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癖をつける

 野球を始めた頃、グローブに自分の癖をつけることの大切さ説くコーチがいた。子どもにとってはこわいおじさんなので、言われることは絶対だった。確かに使い込むほどにエラーが減った気がするが、それがグローブのせいかどうかの証明はできない。

 どんなことでも自分なりの癖をつけることは効率化のためには必要だ。癖を習慣と置き換えれば、ルーチンワークのようなものかもしれない。大谷翔平選手も打席に入る前や、マウンドに上がる前の動作がある程度決まっている。同じ目的の動作をするときの行動ははたから見ると不思議なほど形式化しており、まるで儀式のようだ。

 やり方が変更され、なおかつそれを繰り返さなくてはならなくなったとき、つまり新しいルーチンワークが生まれたとき、この儀式を早く組み立てることが必要だ。これがたやすくない。はじめのうちは言葉に出して定着させよう。

 新入りの鉄道車掌が声を出し、指差しで安全点検をするのを見ると微笑ましくも頼もしくも思う。まずはあの方法を模倣しよう。

自宅以外でのデジタル文書作成

 この夏はあまりにも暑かったので、近くの図書館やカフェに「避暑」で行くことが多かった。紙の本をじっくり読むことが中心だが、やはりデジタルでメモをとったり文書を書いたりすることも必要になる。その際にはスマートフォンでは私としては物足りない。フッリク入力ではうまく入力できない。キーボードがないと入力までにアイデアが消えてしまう。

 そこで、最近ではBluetooth接続するキーボードを持ち歩いている。これは以前にも紹介したことがある。電池で動き、その寿命が長いので電源で困ることはない。

これをスマートフォンにつなげばとりあえず、入力のストレスはなくなる。キーを叩く際に音がほとんど出ないので図書館でも使えるのがよい。WindowsでもiOSでもandroidでも使えるのもいい。スマホのほうは100均で売っているスタンドにおいてディスプレイのようにして使っている。私の場合これが基本の使い方だ。

 WordやExcelといった文書を本格的に使いたいときは少し前に買ったsurfaceというタブレットを使う。これはプレゼン用に使うことを目的として低スペックのものを買ってしまったため、ソフトの起動の遅さなど10年位前のコンピュータの性能を思い出させるものだが、一度立ち上がればそこそこ使える。Windowsで動いているので基本的にはパソコンと同じ操作感覚だ。

 専用のキーボード付きカバーを追加で購入すればほとんどモバイルパソコンと変わりはない。上に紹介したものは教員が授業で使うのならこれで十分という情報のもとで入手したものだが、スペックが低いため、いざというときにうまくいかないことが多い。少なくとももう一つ上くらいのグレードがいいと思う。私はこれで十分だが。

 そして、本当に何とかしたいという場合は自宅の小型ラップトップを持ち出すことになる。1.5Kgほどあり、さらにアダプターなども入れるとそこそこ重たい。夏場はカバンをリュックサック状にして持っているので気にならないが、宿泊を伴う出張ではPCの出番となる。

 上に示したのは私が使っているのと同じくらいの性能だ。パソコンはもっと軽くて性能がいいものもあるが、予算との相談になる。私の場合はもう今あるものを使い倒すしかない。性能は低いが用途をしぼればほとんど問題は生じない。

 最近はどこでも無料のWi-Fiサービスを提供しているから、原則的にはそれを使う。気休めにVPNを通すがどのくらい意味があるのかわからない。Wi-Fiが使えないときはスマートフォンからのテザリングを使っている。少し前まではこれが大半だった。最近は公衆Wi-Fiが使えないときだけの緊急避難的な方法になった。

 東京や神奈川で生活している私にとってはこれでほとんどのことができる。あくまでもインプットをするための外出だが、アウトプットする手段も整ってきているということだ。数時間、ハンバーガーショップの席を独占していても迷惑にならない状況であれば居続けてしまう。マクドナルドの場合はコーヒーをクーポンを使って買えば150円弱だ。スターバックスやタリーズはコーヒーだけでも堂々としていられるのがよい。サンマルクカフェは電源の取れない席が多いがそれ以外は居心地がよく気にっている。もっともこれらは支店によって環境が大きく変わるだろう。

 こういったことはすでにご存じの方にとっては当たり前だろうが、知らない人には知っていればいろいろな利便性も生じることだろう。私は試行錯誤していまに至っている。このブログが本当はない書斎をデジタル上に作るという思いで作ったものだが、その仮想の書斎は自宅でなくてもいいことになる。

比喩の力で自分を救う

 行き詰った状況の時に突破口になるのが比喩の力である。現状を何かに例えると少しだけ気持ちが整理される。そのときにどのような心理が働いているのだろう。

 ここでは直喩を例に挙げる。「のような」「みたいな」などを使う比喩の方法である。今は大変な状況だがそれは「ジャンプするまえにかがむようなものだ」とか、「夜明けの前の暗闇みたいなものである」といった比喩である。これは自分の中にある悩みとか弱みを一般化することで深刻さを緩和する効果があるのかもしれない。

 ただたとえるものを間違ってしまうと逆効果になる。暗澹たるもの、終末的なものに例えてしまうと現実はそれ以上に深刻化する。自らを励ますためにはそれなりの語彙力が必要だ。明るい色合いの言葉をたくさん持っていることが自分を救う。

プロンプトも書けなくなったら

 ChatGPTなどの生成型AIではプロンプトをどのように書くかが重要な問題である。いわゆるプログラミング言語とは異なる通常の言語で指示を出すことが求められている。コンピューター言語を覚えるよりはるかにハードルが低くなったはずだが、そこには大きな落とし穴がある。

 生成型AIは今のところ言葉の意味を理解してはいない。もっとも可能性の高い言語のつながりを高速で検索し組み合わせているだけであり、書かれていないことや暗黙の了解といったたぐいのものは察することができない。プロンプトを書く場合は、コンピューターが何を検索して何を合成すべきなのかがわかるように指示しなくてはならない。これはこれで結構な国語力が必要だ。ちょっと大げさな邪推をしてみる。このまま文書などの作成をAIに任せていたら、将来の人間はまともな文章を自分で作成することができなくなるのではないだろうか。そしてAIにさえも指示が出せなくなるのではないか。

 別のものに例えてみる。車が普及する前、特権階級を除いて多くの人は自分の足で歩いて旅をした。時間はかかったが、自分の身体だけで目的地まで移動しえたことは現代人との大きな違いだ。そのため昔の人は持久力に優れていたともいえる。自動車に乗るようになった私たちは持久力を失った。原因はそれだけではないが、便利な道具ができると失う能力もある。これが足腰の筋肉ではなく、頭脳の話になると話は複雑になる。

 脳が様々な指令を出している人間にとって、言語の能力はその指令を効率よく伝えられるかどうかにかかわる。生成型AIはそのことを実に簡潔に顕在化させたといえるのだ。ならばこれからの教育の目的はAIにもわかる日本語を使えるスキルを教えるということになるかもしない。もしこれができなくなったなら、人間はAIという道具の持ち方が分からなくなるということだ。もし、そのような事態になったなら、それがシンギュラリティにあたるのかもしれない。コンピュータに追い越されるというより、人間の方が衰えていく。そういうシナリオが浮かんでしまうのだ。

 プロンプトの書き方をChatGPTに尋ねる人もいる。杞憂とは言っていられない状況がすでにある。

 

脱力してから

いつも張りつめているとできなくなることもある。実力者以上の結果を出そうとするとき、そこには無理が必ずある。無理してでも現状打破しなくてはならないこともあるが、いまはその時てはない。

脱力してから力を出した方が結果的に上手くいくこともあるものだ。急の前の緩は大切だ。8月の終わりは憂鬱になりがちだ。四月病ならぬ九月病も必ずある。それを乗り越えるには敢えて頑張らない選択も必要かと考える。

これは諦めることとは違う。時宜を考えるのだ。

送り火は再生の儀式なのかもしれない

 かなり前に京都で五山送り火を見た。前日に銀閣寺の裏手の山を登ると、送り火のための準備が進んでいたことを思い出す。16日の夜、ビルの屋上から見たいくつかの送り火は厳かで印象に残った。

 送り火はこの世に訪れた祖霊を冥界に送り返すためにともされるらしい。大文字のような大規模なものではなくても、かつては軒先で焚火する光景を見かけた。

 学生時代、先祖祭りの行事をいくつか見たが、その多くに祭りの終了を印象づける所作があった。片付けることも含めて祭祀になっているのだ。祖霊には期間が終われば確実にお帰りいただかなくてはならない。送り火もそのためのものなのだろう。

 祖霊を返し、再び褻の時間に戻ることは新たな日常の再開を意味する。祖霊祭りは、実はこの世に残された者たちの再生のための手段なのかもしれない。

歩行速度

 歩く速度で老化の度合いが分かるという。たしかに高齢者の歩みは遅く危うい。杖を突きながら長い横断歩道を渡り切れるのか心配になる方もいる。若者の足取りは軽く、その中間の年令の人々の足取りは人それぞれだ。

歩き方は人それぞれ

 歩行速度に年齢が出てしまうのはどうしようもない事実だ。私は自分では足が速い方だと思っていた。よく人を追い越していたからだ。しかし、最近は追い越されることが増えている。これを歳をとったから仕方がないと考えるか、負けずに後を追うかで老化の具合いは変わるのかもしれない。

 私が歩行速度が落ちているときには視線が下向きになっている。意識して上を見るようにすると、速度は落ちない。姿勢も良くなる。夏季は鞄をザック式にして担いでいるのだが背中の荷物が背骨に当たる感覚を大切にしたい。

 犬の散歩をよく見かけるのだが、犬の歩みにも年齢が出るらしい。駆け出しそうになるのを制されている若い犬もいれば、トボトボと歩き飼い主が歩みを待つ老犬もいる。犬用車椅子を装着して歩くものもいる。人同様歩くことは犬にも老化のバロメータであるようだ。歩くことは生物に取っては生存の基本であり不可欠な条件だ。いつまでも変わらずにというのは叶わぬ願いだが、せめて老化を早めることのないよう歩き続けるしかあるまい。

立秋

 暦の上では秋の始まりだ。東京は今日も暑い。酷暑に慣れてきたので、30℃は涼しく感じてしまう。大阪の最低気温が30℃と聞くとやはり今年の夏は異常であることを再認識した。

 台風の遠い影響で大気は不安定であり、複雑な雲が通り過ぎる。運が悪ければ豪雨にさらされるが、幸いその経験は7月以降はない。

 立秋と言っても名ばかりだ。将来的には秋という季節は極めて圧縮されてしまうのかもしれない。古典和歌の世界では春と秋が詠歌の季節であり、夏冬はそれぞれ次の季節の前置きのようなものだった。それが気候変動で四季は四等分されず、春秋は添え物になりつつある。

 秋の尊さを忘れないように文学や絵画に描かれた秋を大切にしたい。

見るだけ学習の落とし穴

 最近漢字が書けない生徒が増えた。いわゆる学力とは無関係に総体的に漢字力が落ちている。これは印象でしかないので調査が必要だが、先日ある会合でいわゆる進学校の先生方と話をしたときも同じ話になった。もっと言えば読むことはできても書けないというのだ。簡単な字であっても書かせるとおかしなことになるという。

 この原因はほぼ断言できる。字を書く機会が激減していることにあるのだろう。子供世代まで現在はスクリーン上で字を読み、書くときもコンピュータを使うということが多い。すると、文字を書く機会がないのである。漢字のような複雑な形をしているものは繰り返し自分で再現しなければ覚えられない。曖昧な記憶でもコンピュータの自動候補選択のおかげで済んでしまうが、詳細は分からなくなる。

 最近の子どもたちの学習で最もよく見られるのは赤いシートで文字を隠して用語を覚えるという方法である。それに対応した問題集がシート付で売られている。生徒諸君はこれを使って見事に英単語や歴史用語を覚えている。ただ、この方法は短期記憶しか形成しないようだ。テスト前の直前学習には向いているが、有効期限付きの記憶となり知識として蓄積されにくい。私たちがやるべきなのはやはり手を動かして要点を書きながらまとめるというパソコン普及以前の学習法のようなのだ。

 これは漢字や英単語、歴史や科学用語などの語彙のレベルの問題にとどまらない。思考を行う際に自分の言葉への変換というプロセスが欠けてしまっているため、複雑な考察ができにくい。分からなくなったらすぐに検索して他人の考察をつぎはぎするので、提出されたレポートは一見出来上がっているように見えるが、統一感がなく筆者の立場や主張が欠けているものが多い。それも手書きでメモを取り、自分の頭脳で再構成するという段階が抜けているからだろう。

 データの検索や分析は機械の助けを借りても、それを使って思考する段階ではやはり筆記用具を使った方法の方がはるかに効率的だ。この方法を使い分けなくてはならない。基礎的な学習段階では要点を手書きでまとめる力の育成に注力したほうがいい。教員の仕事はこの使い分けを教えることにある。

 そのためにはテストの形を変えて評価の方法を変えなくてはなるまい。用語を記憶するのではなく、要するにこれは何を言いたいのかを自分の言葉でまとめさせる解答を求めるのがよい。教員の立場でこの理想に想定される反論を考えるならば、理想的だが採点が大変であり、客観的評価が難しいということがある。記号で選べ、アが正解、の方がはるかに簡単だがこれでは「見るだけ学習」の打開にはならない。答えを自分の言葉で考えさせ、それを表現させるためには、思い切って問題数を減らし、記述させた答えを評価するための観点を確立させたうえで時間をかけて採点するしかあるまい。