投稿者: Mitsuhiro

高温多湿

 今日は町中で体調を崩している人を何人か見かけた。ひところの異常な高温はなくなったが、それでも普通の夏の気温はある。9月も半ばになった今の天気としてはやはりおかしい。

 加えて今日は湿度が極めて高く、暑さが身体にまつわりついてくるような感覚に捕らわれた。いわゆる不快指数が高い1日だった。私は数日まえから多少体調の不調を感じているがそれは私だけではないということだ。

 さすがに日没時間が早くなることに夏とは違うと思うのだが、まだ油断ができない日々が続く。

老人の概念の変化

 敬老の日であったが、実はもう人ごとではない。律令制では数えで60歳以上を老と呼んでいる。今より平均寿命がはるかに低かった時代においてはこの歳まで生きられた人は限られていたはずだ。

 現代は衛生環境、医療などの進歩で60歳は労働人口に含まれる。一部の業種では定年の年齢とされるが、実態に合わないので見直しが必要とされている。

 100歳以上の人口がまもなく10万人に達するという。65歳以上の人口は3619万人で全人口の29.4%に達する。対して昨年の日本での出生数は686,061人であったというから少子高齢化が急激に進展することは避けられない。古代において老人の区分となっていた人々が扶養される側にならず、できる限り自立して生活できる仕組みを着実に作らなくてはならない。

 老害などと年配者を非難しているだけでは埒があかない。そういう自分も必ず老いるのだから。歳に応じて何ができるのかを各自が具体的に示していかなくてはならない。少なくとも70までは自己開拓できる社会にしなくてはこの国の未来はなさそうだ。

四拍手

 ハーンの「日本の面影」を読んでいる。日本の前近代的な伝統に興味を持った彼は、西洋文化に営業される前の民俗に注目しており、この著書にも様々な当時の習慣が描かれている。その中で、神社に参拝する人たちが柏手を4つ打つということが書かれていた。

 聞き間違ったのではないかと考えた。神社参拝の作法は二礼二拍手一礼と多くの日本人は考えている。拍手のことを柏手というのだ。その常識とは異なっている。

 でも、ハーンが暮らしたのは現在の島根県松江であり、この地域の参拝方法では現在でも四拍手なのだそうだ。ハーンはそれを描写していたのである。出雲大社では大祭のときは八拍手をし、それ以外は四拍手とするという。出雲大社が独自の信仰形態を持っていたことは古事記の伝承にも、他との違いが感じられることと関連するかのようで興味深い。

 西洋文化とは異質で当時の日本の知識人たちからは旧弊のように考えられていた日本の民俗文化に、どうしてここまで深い関心をハーンが持ったのかは興味深い。

AIの作る実写化

 動画サイトを見るとアニメのキャラクターを人工知能で人間の姿に変換する企画をしばしば見る。それを見るとかなり納得がいくものとそうでもないものとがある。

 女性キャラクターはどういうわけか皆似たような姿になる。いわゆる平均顔が美人だが個性がないという、その状態である。男性キャラクターも同様で、誰かに似ていると思うが誰にも似ていないという姿だ。

 極めて典型的なキャラクターが並ぶと、一見理想的なものと見えても、どこか胡散臭い何かが漂う。漫画とかアニメとかの登場人物の設定は、それと分かりやすい極端な設定になるはずだ。でもそれを現実の姿に再現しようとすると違和感が立ち上がるのは、なんとも不思議だ。

 恐らく現実の持つ不規則性、非対称性のようなものが私たちにとっての自然なのだろう。どこか欠けていることがあることこそが本当は大切なのだ。

第一印象

 初めて接したモノやコトに対して抱いた印象は大切にするべきだと考える。それが結果的に思い違いであったとしても、そのときどのように感じたのかを覚えておくことには意味がある。それは対象の評価というより、自分自身が対象とどのように関係したのかを示すことになる。

 個人的な経験では、第一印象がそのまま対象の評価に結びつくことはあまり多くない。大抵はその後の展開で大きな価値観の変更を迫られる。その後に形成されたイメージが対象に対する考え方を形成する。

 ならば第一印象は無意味なのかと言えばそれは違うといいたい。さまざまな条件を配慮せずにこうだと思ったというイメージは時にはその本質を考える材料となる。理屈ではない何かが大切なのだ。

 ただ、この第一印象は極めて短命で風化しやすい。さまざまな要因で変化しやすい性質を持っている。そして、それがいかに衝撃的なものであれ、すぐに新しい印象に上書きされてしまう。だから、そのときどう見てどう考えたのかはかなり意識的に記憶しなくては残らない。そのためにも未完成の評価を記録する方法があればと考えている。

雷雨

 関東南部は激しい雨と雷のために交通機関に大きな影響が出た。幸い私の使う路線は遅延のみであったが、かなり長い時間運行停止の路線もある。局地的な雨であったため、路線ごとの違いが際立ってしまった。

