投稿者: Mitsuhiro

自然にリュックが開かないように

 先日、運転していたらバイクが歩道寄りに突然停車して、降りた運転手の青年が歩道を歩いていた女性のもとに駆け寄るよるのが見えた。少し緊張して見ていると青年は女性の背負っていたリュックのファスナーが半開になっており、閉めた方がよいと告げているようだった。女性は何度もお辞儀していた。

 私もこの女性と同じようなことをかつてはよくしていた。多めに荷物を入れてしっかりとファスナーを閉めないと、少しずつ開いていってしまう。背後にあるので気づかず、ものを落としたり、盗難にあったりする可能性もある。

 そこで私は簡易な鍵を作って留めることにした。百均などで売っている小さなカラビナをファスナーの引手に一つずつつける。なるべく小型の方がいい。私のは4個で税抜100円だ。これをファスナーを閉めた時にカラビナ同士も掛けて置く。すると万一ファスナーが開き始めてもカラビナが止めてくれるのだ。留めるのは簡単で、外すのはそれに比べると少し手間なので鍵としてもちょうどいい。

 カラビナをものを吊るために使っている人は多い。こんな使い方もあるという紹介をしてみた。

コンピュータ読み上げの影響

 コンピュータによるテキストの読み上げの技能は年々向上している。すでに人間との判別が難しい域まで発達したものもあり、感心してしまう。

 ただ、詳細についてはいろいろな問題点がある。漢字の読みを間違えて読む場合はもっとも分かりやすい。最近動画サイトにこの間違い読み上げが非常に多いのだが果たして情報発信者はそれが間違っていることを知っているのだろうか。

 アクセントの問題になるとよりあやしくなる。例えば地名の場合本当のアクセントはどうなのかは、非常に分かりにくい。有名なの静岡県の磐田市だ。地元の読み方を関東地方のほとんどの人は間違っている。

 これを機械に読ませるとより複雑な事態になる。現地の読み方と東京人の読み方に加えて機械の読み方が並立するからである。何を基準とすべきなのか。もう何も分からない。

 コンピュータはAIなどの操作を通して、万能と考えられている。しかし、法則に則ったやり方は意味や習慣の問題を軽視しがちだ。読み上げという作業にそれが表れるのは象徴的である。

NHKはネットにどう対応するのか

 来月から放送法が変わり、放送局にもインターネットでの情報発信が義務付けられる。NHK ONEというサービスではネットによる同時配信が始まる。いままでは放送時間終了後、もしくは時差で配信していたのが、テレビの代わりにスマホで番組を観ることが可能になる訳だ。

 便利になる反面、テレビを持たなくても受信料を払う義務が発生する。いわゆるインターネットテレビはテレビではないから受信料を払う義務はないという方便が封じられる可能性がある。今も受信料を払わずにNHKをインターネットで視聴しようとすると画面の一部が遮断される手法が取られているが、これがより明示的に行われるはずだ。災害情報などは例外的に無料開放されるという。

 NHKも他の有料チャンネルと同様に課金を前提に番組を提供することとなる。AmazonやNetflixと違うのは独自コンテンツを制作しているか否かだ。課金するならばもう観ないと突き放す人が増えればNHKの経営は厳しくなっていく。これは私にとってはゆゆしき事態に思える。

 東日本大震災のとき、地震発生時からの初期報道を滞りなく行えたキー局はNHKだけであった。ある局は大阪発の番組の切り替えができず、大阪も揺れている程度の情報で済ませ、ある局は揺れる無人のアナウンス席を放映して不安を増大し、他の曲は通常番組を流し続けてかなり後になって字幕で震度などの情報を伝えた。あの時ほどNHKのネットワークと非常時対応力を実感したことはない。それが受信料批判などでとある団体から非難されたのは残念というより国家的損失を招くのではないかとも感じたのである。

 ネット世代の人々は自らも情報発信者になれることを知っているのだが、信頼と信憑性のある情報には金がかかるという事実に気がついていないのか敢えて無視している。

 今回NHKがネット情報に重きを置くようになったのはよいことだが、無責任な批判に屈して情報の質を落とすようなことがあってはならないと思う。オールドメディアなどと揶揄する者には、情報の質と公平さで対抗してほしい。

季節の変わり目はいつなのか

 9月下旬となってさすがに猛暑ではなくなった。半袖では少し肌寒いと感じる朝もある。ただ、日中はやはり暑く、端境であることを実感する。長期予報では10月も高温傾向であるという。やはり四季から二季への変化が起きていると言わざるを得ない。

古書街巡り

 神保町は古書街である。学生時代、私は何度となくここを訪れ、いろいろなものを買い、さまざまな経験を積んだ。

 私は公務員の息子で、親も節約生活を送っていたのは身に染みていたので、金銭の感覚は極めて渋いものがあった。外食はなるべく避け、しても最安値のものしか頼まなかった。大学にあった140円のカレーをほぼ毎日食していたのは別にやりたいことがあったからである。

ただ本を買うことには特別の意味があった。いまの様に資料がデジタル化されている時代ならば、ある程度は書籍への拘りはなくなっていたはずだ。当時はどれだけの書籍にアクセスできるのかで学問の業績がある程度決まったので、書籍獲得は必須の課題だった。

