輪島朝市

 富山に勤務していた頃、万葉集に詠まれている土地を訪ねるという目的で輪島や珠洲を訪ねたことがあった。穴水の民宿で一泊したあと、輪島の朝市に行った。8月の平日だったはずだが結構な人がいて賑わっていた。

 その場所が今回の震災で火災の被害に遭い大半が焼失したという。残念でならない。能登は家計を支えるため、女が店頭に出て売ったという伝統がある。あのおばさんたちはこれからどうするのだろうか。

 余震が多く心配だがやがて収まるだろう。たくましく甦る能登のパワーを期待している。必ず再訪したい。

科学のリテラシーはやはり必要

 能登半島地震に関して人工地震ではないかというエセ情報がソーシャルメディアに出ている。東日本大震災でも似たようなデマが流れたが、どうも科学的根拠が全く欠けた虚言のようだ。現在の人類の技術ではマグニチュード6以上の地震を起こすことは不可能だ。まして広範囲に地震を起こすことなどできない。

 科学者はこのことを説明してほしい。恐らくバカバカしすぎて何も言えないのだろうが、人々の不安に漬け込む妄言を摘み取るためには専門家が説得するしかない。何をやっても権力の陰謀などと言ってデマゴーグは流れ続けるだろうが、それが嘘だといえる人がその都度指摘することは必要だ。

 宇宙戦艦ヤマトはガミラス星のマグマに波動砲を撃って地殻変動を起こした。日本沈没のリメイク版で草彅剛演じるヒーローは海底火山にメガトン爆弾を透過して、列島沈没に歯止めをかけた。彼らの発想はこのレベルなのだろう。その素直な感情は人心の扇動ではなく、他に活かしてほしいものだ。

 教養としての中等教育はやはり必要だ。人間が現在の技術でだけだけの地震が起こせるのかを教えなくてはならない。また、どんな有名なメディアに乗った情報でも嘘が溢れていることも教えるべきだろう。

危機喚起

 NHKの山内泉アナウンサーの津波警報発令時のアナウンスについて考えてみた。東日本大震災の教訓を活かし、津波警報発令時はアナウンスのトーンを変え、生命の危機が切迫していることを伝えるようにしたことは知っていた。そのマニュアルに従ったものであったといえる。

 ただ、そうは言っても実際にできるかどうかは別問題だ。感情的になりすぎて伝えるべきことを伝えられなければ意味がない。アナウンサーとしては冷静に事態を受け止めながら、音声では緊張感を出して叫ぶように話さなくてはならない。プロの技を見せてもらった。

 大震災を経験していてもすぐに油断は発生してしまう。それが人間の恐ろしいところだ。津波の可能性が少しでもあれば避難するのは知っていてもそれができない。その心理を知って報道することが必要なのだ。

 NHKについて批判的な人も多いが緊急時に公共放送がなかったらどうなるのかを考えると恐ろしい予想しかできない。

能登半島地震

 元日から大きな天災が起きてしまった。能登半島地震と命名された地震は最大震度7であり、震源地付近はかなりの被害が出ているらしい。また浅い地震であったためか津波も発生し、現時点でも警報が出たままだ。

 私は富山に親戚や友人を多く持ち、その方々の安否が気遣われる。通常、あまり地震がない地域のため精神的な動揺がないか心配だ。まだ余震が続く気配があり油断ならない。関東に住む私から言えるのは、少し不安でも数日を過ごせばなんとかなる。心配し過ぎてはならないということだ。

 ただこの時期に停電や断水が起きるのは北陸にとってはかなり辛い。まずは防災のための様々な豆知識を提供すべきだろう。詳しい方はソーシャルメディアに載せてほしい。私が知っているのは、スマホや懐中電灯の光を水の入ったペットボトルを通すと乱反射して明るく感じるというくらいだ。ロウソクは危険だから止めたほうがいい。余震はいつ来るのか分からない。風呂に水を張り、捨てないでおくことも、東日本大震災でやったことだ。停電時に水道が使えなくなりトイレが流せなくなったときに備えたものだった。

 ラジオは心強い情報源だ。それを動かすための電池はあるだろうか。

 海岸付近に家のあった知人が心配だ。報じられている津波の程度なら大丈夫かと思うが、数十センチの津波でも人の自由は簡単に奪われるのが津波の威力だ。絶対に海や川を見に行かないでほしい。釣り好きの知人が海に誘われていないか不安でならない。

