WordPressの通知で今日で700日連続投稿と分かった。この通知が始まる前から書いているのでもう少し長い。もはや日課となっている。専ら自分ために書いているから、読者も増えないし、それを望んでもいない。広告収入も増えない。でも、続けていくだろう。書けなくなるまで。
疲労
クレマチス
隣家のクレマチスが咲き並びだした。鮮やかなコバルトブルーと白の二種だ。もう何年も見させていただいている。南国を感じさせる派手な花柄たが、植物学的にはあれは花びらではなく萼なのだという。
南国と書いたが、現在の園芸種のクレマチスが出来上がるには、日本に自生しているカザグルマや中国由来のテッセンなどが交配されているという。シーボルトが日本から持ち出し、品種改良されたというから、紫陽花などと似ている。
俳句の季語としてはテッセンがよく使用される。蔓草の丈夫なのを鉄線に例えたのだろうか。その鋭い響きと、実際の花の可憐さの対比が面白い。美しいものには、何らかの裏があるというストーリーも浮かびやすい。
クレマチスをみると少し豪華な気分になるのがいい。困ったことは日常に溢れているが、それをわずかに忘れさせてくれる。
教育現場のデジタル事情
藤波
藤の花が咲き始めた。公園などに見られる藤棚はとても美しい。よってくるクマンバチには驚かされるが、彼もまた花の虜になった仲間と思えばよい。あちこちに藤の名所はあるが、私にとって印象的な場所があるので紹介しよう。
富山県氷見市にある田子浦藤波神社の藤は一見の価値がある。これは万葉集に収められているこの辺りで作られた藤の歌にちなむものである。8世紀の半ば、越中国守となった大伴家持は、任地の風土を多くの作品に残している。ひみのあたりは低湿地だったらしく、布勢水海と呼ばれる湖沼もしくは入江が存在したようだ。藤波神社はその推定地の中にあり、浮島のようになっていた小丘と考えられる。
神社の歴史も藤の花も万葉時代まで遡れる保証はないが、地元の人がそう信じてきたことは尊い。その神社の藤は山藤の類で、境内を覆い尽くすように絡みつき圧倒している。私が訪れたのは随分前のことだから、今はどうなっていることだろう。
私が見た藤の花では最も印象的なものの一つだ。他にもあるがまたいずれご紹介したい。
説教は快楽ではない
私は生徒の皆さんには分かったふりをしてほしくない。そういうもんだという不文律のようなものは確かにある。ならぬものはならぬという毅然とした態度も必要だが、単なる押しつけではきっと心には届かない。理由もわからず押し付けられたルールは理解されず、同じミスを繰り返す。
教員の方も単に規則だからとかモラルやルールを゙持ち出すのは控えたほうがいい。その説明を試みるべきだ。理不尽な問題もあるが、それもともに悩むべきなのだ。これはとても骨が折れる行為だが、やるしかない。
去年流行った歌に説教は快楽という歌詞があった。これは根本的に間違っている。人に自分の考えを伝えるのはかなりのエネルギーを要し、疲労困憊する。あの歌にあるオトナの僕がした説教とは恐らく教える行動ではなく、自説の押しつけのことだろう。そのアイロニーが滑稽に結びついている。教員の立場から言わせると説教は身を削る行為であり、快楽の対極にある。
何かを伝えることは受け入れる側との相互行為により成り立つ。それなりに時間と労力がかかる。生徒の皆さんには下手な忖度は不要だ。話し合おう。矛盾に満ちたこの社会のあり方を。
夏日
満員電車の乗り方
4月も半ばを過ぎて新年度の生活にもかなり慣れ始めた頃であろう。コロナ制限が解除され、元の生活が戻りつつあるのはうれしいことだ。ただ、困ったことも戻ってきた。満員電車である。
満員電車はリモートワークが推奨された期間は一時なりを潜めていた。それがリモートでは仕事が捗らないという体験から、徐々になくなり始めた。そして元の過密空間が戻ったのである。
満員電車に乗るためには降りるまでの行動を予め理解しておくことが必要だ。私のように終点前の駅で降りる場合、特に注意がいる。まずは降りられる位置に立つことだ。