そんな訳で神保町に乗り込むときは私はかなりの覚悟で望んだ。場バイトで稼いだ金に、奨学金を加えて必要な本をまずは探す。100円でも安い本屋を探すために半日以上を費やした。買った本は韋編三絶とまではいかないとしてもヘビーローテーションで使い倒した。

いまはある書籍を使い倒すのは難しいです

自分とは何か

 自分とは何かという問いは誰もが一度は行う。容易に答えが出ないので、多くの場合は思考停止となる。そんなことは分からなくても日々の生活に困ることはない。むしろどうでもいいことをあれこれ考える方が時間の無駄ということになる。

 でも、自分を失うと厄介なことが起きる。現代のように常に他者の発信する情報に囲まれていると、果たして今の判断は私のものなのか、流行りの意見に迎合したのかが分からなくなる。迎合の意識があるうちはまだいい。自己判断を停止したままで周囲の環境に自動的に合わせて、それに違和感すらなくなっている人にとっては、最早自分の判断というものが消えている。彼らに自己責任を問うことはたやすいが言われた方には戸惑いが起きるだろう。私は決めていない。流行りに従ったはずだ。多分そうだと。

 こういう時代には自分が他者に操られる事態を起こしやすい。最近の流行語であるインフルエンサーは、他者への影響力が強い者という意味と心得ているが、この語が流通しているのは真のインフルエンサーが本当は少ないことを意味している。でも、多くは動かせないがいわゆるクラスタクラスの影響はあることになる。

 もし強力な影響力を持つ存在が権力の野望を持って登場すれば、容易に独裁者になれる。現代はその下地が整っていると言える。自分とは何かという厄介な問いを後回しにしているうちに事態は予期せぬ展開をするのである。

 多くの人が是といっても何かおかしいことがあればそれを指摘できる気概は保持しておくべきだ。多くの人にそれは変だけどと言われても、変と言っている貴方が変だと言える自己にならなくてはならない。情報社会において自己を保つのは難しい。でも、それができなければ危険な未来が待っている。

 

記憶の修正

 過去の出来事を思い出すときに、どうしても記憶の修正が起きることは常に実感している。他の人の同じ経験談に接したときにいろいろな差異があることに気づくのだが、それまではこうだと思い込んでいる。

 恐らく他人と比較しても互いに変化したものどうしを並べているにすぎない。写真とか動画などの方が事実との比較には良いのかもしれない。ただ、それらの映像も撮影した者の何らかの解釈が入っているはずだ。真実にはなかなか辿り着けない。

 科学的思考という考え方はそういった個人差を排除したもので、これが近代の私たちの前提になっている。でも、直線と思っていたものが実は曲面の上にあり、光さえも曲がると言われればもうその前提も怪しい。日常生活では気づかないほどの誤差であるにしても、実は真実を掴んでいるものはないという事実は変わらない。

 現実の何を意識し、それを経験として認識して、その中から何が記憶に残るのかは人によって違う。また、その日の体調とか周囲の環境によっても変わってくる。その上に経年の修正も加わるのだから、物事は単純ではない。

気温が下がると

 決して夏の暑さが終わった訳ではないが、今日はかなり過ごしやすく感じた。それまでが暑すぎたために、平年並みが涼しく思えてしまう。

 気温が下がるとかえっていままで気づかなかったさまざまな問題点が見えてくることがある。体調の変化を感じやすいのはこのときなのだろう。

 しばらく大きな行事がないので、ここはペースを崩さないようにしたい。

夜半の雨

 夜遅くなって雨が降り出した。予報ではもっと早く降り始めるとか、大雨になるかもしれないと言われていたが、そこまでではなさそうだ。先日、交通機関が止まるほどの雨があったので、敏感にならざるを得ない。

 雨の降る日の間隔が小さくなってきたことで季節の変わり目を感じられるようになった。

地元意識

 グローバルな時代であれば細かい差異はどうでも良くなるはずだが、実はそれほど簡単ではない。広範囲の流通を前提とすれば、最大公約数的な商品が大量生産され、個人的地域的な趣向性は優先度が低くなる。コストを減らすために多くの人が妥協できるラインを目指して作られるからである。

 このいわば合格点ギリギリのアイテムに私たちは比較的早く順応してしまう。それは価格とか手に入れやすさの方が選択基準の上位になってしまうことによる。本当に欲しいのはこれではないが、安いからこれでもいいか、といった妥協が容易になされてしまうのだ。

 ただ、この我慢も積み重なるとストレスになっていく。何か違うものに囲まれた日常が陳腐に見えてしまうのである。やはり、本物を目指そうという機運がときどき起こる。ただ、そのために費やす代価の大きさに挫けてしまうことも多い。

 個人的なオーダーメイドが無理でもせめて自分の所属するコミュニティの好むものを得たい。そういう気持ちが地域社会に定着すると、ちょっと高いけれど満足できる品物が集まっている店の経営が成り立つ。その意味での地元意識は意外にも大切なことかもしれない。

 満足できる品物を大切に使い、大量生産、大量消費、大量投棄のサイクルを断ち切ることが未来のこの国のあり方として適している気がする。