再起動の年に

あけましておめでとうございます

 今年は再起動の一年と考えることにしました。つまり、まだいろいろなことを諦めずにやってみようなどと考えているのです。黙っていても何かがもたらされる時代は過去のものになりました。これからは稚拙でも自分で作っていくしかありません。手持ちの材料でこれまでにない感動を手に入れる。これが今年のテーマです。ブログをいつも読んでくださる方の幸せが実現する一年になることを心よりお祈りいたします。

2023年のブログの復習

世間では

 読売新聞の発表した今年の主なニュースをみると、逮捕、トラブル、失敗、不正という記事が多い。これは事件を報道する新聞である以上仕方がないことだろう。それにしても政治家の逮捕や罷免は多すぎる。また東京オリンピック組織員会の談合、電力会社のカルテル、ビッグモーターやダイハツなどの企業の不正疑惑などいろいろ問題が多すぎた。

 信頼を裏切られるのはつらい。マイナンバーカードのトラブルの連続はデジタル社会の脆弱性を露呈した。ジャニーズ事務所の性加害問題はアイドルに対する夢を打ち砕く大問題だった。

 いいこともあった。何よりも新型コロナの5類以降は非常事態からの脱却の糸口になった。社会を覆った不安のもとが取り除かれたのは大きい。いいことなのか分からないが東証で株価が33年ぶりに33,000円台になった。日本の経済に関しては不安要素の方が大きいが、それでもコロナ禍を脱して次に進む気配は見えてきた。

 スポーツは目覚ましいニュースが多かった。何年ぶりの優勝というのがニュースになった。WBCは大谷翔平らの活躍によって14年ぶりに優勝した。阪神は38年ぶりに日本一になった。優勝間隔の長さならば慶應義塾高校の107年ぶりの優勝というのが突出していた。

 そうだ。何よりも印象的なのにすっかり慣れてしまったために忘れていたが今夏の平均最高気温が史上最高だったことも今年の印象的な出来事だったといえる。

 以上は前置きで、今日は自分のブログの復習だ。各月の記事の中から自分なりに一記事選んでみた。中にはほとんどアクセスがなかった記事もあるが、私としては思いを込めたので再投稿する機会を無理やり設けたというわけである。

1月

 1月の記事では「異次元」という言葉を批判した記事をあげたい。岸田首相が連発する刺激は強いが実態のない政策のキャッチフレーズに疑問を呈したのであった。少子化対策に対して使われた異次元とは結局何だったのだろうか。

2月

 今年は生成型AIが大きく普及した。職場にもChatGPTが導入され、事務的文書はそれで書いてもいいというような指導があった。しかし、このシステムには大きな弱点もある。それを「短歌を教える」という記事で書いてみた。このテーマはその後も何度も書き直している。

3月

 スポーツ観戦の仕方もコロナ時代が明けて過去のものが戻ってきた。WBCでのスタジアムの在り方はそれを実感させるものであった。ただ、日本の野球の応援方法にはこの際グレードアップした方がいいのではないかという意見を書いたのが「応援の仕方」だった。

4月

 コロナの5類以降を間近にして世間ではリモートワークを段階的にやめていこうという動きが出ていた。もっとも私のような仕事はかなり早くからリモートとは無縁になっていた。数年間、避けられていた密集のシンボルである満員電車が戻ってきた。当初はその状態に圧倒されている新入社員らしき人を多く見かけたので書いたのが「満員電車の乗り方」というおせっかいな記事である。

5月

 教員不足が問題化してたびたび報道された。これは10年以上前から予測されていたことであり、はっきり言って行政のミスである。形ばかりで関係業者にとっても迷惑に過ぎなかった免許更新制度の失敗を今ほとんど指摘する人がいないのはなぜだろう。

6月

 生成型AIはマイクロソフトやグーグルという大企業の競争の道具に取り込まれている。いまやEdgeを立ち上げるだけでチャットがいろいろ答えてくれるようになっている。ますます考えなくなっていく人類に未来はあるのだろうか。そんなことを「副操縦士」に書いてみた。

7月

 朝のドラマの影響ではないが、植物に関心をもったのも今年の一面である。道端や公園にたくさん生えているナスによく似た花をつける「ワルナスビ」だが、命名は牧野富太郎であった。この植物は相当なワルらしい。

8月

 デジタル機器が学校に普及して教育が進んだかといえばそうでもない。特に深刻なのが文字を書く機会を奪ったことだと考えている。その端的な現象が漢字能力の低下である。それを「見るだけ学習の落とし穴」で書いてみた。

