人類史というスケールでも収まりがつかないほどの長大な時間をかけて造形されたものは複雑であり、言語でも映像でも捉えることはできない。ごく一面をしかも省略したり誇張したりしてようやく表現できるのだ。

 私たちの目にするもののすべてが実はすべて物事の一面に過ぎないことを考えるべきなのだ。

台風の先触れ

 南から近づいて来る台風の影響で目まぐるしく移り変わる天気になっている。猛暑の日差しを時々遮る雲が、次第に大きく、黒みを帯びてきている。これから台風が近づくにつれてより一層激しくなるのかもしれない。

 今日から夏休みに入る。毎日を大切にして十分に休養したい。台風にはどうか大人しくしていただきたい。いましか休めない者の細やかな楽しみを奪わないでいただきたい。

 言っても詮無きことながら。

蒸し暑い毎日

 台風の影響でかなり蒸し暑い日が続いている。それ以前は異常な高温が悩ましかったが、今はそれに高湿が加わっている。冷房の効いた屋内から外に出ると眼鏡が曇るのは、冬だけかと思っていた温度差のもたらすものだ。

 今度の台風は南から北上し、盆休みあたりに暴風雨を関東にもたらす可能性が高いという。なんとも間が悪い。猛暑に台風の連続で、この夏は災害の多い季節となりそうだ。残念だが仕方がない。

歩行速度

 歩く速度で老化の度合いが分かるという。たしかに高齢者の歩みは遅く危うい。杖を突きながら長い横断歩道を渡り切れるのか心配になる方もいる。若者の足取りは軽く、その中間の年令の人々の足取りは人それぞれだ。

歩き方は人それぞれ

 歩行速度に年齢が出てしまうのはどうしようもない事実だ。私は自分では足が速い方だと思っていた。よく人を追い越していたからだ。しかし、最近は追い越されることが増えている。これを歳をとったから仕方がないと考えるか、負けずに後を追うかで老化の具合いは変わるのかもしれない。

 私が歩行速度が落ちているときには視線が下向きになっている。意識して上を見るようにすると、速度は落ちない。姿勢も良くなる。夏季は鞄をザック式にして担いでいるのだが背中の荷物が背骨に当たる感覚を大切にしたい。

 犬の散歩をよく見かけるのだが、犬の歩みにも年齢が出るらしい。駆け出しそうになるのを制されている若い犬もいれば、トボトボと歩き飼い主が歩みを待つ老犬もいる。犬用車椅子を装着して歩くものもいる。人同様歩くことは犬にも老化のバロメータであるようだ。歩くことは生物に取っては生存の基本であり不可欠な条件だ。いつまでも変わらずにというのは叶わぬ願いだが、せめて老化を早めることのないよう歩き続けるしかあるまい。

立秋

 暦の上では秋の始まりだ。東京は今日も暑い。酷暑に慣れてきたので、30℃は涼しく感じてしまう。大阪の最低気温が30℃と聞くとやはり今年の夏は異常であることを再認識した。

 台風の遠い影響で大気は不安定であり、複雑な雲が通り過ぎる。運が悪ければ豪雨にさらされるが、幸いその経験は7月以降はない。

 立秋と言っても名ばかりだ。将来的には秋という季節は極めて圧縮されてしまうのかもしれない。古典和歌の世界では春と秋が詠歌の季節であり、夏冬はそれぞれ次の季節の前置きのようなものだった。それが気候変動で四季は四等分されず、春秋は添え物になりつつある。

 秋の尊さを忘れないように文学や絵画に描かれた秋を大切にしたい。

見るだけ学習の落とし穴

 最近漢字が書けない生徒が増えた。いわゆる学力とは無関係に総体的に漢字力が落ちている。これは印象でしかないので調査が必要だが、先日ある会合でいわゆる進学校の先生方と話をしたときも同じ話になった。もっと言えば読むことはできても書けないというのだ。簡単な字であっても書かせるとおかしなことになるという。

 この原因はほぼ断言できる。字を書く機会が激減していることにあるのだろう。子供世代まで現在はスクリーン上で字を読み、書くときもコンピュータを使うということが多い。すると、文字を書く機会がないのである。漢字のような複雑な形をしているものは繰り返し自分で再現しなければ覚えられない。曖昧な記憶でもコンピュータの自動候補選択のおかげで済んでしまうが、詳細は分からなくなる。

 最近の子どもたちの学習で最もよく見られるのは赤いシートで文字を隠して用語を覚えるという方法である。それに対応した問題集がシート付で売られている。生徒諸君はこれを使って見事に英単語や歴史用語を覚えている。ただ、この方法は短期記憶しか形成しないようだ。テスト前の直前学習には向いているが、有効期限付きの記憶となり知識として蓄積されにくい。私たちがやるべきなのはやはり手を動かして要点を書きながらまとめるというパソコン普及以前の学習法のようなのだ。

 これは漢字や英単語、歴史や科学用語などの語彙のレベルの問題にとどまらない。思考を行う際に自分の言葉への変換というプロセスが欠けてしまっているため、複雑な考察ができにくい。分からなくなったらすぐに検索して他人の考察をつぎはぎするので、提出されたレポートは一見出来上がっているように見えるが、統一感がなく筆者の立場や主張が欠けているものが多い。それも手書きでメモを取り、自分の頭脳で再構成するという段階が抜けているからだろう。

 データの検索や分析は機械の助けを借りても、それを使って思考する段階ではやはり筆記用具を使った方法の方がはるかに効率的だ。この方法を使い分けなくてはならない。基礎的な学習段階では要点を手書きでまとめる力の育成に注力したほうがいい。教員の仕事はこの使い分けを教えることにある。

 そのためにはテストの形を変えて評価の方法を変えなくてはなるまい。用語を記憶するのではなく、要するにこれは何を言いたいのかを自分の言葉でまとめさせる解答を求めるのがよい。教員の立場でこの理想に想定される反論を考えるならば、理想的だが採点が大変であり、客観的評価が難しいということがある。記号で選べ、アが正解、の方がはるかに簡単だがこれでは「見るだけ学習」の打開にはならない。答えを自分の言葉で考えさせ、それを表現させるためには、思い切って問題数を減らし、記述させた答えを評価するための観点を確立させたうえで時間をかけて採点するしかあるまい。