ドアの前に立ってはならない。乗降の妨害になるし、場合によっては、新たに乗り込む人たちに押されて降りにくい位置に流される。だから、少し入った座席前の吊り革を確保したい。理想的には入り口から2〜3個目がよぃ。可能ならばドアから見て進行方向とは反対の、つまり後ろ側がよい。こうすると停車前のブレーキで慣性の法則と戦わなくてよくなる。
降りるときは一声、降りますとつぶやくといい。満員電車の乗客には一種の連帯感が生まれやすいので協力してくれる。ただイヤフォンで外界との連絡を絶っていたり、スマホに魂を売り渡している輩には通用しないので、軽く押すしかない。
この要領を心得ていないと降りたい駅で降りられないこともある。降りられなかったら、正直に上司なり教員なりに事情を話すべきだ。いまの時勢ならは許してくれるはずだ。ただし一度だけであろうが。
数年分の満員電車未経験者が今は狼狽している。案ずることはない。すぐに馴れる。そして来年の春、満員電車デビューの人たちを哀れむことになる。
自分を描く
小説のなかの「私」は自分のことではない。少なくとも読者はそのように考える。自分のことを「私」と語る架空の人物である。それを作者が創作し、読者はその創作の文脈に乗っ取って読む。
随筆になると「私」は筆者のことではないかと考えられる。たとえそれが真実ではなくても、文章の中ではそれは紛れもない筆者の体験の記録だと考えるのだ。読者の読み方がそのようになる。
ただ割り切れないこともある。随筆の中にも限りなく小説に近いものもあり、明らかに真実とは異なると直感できるものもある。こうなると随筆の「私」は筆者とは言い切れない。ただ、この筆者の経験が言動といった可視のものに限らないとすればどうだろう。例えば筆者が頭の中で考えたこと、妄想したことなども筆者の体験ともいえる。ならばそれを記したものは立派な随筆ではないか。
でも、そう考えると小説にも当てはまる。小説の中にも自分の経験を素材して書かれたものはいくらでもある。ならばそれは随筆ではないか。でも随筆という分類でその作品を読み直すと明らかに違和感がある。おそらく、創作性というものが切り落とされるような気がするからだろう。
作品の中で自分を描くのは実は結構難しい。ありのままの自分を描くことはできない。そこにはどうしても幾分かの物語化が起きるし、そもそも自分のことを自分が客観的に描くこと自体が難しい。日記やこのようなブログもそうだ。毎日書いているブログも自分のことを書ききったと実感することはほとんどない。自分を描くことは難しい。
当然、打消
古典を学習していると気づくことがある。完了の助動詞の「つ」「ぬ」「たり」と過去の助動詞「き」「けり」が連続するとき、必ず完了、過去の順に繫がり逆の例はほぼない。「てき」「にき」「てけり」「にけり」はあるが「けらぬ」は見たことがない。助動詞には繋がる順番が決まっているようだ。
では当然の助動詞「べし」と打消の「ず」の場合はどうか。多くの場合は「べからず」となる。当然、打消の順だ。逆はどうか。「ざるべし」の形はなくはない。どちらかといえば不可能や不適当を表現する場合に使うような気がする。当然の打消の場合は「べからず」のほうが優位ではないだろうか。
なぜこのようなことにこだわるかといえば、最近「へきではない」ということろを「ないべきだ」という表現をよく目にする耳にするからだ。「ないべきだ」は間違いではないのになぜか気になる。不適当の意味の「ない方がいい」の意味で使うならばいいが、不許可、禁止の意味で使うとどこかに違和感を覚える。
日本語の仕組みとして打消は最後にあって、その前のほとんどをひっくり返す。文の途中にあると部分否定のような趣になり、打消の意味が弱まることに原因があるのかもしれない。
こういうことを使用者が納得して使っているのかいなかはコミュニケーションの成否にとっては重大事項だろう。それを考えさせるのは国語教師の大切な役目だと考える。