9月

 とにかく暑く長い夏だった。おそらく将来は四季ではなく二季になるのではとさえ思ってしまった。パソコンの画面下にでる今日は史上最高気温になるといった文字にうんざりしていたときに書いた記事である。

10月

 インボイスという一見合理的だが、実態にはあっていない税制の改革に疑問を持った。たまたまその直接の影響を受ける方とのお話ができたので書いた記事である。私もいまはサラリーマンであるがこの後のことを考えると他人ごとではない。

11月

 世の中は過剰な音楽と光に満ちている。感覚過敏な人に配慮したある商業施設の配慮にいたく共感してこんな記事を書いてみた。いまも時々そう思う。そのBGMいるのか。明るすぎないか。

12月

 実は世間には人知れず善行を積んでいる人もいる。ニュースにでるのは極端に悪いニュースか自分には手の届かないような偉業を達成した人のことばかりだが、身近に利他的な行動を誰にも誇らずに続けている人がいるのだ。自分もそうでありたいと思いながらいまだに全くできていない。

 振り返ってみると、その都度言いたいことを書いてきたが実際に自分が何かを成し遂げたという記事がほとんどない。これがこれからの課題だ。もう人生の後半の後半に入った。体力が落ちないうちにやるべきことをやっておかなくてはならない。

 以上、自分では力を入れて書いたがあまり読まれなかった記事を再投稿した。心ある方はリンクをたどっていただければ幸甚極まりない。それでは皆様よいお年を。あなたにとって来年はきっと素晴らしい年になります。

禍い転じて

 この一年はよくないことが数多くあった。運気とかそういうものがあるとしたら下降傾向が続いたと言える。辛い思いは持ち前のとぼけで切り抜けてきた。多くの信頼を失ったかもしれないが、それよりも日々を切りぬけることでやっとだったのだ。

 よかったこととして、こうした谷底に耐性がついたことがある。滅多なことでは動揺しない。ずうずうしい粘りを獲得できた。これは大きな収穫だ。

 下がるときがあれば次は上昇だ。来年はその登り竜にあやかりたい。まずは小さな改善と挑戦を積み重ねよう。こういう点に関しては予感はよく当たる。大きな成功は要らない。日々を明るく、人様に迷惑をかけず、僅かでもお役に立てるような一年にしよう。

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今年の投稿から

 相変わらず自己満足で書いているこのブログであり、読者のことは考えずに自分勝手なことを書き続けている。だから何度もアクセスしてくださる方には感謝に耐えない。本当にありがとうございます。そしてlikeを付けてくださる皆様にはさらなる感謝を。きっと来年は幸せが訪れますなどと無責任なことを言ったりする。

 さて、アクセスの多かった(といっても本当はとても少ない)投稿からいくつか振り返ってみる。

 4月25日の「不安」はプロンプトにこたえたものだ。不安はよろしくないが適度に不安を感じていることは大切だというようなことを書いた。

 10月22日の「海の異変」は温暖化が原因と思われる海産物の異常を取り上げたものだった。今年も魚の大量死や迷い込みなどのニュースが多かった。

 3月17日の「高層マンション」は建設が進む高層マンションのリスクマネジメントに対して懸念を示した記事だ。

 こう並べてみると不安や心配ばかりだ。他にもいろいろ書いているつもりだが、これが今の自分を表しているのかもしれない。来年は夢や希望を書いた記事が多く読まれることをとりあえず希望してみる。

理だけでは人は救われない

 イスラエルのハマスに対する執拗すぎる報復に日々驚くばかりだ。テロリストを根絶するという大義名分のもと一般市民ごと根絶しようとしているかのようだ。戦争とテロの違いがよく分からなくなっている。大義は双方にあり、その利害が正反対にあるだけだ。非戦闘員を巻き込んでも仕方ないと考えているのも同じように見える。

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 これだけの戦闘を続けられる資金力があることも不思議だ。双方にはそれを支援する国家や組織が存在している。アメリカはユダヤ人社会への配慮として伝統的にイスラエルを支援し、中東の一部やエジプトはムスリムの仲間としてハマスにおそらく相当な支援をしている。だから、いつまでも終わらない。イスラエル建国に関してイギリスがとった不適切な外交策がこの地域の混乱の原因であるというのは歴史上の常識だが、現在に至るまで地域外の利害関係が絡んで戦争が続いていることになる。

