投稿者: Mitsuhiro

シニア都市計画

 街の造り方がこれからは変わっていくはずだ。高齢者が増えればいまの構造は都合が悪い。段差、傾斜は極力少なくしなくてはならないし、文字表示は大きくはっきりさせる必要がある。これは少しずつ確実に起きていくだろう。

 交通機関もバスや相乗りタクシーのシステムを実態に合わせたものにしていかなくてはならない。こういうことは地方都市で実践されているから、その先例を検討すべきだ。

 高齢者を家に閉じ込めず、街に出させ消費者にさせることが、この国の課題となる。まずはそれで経済を回し、並行して少子化対策をしていく必要がある。高齢者をこどもの養育や学童クラブの指導者として活用するのもいい。働ける高齢者をいかに活用するか。街のハードとソフトのデザインを進めていかなくてはならない。

礼服

 この時期になると礼服を着ることが多い。日本の略礼服はネクタイの色を変えるだけで慶弔を切り替える。便利だが複雑な思いにもなる。この前これを着たときはどうだったかといった思い出が湧き上がる。そして、それはときに切ないものである。礼服をあと何度着るのだろうか。

周囲が気になるときは

 自分が周囲からどのように見られているのか気になるときがある。ちょっとしたことでも気になってしかたがなくて身動きができなくなる。一方で傍若無人に振る舞えることもある。

 周りの人は実はそれほど自分には関心はない。試しに今日電車の隣の席に座った人を思い出せるだろうか。恐らくどんな服を着ていたかさえ分からないだろう。他人の関心など本当は気にする必要はないのかもしれない。

 周囲の目が気になるときは、心の中で自分の存在が実態以上に大きくなっている。誰からも注目されているように感じてしまっているのだ。そういうときは少し自分から遠ざかる必要がある。自分を俯瞰できるといいのだが、そう簡単にはいかない。

 一つには広い風景が見える場所に身を置く方法がある。実は自分は世界の中では小さな存在であり、自分と同じような人は他にもいるということを実感するのだ。

 他には知らない誰かと話すことがある。自分のことを知らない人と話せれば、自分の存在が他人からどう見られているのかなど気にならない。何しろ知らないのだから。そういう人を探すことが難しい。こういう場を作るのが悩める人を救う方法なのだろう。

 小説や映画を楽しむのもいい。作品の世界を除くことは合せ鏡で自分を見つめることにつながる。作品を挟んで自分を少し遠くから見ることができるだろう。

 私もしばしば自分の姿を錯覚する。後で考えるとどうしてあんなに悩んだのかと思う。そのときに思い出したい。自分の思う自分は等身大なのだろうかと。

立ち直ること

 13年前のこの日は不安で包まれていた。東日本大震災とその後命名された大地震を職場で迎えた私は、交通機関が遮断され、電話が通じなくなった現実に直面していた。停電がなかったのが幸いだった。その後、部分開通した電車で途中駅まで行き、徒歩で帰り着いた。津波の被害や原発事故、その後の混乱などを知るのはそれからの日々だった。

 今年の元日の能登半島地震も驚いたが、考えてみれば数年間隔で大きな地震があり、その中には甚大な被害が出たものもある。世界の地震がかなりの割合で日本で起きていると聞いた。この先もそれは変わらない。

 災害に耐え、立ち向かうのはこの列島に暮らす人間の宿命であり、それに沿った文化形成がなされてきた。私はこれを再認識したい。立ち直ることがこの国の人々の特性である。

 震災のあと私たちはあきらめないことも学んだことは確かだ。それを思い出し現実に臨むこととする。

刻々と変わる関係

 中高生のみなさんにとっては4月は激変のときで、5月にその疲れが出やすいといった流れだろうか。交友関係が個別的なこの世代にとってはある個人との隔絶が人生の重大な局面のように思いがちである。

 でも、実際の人生というのは常に変化しており、交友関係もその時々で移り変わっていく。現在の親友が数年後も同じであるか否かは誰にもわからないし、分かったとしてもその度合は刻々と変わってとどまることがない。つまり、中高生のときは人間関係を静的に捉えがちであるが、実は動的なものなのである。この認識が獲得できるには人間的成長が必要である。獲得以前の世代であるからこそ悩みも迷いも尽きないのである。

 他人の評価も実は動的なものである。いま冴えない垢抜けない友人が将来もそうだとは限らない。私の経験でも生徒時代は地味で取り立てて能力もないと見下していた友人が、大出世をした例を知っている。今の人間関係が将来にわたって継続するはずはないのだ。

 私たちは他者を理解するときに図式的に単純化する傾向がある。それができれば自分の立ち位置も決まり安心ができる。しかし、先述した通り事態は単純ではない。若い世代の皆さんに言いたい。世の中はそんなに単純ではない。常に変化し続ける。だからどんなに変わっても生き続けられる最低限のスキルと身につけることを忘れずにいてほしい、そして、いまは孤立していると感じても、実は将来は仲間の中心にいるかも知れない。とりあえず前に進もう、と。

