仕事はまったく終わらなかったがとにかく仕事納めになった。やり残していることはたくさんある。でも、一旦リセットしよう。この休みはずっとサボっている家のことや、健康維持のための試みをしよう。
最後まで言い切る国語力の重要性
最後まで言い切らないのは奥ゆかしさであり、日本では美徳とされている。しかし。意図的に言い切らないのと、能力がなくて言い切れないのではまったく様態が異なる。最近は「言い切れない」事例が増えているような気がする。
細かなニュアンスを避け、大づかみにものをいう場合に「~的」とか「~系」といった表現で済ませてしまうことはよくある。「みたいな」「っぽい」のような口語表現も含めるとかなり多い。さらには例えば「東京に住んでいる人々」を「東京住み」とまとめる表現もよく見られる。これらは会話の中で 使う分には問題ないし、同じような言葉を使う仲間内ならば親近感を高める役割も果たせる。しかし、これをそのまま文章にしてしまうと誤解が生じる可能性がある。口語的表現と書き言葉の差はまだあるのだ。
書き言葉に会話体的な表現が多用されるようになったのはソーシャルメディアへの書き込みが普通になったことによるのだろう。それらのメディアで展開される言葉遣いは独自の進化を遂げて話し言葉でも書き言葉でもない表現を多数生み出している。ネットスラングともいうべき表現は、これも一種の仲間意識を高める言葉であり、ジャーゴンなどと呼ばれる言葉の一種である。
四六時中ネットにアクセスしている世代にとってこうしたネット上の言葉は、日常生活とは別の次元における言語表現になっている。話し言葉でありながら文字として入力せざるを得ないという事情が独自の表現をつくり出した。そして時々それが日常生活に降りてきて、リアルな生活の中で使用されているのだ。
幅の広い、おおざっぱな表現はネットでのチャットに向いている。多くを入力しなくても読者が察してくれる安心感がある。それを繰り返しているうちに明確な表現を工夫することを忘れていっている気がする。さらに生成型AIが文章を書くようになるとますます私たちは物事をきっちりと言葉で考えることをしなくなるのかもしれない。これは大問題であろう。
物事を言語化して考えないとなると、判断は感情的になりやすい。また、論理的な思考を踏まなければ時々の判断は、その都度刹那的に消えてしまうことにつながる。経験がのちに生かされることもない。だからどんなに野暮だと思われてもしっかりと言い切ることは大切である。そういうことを教えられるのは中等教育の期間だろう。本当は作文やスピーチの指導にもっと時間を割くべきなのだろう。
x年前の私
グーグルフォトに同一人物の過去の写真と最近の写真を並べてコラージュのような映像を自動的に生成する機能がある。これはアプリが勝手に提案してくるものである。
他人の場合は冷静に楽しめるのだが自分となると少し具合が異なる。年々容姿が老いてゆくことを認めざるを得ないのである。これはときに残酷でもある。
最近、鏡でまじまじと己の顔を見ることがあった。いつもはあまり見ない。おまけに視力が少しずつ低下しており、細かな部分は見えなかったのだ。それがいわゆる女優ライトで見ると老化の紛いなき面が浮かびあがった。ぞっとしたがいかんともしがたい。
過去の写真を時々見せられるのはこういう衝撃を和らげるための予防対策だと理解した。ただ何事も忘れっぽくなっている私は、1時間後にはこのことを忘れている。そしていつまでも心の中では若いときのままだと思い、そのように振る舞っている。だから、多少無理をすることも厭わないし、そうでないとおかしいと考えてしまう。
自分の身体と自分の精神が一致するのは意外にも難しい。でもこの思い違いは案外大事なものかもしれない。敢えて心まで老け込むことは必要ない。暫くは大いに誤解しておくことにする。
大雪のニュース
元天皇誕生日
今日は上皇の誕生日である。ご高齢故にお身体にはお労りいただきたい。亡き父とほぼ同年齢でいらっしゃることを思えば、いろいろと思うことがある。いつまでもお健やかでいらっしゃっていただきたい。
平成時代のこの時期はいろいろあって大変だった。不景気と震災はこの国の凋落を予感させた。いまも状況は変わらないが、我々に耐性ができたことと、イノベーションの期待から最低の気分は脱している。