 ここまでの猛暑の影響なのか。およそ東京とは思えないほどの大雨である。排水が間に合わなくなった地域は冠水した。短期的な集中豪雨のための対策は課題である。地下道への雨水流入を防ぐために何をすればよいかも考えておかなくてはならない。

 私の使う駅にはごく小さな土嚢のようなものが置いてある。それをどのように使うのかについて、告知することも必要かもしれない。係員がその場に駆けつけられる保証はないのだから。

 災害はいつも不意打ちだ。予告がなくても何ができるかを考えることは、災害大国で暮らす私たちにとっては不可欠の知恵である。

楽器の仕組み

 音楽を奏でる道具である楽器の種類は数しれない。オーケストラでよく使われる楽器だけでもかなりの種類がある。私は個人的にギターやウクレレなどを弾くことがあるが、同じ名前の楽器の中でもかなりのバリエーションがある。

 楽器の仕組みが表現の幅を大抵決めてしまう。喜びの歌か、悲歌というべきものなのかは、演奏の直前に決まる。その楽器の表現できる幅が表現の仕方を規定しているといえる。もちろん、奏者の技巧によってその幅は大きく変わるのだが、そしてその技巧こそが芸術の核なのだが、大枠を決めているのは楽器の構造である。

 私はギターやウクレレを下手ながら時々演奏する。この2つは起源をともにし、奏法も似ているのでほとんど何も学ばずに両方の演奏が可能だ。だが、これらの楽器にはそれぞれの持ち分のようなものがあって、音色とか響きというものは独自のものがある。

 楽器が異なれば出せる音が異なる。その持ち味をそれにふさわしい楽曲で活かすのが音楽なのだ。これは楽器だけの話ではないだろう。

重陽節

 新暦の重陽の節句は秋の気分はまったくない。まして今年の場合は残暑というより猛暑そのもので風情も何もない。古代中国では奇数を陽の数としており、一つの数字な奇数の中では最大の9が重なるこの日は逆にあまりに陽が強すぎて不吉と考えられたらしい。その邪気をはらうための行事がこの節句の由来という。

 今年の場合、旧暦9月9日は10月10日になる。その頃になればおそらく秋色深まり空気も変わっているはずだ。この節句に欠かせないのが菊の花である。菊に薬効があるのかは分からないが、重陽の節句に菊の花は浮かべた酒、もしくはそれを浸して作った酒を飲むとよいとされていた。

 何を信じてよいか分かりにくい世の中だが、伝統的な行事は科学的根拠はなくても何か別の意味で大切なものがあることを考えさせる。

説明しよう

先日読み終えた本に気になる表現があった。私の感覚では「なぜなら」という接続詞を使うところで、ことごとく「説明しよう」という表現が使われているのだ。これはある種の語りでよく使われる表現で、不可思議な現象を後付けで有意義にするときに多用されたものである。私の世代では納得するというより、そうきたかという設定の妙を感じさせる言葉だ。




 説明することは自分の言動を理論化することに役立つ。単なる一過的な思いつきではなく、確固たる意見なのだと披露することが説明の本義だ。説明することによって自らの意見の価値が確認できるし、他者を説得することができる。また批判を受けてより良い意見に修正できるきっかけとなる。

 だから「説明しよう」を日常的に多用することは悪いことではない。他者の賛同が得られるか否かは分からない。でも、そのための努力をすることは自分自身にとってもかなり意味があることだ。

 最近はこの説明する努力が軽んじられている。人工知能がもっともらしい説明をしてくれるので、それ以上の可能性を考えることをはなからしなくなっている。「説明」よりも「結果」が優先すると考えられているからかもかもしれない。

それならば私は若い世代に「説明しよう」を流行り言葉にすることを提案したい。自分の考えを他者に認めてもらうことは容易ではない。それによって自らの考えが深まり、他者の批判が強度を高める契機になるのならば、無駄な努力などではないのだから。

直接体験がものを言う

手触りは特別な感覚である。直接触れるということ自体が貴重であり、その場にいるという事実が大切になってきていると言える。

ネットで検索すれば、最近はAIが期待する答えを先回りして答えてくれる。大変便利ではあるが、あくまでも機械がやってくれることなので、達成感は得られにくい。それ以上の知的欲求を喚起されないのだ。どうもこの欠落は情報の知識化を妨げるようだ。

これからの時代にはどれだけ直接的な体験を積んできたのか、それに関わる別の事象を類推できるのかという能力が大事になるかもしれない。経験から培われた感性が判断力を形成する。人工知能にプロンプトを送る際に必要なのはテクニックだけではない。

体験が大切というとこれにもさまざまな問題が指摘される。経験を積めるだけの余裕がある者とそうでない者との格差が出てしまうからだ。豪華な旅行に何度も行ける人とそもそも労働以外の時間がない人では差が出てしまう。

大切なのは経験の表面的な差ではなく、その中から何を感じとるかなのだろう。日常の中からもそれは可能だが、感じたことを言葉にし、記憶に止める力は教育によって獲得できるはずだ。