調整された記憶の量

 自分が生徒だった頃のことを実はほとんど忘れている。思い出というものはアルバムとか他人の話とか自分の記憶以外の手段によって再生され、その情報で上書きしている気がする。本当に自分が覚えていることは実は僅かであり、ほとんどが他人の記憶や記録との合成である。

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 何でも詳細に記憶することはできない。まして時間が経過すれば記憶の保存はほとんど期待できない。デジタル世界に慣れてしまった私たちはすべての物事が外部記憶として残ると何処かで信じている。しかし、肝心な自分の頭脳の容量は変わらないし、むしろ必死で覚えようとしなくなったことで退化しつつある。かつては家族と親戚の電話番号くらいは言えたはずなのに、いまは自分の電話番号でさえ忘れてしまうことがある。

 学生時代は学校と家との往復でほとんどの時間が費やされ、さまざまな出来事もそこで起きた。だから、濃厚な思い出が刻まれるはずなのに、数年経てば忘れ始め、数十年経てばかなり薄れて、先に述べたように他人の記憶の上書きが始まる。人間の記憶とはこの様なものであり、それによって人生は組み立てられている。

 私はこれは人類が進化の上で獲得してきた技能と考えている。過去の失敗体験にいつまでも囚われたり、成功体験が安易な過信にならないように記憶の能力を調節してきたのではないか。だからデジタル機器を使うのも大概にしたほうがいい。常に変化し続けている現実に合わせて対応するのが生き物というものである。過去の記録は今存在しないものの相互関係であり、あくまで参考にのみとどめるものとするべきなのだ。

卒業ソング

 3月9日というとこの名を持つ卒業ソングがある。2004年発売のレミオロメンの曲である。20年経った現在でも人気があるらしい。皆さんにとっては卒業の歌と言ったら何だろう。

 私はこの歌の世代よりはかなり上なのだが、素直な歌でありロックというよりフォーク調のこの歌は好きである。わかりやすいメロディであるがボーカルは自由な展開で同じように歌うのは意外に難しい。

 「学生時代」とか「青春時代」とか「卒業写真」といった懐かしい歌もなぜか覚えている。森山直太朗の「さくら」やRADWINPSの「正解」なども好きな卒業ソングだ。人生の節目を歌にすることで様々な思いが託されるのがいいのだろう。

 今年は何を歌おうか。

名残雪

 結局も積雪はわずかで露面は白く覆われたが、道路には雪はない。一安心である。この地域では名残雪となるのだろうか。4月に降雪があった記憶もあるからまだわからないが、最後と思うと惜しい気持ちになる。

 こういうふうに書くと私の世代はギターのアルペジオの前奏が聞こえてくるはずだ。懐かしい思い出とともに。

再び積雪か

 明日、関東地方平野部でも積雪の予報が出ている。数cmだというが、備えのない地域にとっては重大な問題だ。恐らくそれほど大変なことにはならないと考えるがこればかりはどうなるか分からない。

 かなり靴が傷んでいることに気づいた。日常的に使うものは意識しないと劣化にも気づかない。明日は無理だが、そろそろ買い替えの時期がきたと考えておくことにする。雪道を歩くのは少し危ないと思いつつ。

ローマ字表記法の変更

 70年ぶりに日本語のローマ字表記法の基準を変更することが行われそうだという報道があった。学校で教える訓令式が英語の綴りとかけ離れているためより英語に近いヘボン式に近い表記法が採用されるようだ。

 確かにサ行やタ行、拗音などの表記は訓令式で表示されるとかなりの違和感がある。Matidaは何とか想像がつくが、マティーダと読まれるだろうし、Sinzyukuは日本にある都市とはとても思えない。ヘボン式にすればまだ日本語の発音に近い読みを期待できる。

 ただ、それだけでは解決できない。最も困難なのが長音の扱いだ。長音を言葉の単位と考えている言語はそれほど多くはない。かつてオリンピックで活躍した大野選手は、現地の掲示にはOno と表記されていた。小野選手が同じ競技に出場していなかったのは幸いだった。大谷選手のユニホームにはOHTANIとあるが、長音がいつでもHで表せるわけではない。飯田選手のユニホームにはIIDAとあった。

 長音はヘボン式でも書ききれない。私がお世話になっている中央林間はなんと書けばいいだろう。アルファベットの上に横棒をつけるŌが今のところ最適解だろう。この字をスマホで出すのはOを長押しするといい。

 いずれにしても発音体系が異なるローマ字で日本語を完全に表記することはできない。韓国人の英語表記は日本よりもっと自由でバラエティに富む。イさんがなぜLeeなのか、パクさんがどうしてPark なのか。理由などない。そう決めたからそうなのに過ぎない。

 日本も自分なりの表記を決めてしまえばいいだけのことだ。それを海外にどれだけ説得できるかが国力というものなのだろう。