 人類にとって大きな皮肉なのはこの地が宗教的な聖地であるということだろう。本来、人間を救済すべき宗教が人々を分断し、戦わせる原動力となっている。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教ももとをたどればつながっているのだという。クルアーンの中にはイエスが預言者の一人として登場しているらしい。これらの宗教について共通するのは一神教であるということだろう。つまり神は一つであり、排他的な考えを持っているということだ。自分の神以外は信じないだけではなく、認めず排除しようとする。これは歴史上繰り返されている真実だろう。

 多神教の国が平和であるかといえばそうでもない。ヒンドゥー教を信奉するインドが多くの民族紛争を経験していることはよく知られている。カースト制などの分断を許容する信仰の体系が問題なのかもしれない。多神教国家として世界的に特異な位置づけにある日本も太平洋戦争の当事国であり、他国への侵略も行った。でも、この時代はよく考えると天皇を神に見立てた疑似的一神教を国家として作り出そうとしていた。戦国時代の武将たちも、何か一つの神や仏を自身の守り神に見立てたり、徳川家康のように自らが神となることで幕府の求心力を保とうとした。どうも一神教は権力との親和性が高く、また戦争の際のイデオロギーにも転換されやすい。

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 同じく長く戦争を続けるロシアとウクライナの戦争においても、先日クリスマスに関して興味深い報道があった。同じくいわゆる東方教会の流れをくむキリスト正教会を信じながら、ウクライナはこの派が行うクリスマスをユリウス暦に基づく1月7日ではなく、グレゴリオ暦の12月25日に変更して祝祭を行ったという。明らかにロシアに対抗する姿勢をみせたということだが、信仰を同じくすることが戦うことを阻害する要因の一つであることを示す例だともいえる。

 宗教が苦難の人々の精神に働きかけ癒しや救いを与えるという点においてはおそらくほとんど共通するのだろう。ただそれが体系化されていく中で組織としての論理が働く。組織を維持するために排他的にならざるを得なかった歴史を経て、それが定着して戦う理由になってしまっている。これは人間の悲劇とでもいうべきものだろう。神を信じられることは人間の叡智だ。神を捨てると人間は勝手なことを始める。科学技術が地球環境を破壊し続けているように人間の力を過信してはいけない。それを思いとどめさせる制御装置として神は不可欠だ。ただ信じるために勝手なルールを人間が作り出してしまっては恩恵は得られない。

 中東の戦争は私が生まれる前から続いており、その遠因は古代に遡る。分断してしまった民族、宗教をどのように繋ぎとめればいいのだろう。兵器に金を使うのはもうやめて、この方法を考えることに投資をするべきではないか。荒廃したガザの風景を報じたニュース映像を見てそう痛感する。そしてこれは中東地域だけの話ではない。世界中で起こりうる未来の姿なのだ。

The ongoing relentless retaliation against Hamas by Israel is alarming. The distinction between war and terrorism has blurred. External interests perpetuate the conflict, rooted in historical and religious complexities. The irony of religious conflicts persists, as faith becomes a divisive force. The need to address root causes and invest in peaceful solutions is imperative.

区切りを重視する日本文化

 おそらくどの国、民族にも当てはまると思うが、日本文化でも区切りを重視する傾向がある。例えば、季節という概念である。実際は自然はその時々の条件で少しずつ変化し、循環しているというのが事実だろう。ただ、その循環の過程のどこに関心を持つのかは民族の嗜好があらわれる。日本の場合は春夏秋冬という四季に分節した。これはもちろん漢字文化の制約も受けているが、日本の気象にあわせて意味づけされてきたことに注目しなくてはなるまい。

鶴間公園の夜桜 2023年3月撮影
鶴間公園の夜桜

 四季といっても実際には四等分にはならない。例えば、梅雨の季節は果たして春なのか夏なのかを判別するのは困難だ。季節の行合にはどちらともつかない要素がある。それを節気のような概念を持ち込んで無理やり四季を認識する。だから体感とずれていても知識の上での分節を重視する。暦の上では春だが、などという言い方はよくなされるし、古今集巻頭歌のように文学の題材にもなってきた。

 時間の区切りの最たるものは年である。現在の暦で1月1日は冬至を少し過ぎたときであり、取り分けて大きな気候上の変化が少ない。動植物も多くが活動を不活発にしており、体感上の節目は感じにくい。桜が咲いたり、雨が降ったりといった変化が乏しいのだ。だからこれは身体で感じる区切りというより、人工的なものなのだ。

 敢えて区切ろうとするのは知恵のなせるわざに相違ない。とにかくいまの問題は一度過去のものとして現在と切り分けようとするのだから。この叡智に従うべきだろう。あまり冴えなかった一年に去年というラベルを貼り、新しい一年に賭けよう。