うまくいかなかった時間は飛躍のための準備であると信じて腐らずにいたい。私もまた身体的な減退期に入っているが、無責任に夢を語る癖は衰えていない。続けていればなんとかなる。遠くの場合、これは当てはまる。
上皇陛下にはこの国の復興の様をお見届けいただきたい。
眠くなる薬
風邪を引いて医者から処方された薬は乱暴な言い方をすれば麻痺を誘うものだった。脳の中枢に働きかけ咳をし過ぎないように促す。少しくらいの喉の腫れにいちいち反応するなというのであろう。
これには副作用があって、倦怠感や眠気をともなうと薬剤師が説明してくれた。他にも便秘などいくつかの症状が現れることがあるとも言った。そう言われても飲むしかない。いまは風邪を治すことの方が優先されるのだから。
果たして服用後は極めて眠くなった。仕事なので寝るわけにもいかず何とか起きていると次々に幻覚が起きる。そこにいない人の姿が見えたり、声をかけられたりする。私は夢を覚醒時にあまり覚えていないのだが、これは醒めながら夢を見ている状態と察した。いくら我にかえってもまた繰り返すので、いつもと違う共有空間で仕事の続きをした。副作用とはかくなるものと思い知った。
服用中は運転や機械の作業をするなという注意は疎かにできないものと再確認した。
クリスマス寒波
今季になって最大級の寒波が南下し、北陸では大雪になっているらしい。20センチ積もったという。東京で同じことが起こったら機能不全に陥るが備えのある地方ではほんの序曲に過ぎない。水分の多い重い雪というから、建物への負担が懸念される。雪下ろしで事故が起きないことを祈りたい。
この時期の寒波をクリスマス寒波などと通称する。雪の少ない地方にとっては降雪は嬉しいが、北陸などではできればクリスマスは降らないでほしいと願う。静かにサンタクロースの乗った橇のやって来る音を聞くというイメージは、北陸にはなかった。叩きつけるような雪とときに雷鳴が響き渡る。Silentではないナイトだった。
気候変動のせいか夏日の幅が広がり猛暑が続いた。こういう年は豪雪になりやすいとも聞く。まずは神頼みで穏やかなクリスマスを願う、
時代劇の効用
YouTubeでたまたま表示された昭和の時代劇を見てみた。いわゆる勧善懲悪の定型の内容だ。すぐに別の動画に移るつもりだったが、最後まで見てしまった。
ストーリー展開には荒いところもあり、人物造形も典型的なものの連続だ。それらは気になることであったがそれよりもなにかを引き付けるものを感じた。恐らく日本の文化に基づいたこうあるべきというすじ運びができているのだろう。落語や講談の展開と似ているからかもしれない。
悪はどこまでも悪で、それに虐げられた人々は救われるべき弱者として描かれる。そして悪役が崩壊するときの爽快感を主役が演じて見せる。こういう展開は現実にはめったにないのに、時代劇では必ず達成される。爽快なのだ。
時代劇の話には日本人の伝統的行動様式が反映されている。ある意味、これらを通して和風を学んだともいえる。いまの若い世代にはこの機会が少い。昭和のマンネリといわれた時代劇にも実は私は効用があったと私は考えている。
風邪ひき
郵便料金値上げ
日本郵便は定型内の封書の最低料金を110円に値上げすることを発表した。はがきも85円になるという。最近は手紙を出す機会が減ったが、やはり大切なやり取りは紙で行っている。値上げは様々な面に影響を及ぼす可能性が高い。
実際に手紙を出そうとするとまず切手の販売がコンビニエンスストアなどで行われているから、そこまではよい。ところが投函できるポストが十分になく、それが躊躇の材料になる。また収集の回数も減っており、最終の収集時間が夕刻である場合、帰宅時に投函すると翌日に郵便局に行くことになってしまう。
要件だけ伝えるのなら電子メールの方が何かと便利だ。同時に何通も出せるし、かさばらず紛失もしにくい。検索可能なのもいい。ただ手紙の質料には代えがたい価値がある。それだけしかないというモノとしての価値を感じられるのは手紙のいいところだ。
あるメッセージのためにいろいろなものを総動員して書き上げる手紙の大切さを忘れないようにしたい。