調整された記憶の量

 自分が生徒だった頃のことを実はほとんど忘れている。思い出というものはアルバムとか他人の話とか自分の記憶以外の手段によって再生され、その情報で上書きしている気がする。本当に自分が覚えていることは実は僅かであり、ほとんどが他人の記憶や記録との合成である。

Photo by charan sai on Pexels.com

 何でも詳細に記憶することはできない。まして時間が経過すれば記憶の保存はほとんど期待できない。デジタル世界に慣れてしまった私たちはすべての物事が外部記憶として残ると何処かで信じている。しかし、肝心な自分の頭脳の容量は変わらないし、むしろ必死で覚えようとしなくなったことで退化しつつある。かつては家族と親戚の電話番号くらいは言えたはずなのに、いまは自分の電話番号でさえ忘れてしまうことがある。

 学生時代は学校と家との往復でほとんどの時間が費やされ、さまざまな出来事もそこで起きた。だから、濃厚な思い出が刻まれるはずなのに、数年経てば忘れ始め、数十年経てばかなり薄れて、先に述べたように他人の記憶の上書きが始まる。人間の記憶とはこの様なものであり、それによって人生は組み立てられている。

 私はこれは人類が進化の上で獲得してきた技能と考えている。過去の失敗体験にいつまでも囚われたり、成功体験が安易な過信にならないように記憶の能力を調節してきたのではないか。だからデジタル機器を使うのも大概にしたほうがいい。常に変化し続けている現実に合わせて対応するのが生き物というものである。過去の記録は今存在しないものの相互関係であり、あくまで参考にのみとどめるものとするべきなのだ。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください