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変わらぬ場所

 毎年同じ日に同じ場所を訪ねると懐かしさとともにいろいろ思うことがある。無常観といえばそれまでだが、話はもう少し複雑だ。

 日常的な生活空間は常に印象が更新されるので、その変化に気づくことは少ない。建物が建築されたり、取り壊されたりするとその瞬間は変化を感じるが、すぐに時間の流れの渦に飲み込まれ印象が薄くなる。自分自身も常に変化しているのにそれに気づくことはできない。今日の私と昨日の私は細胞レベルでは別の存在だ。それが1年前とか10年前とか期間を長くとればかなり変わってしまう。ベクトルを未来に向けても同じだ。1年後、10年後の自分は今の自分とは異なるはずだ。もっともその時に生きているかどうかは誰もわからない。

 こういうことを思い出すのは、同じ時期に同じ場所に旅をしたときだ。同じ風景に同じ空気に触れたとき、自分は変わったのにと思う。実際はその風景も変化している。その変化よりも己の変化の自覚の方が大きいからなのだろう。自分の変化を知ることは辛くもあり、厳しいことも多い。ただそれを知ることで救われることもある。その意味で日常を抜け出すことには意味がある。

励まし力

 かつて軽登山が趣味だった頃、よく言われたのは疲れたときには他人を励ませ、するとその相手は励まされ、自分自身も力が出るものだと。それは登山をする人には常識のようだ。

 他者を励ますことで自分まで癒やされるのはなぜだろうか。自分は疲れていないぞと虚勢をはって相手へのマウントを取り、気分的優位に立つから、という解答は合っていない気がする。そういうことではない。

 恐らく他者を激励することの行動のうちに、自分を鼓舞する内容が含まれているのだ。あるいは他者を励ます行動そのものが何らかのいい影響をもたらすのかもしれない。

 励ますために使う言葉にヒントがあるのかもしれない。人を励ます言葉を見つけた人は自分自身も励ますことができる、それが大事なことなのだろう。

死の意味

 死の意味を理解することは難しい。死の痛みは概念的ではなく経験的なものだ。しかも自分の死は経験できない。あくまで他人の死をもってその痛みを知るに過ぎない。

 人の死はいつも悲しいかといえば必ずしもそうでもない。ニュースで報道される赤の他人の死の報道で悲嘆に暮れることはない。死者多数の報道を視聴しながら私たちは普通に食事ができる。だがたった一人の死でも肉親や親しい人の死となると茫然自失となる。死の感じ方には死者との関係性が大きく関与する。

 だから、人生経験が少ない若い世代に死の意味を考えさせることは意外に難しい。すぐに死ねと口走る彼らに本当の死の意味は分かっていない。いや年齢の長幼ではない。本当に死の意味が分かるのは自分の死の直前であり、大抵の場合その意味を他人に伝えることはできない。

 私自身も人生の最終コーナー近くにいる(と思われる)くせにいまだに死の意味を納得していない。恐らくそういうものなのだろうという推理は少しずつできるようになってはいるが。

 若い頃に自分の死の場面を漠然と考えたことがある。その大半は外れ、運良く今日まで生きている。この先は分からない。明日かもしれないし10年後かもしれない。ただ確実に近づく死時を想像可能になった今、死の観念はかなり変わって来たのは事実だ。

 若い世代には言いたい死とは難しいものだぞ。

極めること

 どんなに下手でも極めることが大事なのだろう。私たちはすぐに他人と比べてせっかく始めたことでも自ら才能を見限ってしまいがちだ。でも本人が続けることに楽しみを感じている限りは続けるべきなのだろう。

 すぐに上達する天才もいるが、それよりも下手でも楽しくやれる方が幸せな気がする。極めることが大事だ。

また猛暑

 猛暑は一休みするという報道はあまり当てにならなかった。休み具合いが弱すぎてまた猛暑が戻って来てしまった。

 家庭用の空調は対応可能な範囲があるのだろうか。猛暑になると利きが悪くなって不快感が解消されにくくなる。近くのカフェに避難するが、うるさくて集中できない。今のところ、図書館が私の避難先だがここも席の確保が難しくなりつつある。

 ここ数日は仕事もあり、気も紛れるが休日はどうしようかなどと考え始めている。

ワルナスビ

ワルナスビ

 近々の公園を散歩していたら、茄子のような紫色の花と葉をもった植物が群生しているのを見つけた。よく見ると白い花もある。花自体はそれなりに美しい。実はかなり前からこの植物のことが気になっていた。どうして茄子がこんなにもたくさん植えてあるのだろうかと。こぼれ咲きにしては多すぎる。

 そこで例のGoogleレンズで検索をかけたところこれがワルナスビということを知った。北米原産の外来種で全国各地に分布しているのだという。ワルナスビは悪茄子という意味である。その悪とはこの植物に含まれる毒性のことを意味している。葉も実も食用にならないどころか中毒死の可能性すらあるという。ジャガイモの芽にも含まれるソラニンという物質がそれを引き起こすらしい。プチトマトにも似た実をつけるが口にしてはならない。

 さらに悪であることに、ナス科の植物であるためこれがはびこると本当のナスやジャガイモなどに連作障害をもたらすという。またニジュウヤホシテントウなどの害虫を呼び寄せることも問題になる。この意味でも食えない植物なのだ。4、5年前から私はこの植物を認知してたものの、実はもっと昔からあった。1906年に牧野富太郎が発見して命名していたという。20世紀の終わりごろには問題化されており、すでに積年の悩みであったということになる。鍬や耕運機ですきこんでも分断した根からまた発芽するというたくましさもこの植物の厄介なところだ。農薬なども効きにくく、根まで影響力のある除草剤をまく必要があるそうだ。

 身近な雑草にもさまさざまな物語があり、それがまたいろいろな影響を他に及ぼしている。ワルナスビの名を知ってしまった以上、この花を見かけると気になって仕方がないことになる。

集中のために

 マルチタスクが苦手な私は職場のなかで少し隔絶した場所に活路を求めている。次々に起きる事態に対応できないから、しばらく別の場所に身を置くことでなんとかしようというわけである。

 少し前ならば協調性のない行動として自ら取らない選択肢であった。しかし、恐らく脳の機能的低下もあって、これまで以上に中断や作業停止に弱くなっている。一度やめたものを復帰するのに能力がかかるのである。

 だから、思い切って自席を離れて仕事することにした。言い訳の仕方もいろいろ考えた。だが、一度やってしまうとあいつはそういう人なのだ認識されて特に断りも要らない。そこでは作業に使うものだけを持っていき、それ以外はしないようにしている。

 これでもう少し仕事ができそうだ。なりふりをかまってはいられない。

タカミネ

 Onceという映画を見たことがある。ダブリンの街角でという副題をつけて日本では公開されている映画だ。ストリートミュージシャンと移民系女性のラブストーリーだ。派手なアクションも、センセーショナルなシーンもない。ある意味純粋な恋の物語だ。

 映画版でミュージシャンの男が弾いているアコースティックギターのヘッドを見るとTakamineの文字がある。日本製ギターなのだ。しかもYAMAHAではなく。映画で見ればお分かりの通り、そのギターは大きな穴が開いており、損傷がはげしい。そのオンボロギターでラブストーリーが展開するところにこの映画の魅力がある。

 私もタカミネギターを持っており、もっとも大切にしている。オンボロになるまで弾き込んでいないのは残念だが。そろそろ出番をあたえてもいい。まだ指が動くか心配だ。

ひとりサマータイム

 信じがたいほどの暑い日が続いている。きょうももしからしたら猛暑日となりそうだ。スマホに表示される気温は朝5時というのに27℃ある。

 そこでサマータイムを個人的に導入することにした。1時間早く始動し、1時間早く寝る。この頃は4時になるともう明るいし、気温も高い。それでも昼間の猛暑に比べるとまだマシだ。寝苦しさもある。そこで早く起きて外に出ることにした。

 鉄道は5時台にならないと動かない。そこで、始発電車に間に合うように出て、終夜営業のカフェでモーニングを頼んで読書する。後は職場があくまで待つのだ。これで学習時間が確保できる。意外にいいアイディアではないか。しばらくはこうした毎日になりそうだ。